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神々の黄昏 ― Vaterland ―  作者: sakura
XXI ゲヘナへの道筋
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15 小さなドクトル

 エルンスト・フォン・ラホウゼンの報告を受けて、ハンス・オスターとヴィルヘルム・カナリスは急遽、事態を重く見て今後の政府首脳部への対応について細かく検討に入った。

 国防軍情報部の本部、その会議室で簡潔にまとめられた資料を前に、カナリスは腕を組んだままで黙り込む。

「カイテルは当てになりませんし、ゲーリングは信用なりません」

 率直なオスターの評価に、カナリスはちらと目線を上げた。

 海軍総司令官のエーリッヒ・レーダーは細やかな気遣いのできる参謀屋だが、それ故に彼に対する評価は言うに及ばない。

「厄介な相手です」

 オスターの言葉に、先の欧州大戦をくぐり抜けた屈指のスパイ・マスターは、やはり自分たちと同じように反ヒトラー陣営の一角を形成する次席補佐官を見やる。

「確かにあの男の性格とやり方を考えれば、なきにしもあらず、と言ったところかと」

 ヒトラーに忠実な側近中の側近。

 少なくとも、表向きは。

「ふむ。……それで、今年の初めにあるこの記録はなにかね?」

 開いたファイルに挟み込まれた文書を指さしたカナリスに、ラホウゼンとオスターが同時に眉をひそめて黙り込む。

 当時、ドイツ国防軍はソビエト連邦との戦いは劣勢に追い込まれつつあった。時期的には丁度その頃と重なっていると言っておかしくない。内容としてはごく当たり前の近況報告のようにも見えがちな言葉使いにも見えるが、通信の相手が問題だ。

「これが事実ならば、”総統”に対する大変な裏切りだ」

 とんとんとカナリスの指がタイプライターで打ち込まれた数字とアルファベットの羅列を叩いて見せた。

 総統に対する大変な裏切り、という言葉になにか言いたげな面持ちで視線をやったオスターとラホウゼンに対して、「いずれにしろ」と言葉を続けながらカナリスは表情を変えずに腕を組み直した。

「戦争中の国家で政府首脳部に名前を連ねる者がやるような行動ではない」

 巻き込まれたのは国防軍情報部だけではない。

 ナチス親衛隊――国家保安本部も同じなのだ。

 少なくとも、その陰謀にハインリヒ・ヒムラーはかなり立腹している様子だ。しかし彼の性格上、大きなストレスを抱くだけで現実的にヒムラーの手足となって動くのは、その下に束ねられた多くの優秀な官僚だった。

 国家保安本部のヴァルター・シェレンベルクが不眠不休でまとめた航空省調査局の資料の中にあるデータを国防軍情報部に持ち帰ったラホウゼンは少しばかり訝しげな面持ちでファイルとカナリスとを見比べる。

 データによればマルティン・ボルマンは、年の初め、あるいはもっと前からソビエト連邦と接触していたことになる。

 もちろん、通常通りの人間関係を考えれば、カナリスやオスターも敵国に友人はいるし、それはヨーロッパ大陸にあってなんらおかしな話ではない。特に諜報の部門にいる人間にとって、それは大きな存在だ。

 しかし、そうしたところで親しくする相手が問題になってくる。

 特に閣僚級の人間ともなればなおさらと言える。

「ところで、オスター?」

「なんでしょう? 提督?」

 カナリスがふとオスターの名前を呼んだ。

 ハンス・オスターはがちがちの反ナチス党陣営だ。ヒトラーが政権を握った当初からその存在を面白くは思っておらず、これまでも幾度もクーデターの計画の中心的人物を担っている。

 カナリスやラホウゼンらと同じように頭の固く、そして正義感の強いオスターは今後もその態度を変えることはないだろう。

「最近の、ヒトラーをどう思う?」

「……――」

 問いかけられて一瞬黙り込んだ。

 素早く思考を巡らせるのはほんのわずかな時間だ。

 東部戦線は辛くも夏に行われた大攻勢によって冬が訪れる前に勝利を掴むことができた。だが、本当にそれで良かったのか、ともオスターは思う。

 確かに多くの命が失われなくてすんだというところでは幸いだったのかも知れない。しかし、もしかしたら、痛みをも伴う大手術がこの国には必要なのではないかともオスターは感じていた。

