2 真偽の行方
「退院してからもしばらくはひとり暮らしをするのも大変だろうから、しばらくはうちに来るといい。もちろん国家保安本部へはわたしが送っていってやろう」
ウキウキと弾む声を隠せずに、突撃隊幕僚長のヴィクトール・ルッツェ突撃隊大将はマリーのベッドサイドの椅子に腰掛けてそう言った。
「娘もちょうど君と同じくらいの年頃だしな」
ルッツェに同行していた突撃隊参謀長のマックス・ユットナーは、そんなルッツェの言葉にぴくりと片方の眉尻をつり上げたが、結局そのときはなにも言わなかった。
ナチス親衛隊や国防軍とは事なり実質的な権限を今や持っていない突撃隊の司令部は、現在のところ国防軍に配属される兵士たちの訓練程度の仕事しか持ってはいない。もちろん、完全な素人を兵士として訓練しなければならないわけだから、突撃隊の担う役割は大きなものなのだが、それにしたところで事実上国防に関係する権限を全く奪われた突撃隊司令部としては欲求不満もはなはだしい。
それだけに、ナチス親衛隊と突撃隊との確執は深い。
ちなみにそれだけではなく、そもそもがナチス親衛隊とは突撃隊の下部組織だったことを考えれば、紆余曲折の末にドイツ国内での地位を乗っ取られることになってしまった突撃隊からしてみれば面白くなくて当然なのだ。
だからこそ、気易いルッツェの発言をマックス・ユットナーは危険だと思う。
彼女は突撃隊の「天敵」でもある、国家保安本部――ナチス親衛隊の人間なのだ。
一個人として好ましく感じるかどうかはともかくとして、マリーが敵であるということだけは突撃隊幹部として決して「忘れてはならない」。
つけ込まれるようになれば、突撃隊に待っているのは破滅にほかならない。
文字通り全ての権限を失うことになるだろう。
だからこそ、彼女の背後に存在しているものを忘れてはならない。
「ルッツェ」
しばらくマリーのベッドの横で話し込んでいる幕僚長を、マックス・ユットナーは呼んだ。
いいかね?
病室の窓際から手招く古い知己に顔を上げたルッツェは、マックス・ユットナーのしかめ面にわずかに眉をひそめるとベッドサイドに椅子から立ち上がり、参謀長に歩み寄る。
「親衛隊に肩入れするのは危険だとわかっているはずだろう」
前幕僚長エルンスト・レームを含めた多くの突撃隊幹部が、ナチス親衛隊の手に寄って「不穏分子」としての汚名を着せられて粛正されたのは一九三四年の長いナイフの夜での出来事だ。
バート・ヴィースゼーでレームが拘束されたのを契機に、百名を越える幹部将校が殺された。
たまたまルッツェはヒトラー派であったために粛正を逃れていたが、それでも結果的に突撃隊の権限が削がれた事実は面白くない。それはマックス・ユットナーも同じだった。
かつては国防軍をも凌ぐ勢力を誇った巨大なドイツの軍隊が今ではこのざまだ。
謀略は何者かによって”仕掛けられ”た。
彼らは素知らぬ顔を決めこむが、当時の勢力抗争と事件後の勢力関係の変化を見れば誰が背後で事件の糸を引いていたのかは一目瞭然だ。
ハインリヒ・ヒムラーと、ヘルマン・ゲーリング。そしてラインハルト・ハイドリヒ、だ。
突撃隊幹部の粛正によって、その権力はもはや有名無実化したこと。
「わかっている。あの日、そもそも奴らに付け入る隙を与えたのは、自分が権力を持っていると勘違いして舞い上がった愚図のレームだ。だから、我々は肝に銘じなければならんということも」
レームは思い上がった故に失敗した。
”権力者”を「友人」だなどと考えてはならない。
ヒトラーが彼を裏切ることなどしないだろう、という無意味な確信を抱いていたために突撃隊は実質的な権力を失い窮地に追い込まれたこと。
全て、何もかも。
ナチス親衛隊とエルンスト・レームの責任にほかならない。
「彼女のことはもうひとりの娘のようにも思っているが、それはあくまでも俺の個人的な感傷だ。ユットナー、君の弟が親衛隊の高官であることと”同じ”だ」
そう言われてマックス・ユットナーは思わず返す言葉に詰まった。
マックス・ユットナーの弟のハンスは、ナチス親衛隊――武装親衛隊作戦本部長官を務めている。
突撃隊、国防軍、そしてナチス親衛隊はそれぞれが密接に関わりを持ちながら、ドイツの国防に貢献していた。それゆえに、互いを煙たく思いつつも決して切り離して考えることなどできはしない。
「……だが、弟は大人の分別を持っている以上、彼女と同列に考えることはできはすまい」
「もう十六歳だぞ? それなりに大人の分別は彼女だって持っているだろう」
「”まだ”十六歳だ」
仮に大人の分別らしいものを持ち合わせていたところで、それはまだまだ未熟なものでしかない。
理想に満ちあふれた”大学生の子供たち”と大して変わらないだろう。