 そのためにはドイツは負けなければならない、とも。

 しかし、ポーランドの緒戦を始め、フランスでも勝利をおさめ、イギリス戦はともかくとしてソビエト連邦をなんとか押さえ込むことができた。それによってヒトラーは力尽くの外交姿勢を崩さないのではないかとも懸念する。

 東部戦線帰りのパウルスはその功績を認められて上級大将に昇進した。

 おそらく、年も明ければ次の作戦の準備に入るだろうが、そこにきて陸軍参謀本部によるクーデター疑惑だ。

「少なくとも、正常な人間の精神状態にある”生活”をしているとはとても思えませんが」

 独裁者というものは多かれ少なかれそういった不規則な生活に身をやつすものなのだろうか。

 強靱な精神は、強靱な肉体に依存する。

 ナチス親衛隊(SS)の唱える建前に全く異論がないわけではないのだ。そして、だからこそ「軍人」として教育を受けた彼らには、国家首脳部の人間たちの脆弱さが目についてならなかった。

「あのような不規則な生活を繰り返していれば、”わたしだって”気が狂います」

 ただでさえ一般人とは異なり多くなストレスに晒されるのが政治家だ。加えて戦時下ともなれば、その重圧は計り知れないものがあるだろう。けれどもだからこそ、政治家たちには強い精神力が要求されるのだと言うのに、ヒトラー政権の閣僚たちは決してそうではなかった。

「とにかく、仮に彼らに国家を率いる力が急激に失われているのだとして、今のところ彼らを引きずり下ろすための機会を失していることが現実と考えます」

 ヒトラーやゲーリング、ヒムラーやゲッベルスなどの民衆の求心力が急激に失われているのだとしても。今は、その時期ではない。



  *

 マリーが秩序警察(オルポ)の独房で倒れたという報告を耳にして、国民啓蒙・宣伝大臣のヨーゼフ・ゲッベルスはその病室へと訪れた。

「あ、こんにちは。ゲッベルス博士」

 隣の家のおじさんに挨拶をするような調子でマリーは見舞いの花束を持ちこんだゲッベルスにベッドの上から言葉を投げかける。

 読んでいた本を枕の横に置いて出迎えたマリーに、ゲッベルスはぴくりと片方の眉尻をつり上げてから軽く帽子を取ると目線を下げるだけの挨拶をした。

「少しは体調は良くなったのかね?」

 足を引きずりながらゆっくりとベッドサイドに歩み寄り、丁度回診中だったらしい若い医師に花束を渡してから勧められた椅子に腰を下ろした。

「はい、大丈夫です」

「まだ夜間は熱が上がると聞いている」

「はいー……、退屈なんですけど。ゲープハルト中将がまだ家に帰っちゃダメだって」

 肩を落とした少女の声にゲッベルスは首をすくめてから、唐突に彼女に突っ込んだ。

「わたしのことが怖くないのかね?」

「なんでですか?」

 彼女を陥れ、押し倒そうとすらしたというのに。

 今のマリーは素直にゲッベルスが花束を持って訪れたことに喜んでいる。

「君を襲ったのだぞ?」

「でも、今はゲッベルス博士はわたしのことを心配して花束持ってきてくれたじゃないですか」

 ゲッベルスはそう告げられて一瞬言葉を失った。

 確かに「いろいろと」心配して彼女の病室を訪れたわけだが、余りにも率直にマリーに告げられると、メンツも気になるゲッベルスにしてみればどう言葉を返せばいいのか瞬時には理解しかねた。

「……――君は、いったい誰の味方なのだね」

 数秒言葉を失っていたゲッベルスが問いかけると少女は、花束を抱えた青年医師が病室を出て行くのを確認してから神妙な顔つきになって口を開いた。

「わたしはナチス親衛隊の一員なんですよ? そんなこと聞かなくてもわかるじゃないですか」

 ナチス親衛隊の一員であり、国家保安本部の一員だ。

 そしてその肩書きはヒトラーの側近でもある。

「それもそうだが……」

 ナチス親衛隊――アドルフ・ヒトラーの直属の親衛隊。その肩書きに反して、ナチス親衛隊という団体が、ヒトラーに対する忠誠以外の感情も持っていることはゲッベルスも知っていた。