いや、大学生の子供たちはそれなりに勉強を重ねて視野の広さを持っているが、高等教育を受けていないマリーとは雲泥の差だ。
「あの子に大学生並みの視野の広さを期待するのは間違っている」
まっすぐで、純真で。
聞き分けの良い子供は、もちろん印象は悪くない。
しかし「それだけ」でしかないのだ。
「あの子は”何者”だ」
マックス・ユットナーの率直な言葉に、ヴィクトール・ルッツェはほんの数秒黙り込むと言葉を探す。
彼女は何者か、と問いかけられてもルッツェには答えが見つからない。
「……子供だ」
ややしてから応じたルッツェに、ユットナーは肩をすくめると長い溜め息をついてからじろりとベッドの上で笑顔をたたえている少女を眺めやる。
「今の彼女に接触するということをどういうことだかわかっているのか?」
マリーは国防軍による軍事クーデターの謀略に関与したという嫌疑をかけられている。そんな彼女と親しく言葉を交わせばどういう事態を招くことになるのかルッツェにもわからないわけがないはずだった。
ヒトラーは親衛隊やゲーリングの諫言に乗せられて、レームを粛正した。そして、突撃隊の幹部で生き残ったのは一部の者たちだけだ。
明確に反レームを宣言していたルッツェのような存在だけが粛正を免れた。
そこに存在しているのは、より複雑な権力争いだけである。
「わかっている」
もしもヒトラーが再び突撃隊に疑念を抱くようなことになれば、今度こそ突撃隊の終わりを意味している。
「……わかっている、ユットナー」
「ならばもう少し慎重になるべきだ」
たとえば親衛隊に反旗を翻したポーランド総督のハンス・フランクが権力をほぼ限定的なものとされてしまったように。今度こそ、突撃隊は全てを奪われ、親衛隊に飲み込まれる事態となるだろう。
そんなことは――突撃隊司令部として――許されない。
「だが、君こそマリーがそんな謀略に関わっていると思っているのか?」
「無論そんなことがあるわけもなかろうが、いずれにしろ謀略を巡らす者にとってみればものの道理もわかっていない子供の利用価値は大きいだろう」
「つまり、わけがわかっていないからこそ利用価値があるのだと?」
マックス・ユットナーの言葉に、苦々しい顔つきになったルッツェはあからさまに不機嫌そうにフンと鼻を鳴らしてから憮然として腕を組み直した。一方で男たちが深刻そうな顔をして窓際で小声で話し込んでいる姿を見つめていた少女は、放っておかれたことがつまらないのか、それともルッツェとユットナーの会話の内容を不安に感じたのか、手持ちぶさたに枕元の本を開きながらどこか困惑した表情を浮かべていた。
「……ルッツェのおじさま?」
「あぁ、すまんな。大した話ではない」
青い瞳に揺れた不安げな光に、ヴィクトール・ルッツェは左右に頭を振りながら彼女のベッドへと歩み寄った。
「君は、今回の謀略についてどう考えているのだね?」
唐突に確信を突いた彼の言葉に、マリーは黙り込んでから開いた本で自分の口元を隠した。
「どうって言われても、わたしなにも悪い事してませんし」
「君が本当に悪い事をしていないのなら、秩序警察の独房に放り込まれることになったことに対してもっと憤るべきだ」
そうあるべきだ。
ルッツェはベッドサイドの椅子に座り直すと、真剣な面持ちで静かな声で語りかけた。
「そんなこと言われても……」
口ごもってマリーは視線だけで病室の天井を見上げてから言葉を続ける。
「でも、カルテンブルンナー博士が助けにきてくれましたし、ヴェンネンベルク中将も別に結果まで考えてたわけじゃないと思いますし」
アルフレート・ヴェンネンベルクに悪気はなかったのではないかと、曖昧な口ぶりで言ったマリーは特に秩序警察長官代理に悪印象は抱いていない様子だった。普通の人間であれば理不尽な扱いを受ければそれに対して立腹してもおかしくはないというのに、彼女は怒りを感じていないようだ。
「でも、取り調べしてる皆さんはわたしなんかよりずっと頭が良い人たちばっかりですから、きっと正直に言えばわかってくれるんじゃないかと思います」
ニコニコと彼女が笑っている。
そんな「馬鹿のような」マリーの態度に、腕を組んで仁王立ちになっているマックス・ユットナーはルッツェの背後から厳しく問いかける。
「楽観視しすぎなのではないか? 万が一、君の有罪が確定すれば悪ければ死刑か、良くても強制収容所行きだぞ」
「心配してくれてるんですか?」
ユットナーの痛烈な台詞にマリーは口元を覆っていた本を上掛けに置き直すとにこりと笑った。
「そうではない」
思わず否定したマックス・ユットナーに、マリーは不満げに頬を膨らませて唇を尖らせると抱えた膝に顎を乗せて横を向いてしまった。心配しているわけではないというユットナーの言葉が彼女にはお気に召さなかったようだ。
「マリー、君の行動が軽率だと言っているのだ」
へそを曲げてしまったマリーに言い聞かせるような口ぶりになったマックス・ユットナーは、ふとノックの音が聞こえたことに咄嗟に壁に掛けられた時計を見やった。
「失礼する」
入ってきたのはふたりのナチス親衛隊高級指導者である。
ひとりは親衛隊全国指導者個人幕僚本部長官カール・ヴォルフ親衛隊大将と、もうひとりはマックス・ユットナーの弟――親衛隊作戦本部長官ハンス・ユットナー親衛隊大将である。
「……む」
兄とルッツェの存在に、うなるような声を上げたのはハンス・ユットナーで親衛隊全国指導者個人幕僚本部長官の存在を気に掛けたのか、ちらりと自分の横を眺めてからひとつ咳払いをしてみせた。
突撃隊参謀長を実兄に持つハンス・ユットナーは立場としてはひどく複雑なのだ。特にカール・ヴォルフはハインリヒ・ヒムラーの連絡将校であり副官でもある。だからこそ作戦本部長官のハンス・ユットナーと突撃隊参謀長のマックス・ユットナーの関係は組織間の微妙な問題ともなった。
「これは、親衛隊員の病室に突撃隊司令部の方々がいらっしゃるというのもおかしな話ですな」
「別に親衛隊員だから見舞いに来たわけではない、ヴォルフ大将」
嫌み混じりのヴォルフの言葉にぞんざいに応じた突撃隊幕僚長はわざと長い足組み直してから胸を張るようにして扉の前に立っている親衛隊全国指導者個人幕僚本部長官を見やった。
組織としては歴史の浅い親衛隊全国指導者個人幕僚本部の長官などにこれみよがしに侮られるような謂われはルッツェにはなかった。
「では偵察かなにかで?」
「今回の事件の真相が陰謀であろうことは明白である。仮にこのような陰謀がまかり通るような事態となれば国家の威信も傷がつくであろうし、親衛隊とて無傷ではすまぬだろう。問題の重大さを貴官は承知の上で陰謀に親衛隊全国指導者個人幕僚本部としてこれと言った打つ手もなく傍観しているつもりなのかと言っているのだ」
マリーに疑惑を向けられているというのに、彼女の上官であるカール・ヴォルフが行動を起こしているようには感じられない。それを皮肉ったヴィクトール・ルッツェに対してヴォルフは不愉快そうに眉をひそめると大股で闊歩するようにマリーのベッドに歩み寄った。
「問題は非常にデリケートであるから、それは突撃隊司令部になんら関わり合いがある話でもない」
不躾なルッツェの物言いに機嫌を急転直下させたヴォルフは、マリーのベッドサイドでヴィクトール・ルッツェとにらみ合った。
うんざりと息をついたのはハンス・ユットナーで、ルッツェとヴォルフのいがみ合いに対しては特に仲裁をするつもりもないらしく唇をへの字に曲げたままで、腕を組むと病室の窓際にしつらえられたソファにどっかりと腰を下ろした。
マリーの直属の上官であるヴォルフだけではなく、武装親衛隊の実質的なトップにあたるハンス・ユットナーが来訪したとなればただの見舞いというわけでもなさそうだ。ちらりと親衛隊高級指導者の弟を見やったマックス・ユットナーはゴホンと咳払いで、ルッツェとヴォルフの間で凍り付いてしまった空気を揺らす。
「我々は、彼女の見舞いに来ただけだ。ヴォルフ大将」
それで、とマックス・ユットナーは言葉を続けた。
「ユットナー親衛隊大将が来ているところを見るとそれなりに重大な問題になりつつあるように見えるが?」
親衛隊の危機と国防軍の危機。
国防軍にとって、政府首脳部の人間が誰に入れ替わろうが忠誠を誓うのは国家であってナチス党ではない。親衛隊にとってみれば、ナチス党直属の準武装組織ということになっておりそういった意味では国防軍と立場はイコールではないのだが、やはり国防軍同様国家に忠誠を誓っていることには余り変わらない。
「親衛隊が国防軍による謀議に関与したともなれば、”我々”武装親衛隊が国家の正式な武装組織を目指す上では大変な障害となるだろうことが予想される」
「そんなことがあるわけがないと言っている!」
ルッツェが声を荒げると、マックス・ユットナーは軽く右手を挙げて彼を制して弟のハンスを見つめ返した。
「マリーが謀略に関与していたとして、親衛隊が正式な武装組織化することに対する障害になるとはとても思えんが?」
「度重なる国防軍と親衛隊の失態が、総統閣下の信頼を損なっていることは明白だ。この期に及んで国防軍と親衛隊が共に国家に対して重大な裏切りを画策していたともなれば、親衛隊は”かつての”突撃隊の二の舞になるだろう」
今までの短期間で築き上げてきたヒトラーからの信頼が崩れ去ることをハンス・ユットナーは懸念していた。
「マリー……、ハイドリヒ少佐の潔白を証明するかどうかは”ともかく”として、事態の真相は究明しなければならない」
ハンス・ユットナーは気難しげな表情のままでそう告げた。