「率直に聞くが、君はわたしのことをどう思う?」

「別になんとも?」

 小首を傾げながらそう告げてからにこりと笑った彼女が身を乗り出すようにして、椅子に腰掛ける小柄なゲッベルスの瞳を覗き込んだ。

「”ゲッベルス博士”」

 唇に人差し指の先を当ててほほえんだ彼女に、ゲッベルスは白旗を揚げた。

 それはそれ、これはこれ。

 まるでそんなことを言いたげなマリーの笑顔に、ゲッベルスは以前彼女と最後に話した時の状況を思い出した。

 彼女は、ゲッベルスのほうこそマリーのことを嫌いなのではないかと言った。そして彼はそんなマリーの不躾な視線がひどく気に入らなくて、衝動的に彼女を張り飛ばしたのだ。

「マリー」

 ゲッベルスが少女の名前を呼んだ。

「敵はどこにいる」

「”そこ”に」

 即答されてゲッベルスは顔を上げた。

「……君を信じよう」

 マリーはいつもそうだ。

 ゲッベルスの権力を恐れてはいないし、自分の権力――そんなものがあるかどうかはともかく――の喪失も恐れていない。そもそも彼女は自分に権力があるとは思っていないからこそ、突拍子のない行動に出ることができるのかもしれない。

 無意識に少女の頭を右手で撫でてから、ゲッベルスは内心、彼女を警戒させてしまったかも知れないとも思ったが、特に彼に対して反応を見せることもないマリーはニコニコと笑顔をたたえたままだった。

 彼女は不思議な子供だ。

 不思議すぎて全く理解できない。

 敵は身のうちにいる。マリーはそう言っているのだ。

 ひどく不愉快な現実を突きつけられているというのに、彼女の物言いが耳に心地よく感じるのはいったいなぜなのだろう。

「ゲッベルス博士、お花ありがとう」

 足が不自由なヨーゼフ・ゲッベルスは、他の健康な人間たちのように機敏に動くことはなかなか不可能だ。足を引きずりながら立ち上がり、彼女に軽く片手を振るようにして踵を返したゲッベルスは扉を閉じる間際にマリーを振り返った。

「今度は君にわたしがお奨めのケーキでももってきてやるとしよう」

 伊達に宣伝相情報局を動かしていたわけではない。

 マリーが甘い物が好きなことはとっくに把握していた。


 翌日、ゲッベルスの名前で、再び招集されたのは国防軍三軍の総司令官とヒムラーだ。もっともたかが国民啓蒙・宣伝大臣でしかないゲッベルスには大した権限などありはしないのだが、それでも政府首脳部に大きな影響力を持ち、さらに未だにヒトラーの個人的な信頼の厚い彼が四人の高官たちを招集したことには大きな意味があった。

「わたしは宣伝大臣として今回の謀略と向かい合おうと思っている」

「……陸軍参謀本部の集まりに参加していた者の全てに罪があるのだとすれば、わたしも責任を免れないということになる」

 ゲッベルスの執務室のソファに腰掛けたエーリッヒ・レーダーが長い沈黙の後に告げると、小柄な哲学博士は表情を改めてから、貴重品のコーヒーに口をつけた。

「確かに国内に不穏な動きは多数あるだろうが、最も危険視すべきは我が国を陥れようとする者がごく身内に潜んでいるということだ」

 少なくとも、陸軍参謀本部は東部戦線でも、北アフリカ戦線でも状況を打開するために奮戦していた。それをゲッベルスは認めていないわけではない。

 陸軍参謀本部で行われた集まりが、少女のための勉強会であったことも報告書として提出されたが、提出を受けたヒトラーは、どうして親衛隊員が国防軍陸軍に親しく出入りしていたのかと理不尽な怒りをヒムラーにたたきつけた。

 すっかり萎縮してしまったヒムラーはそれ以来全く覇気がない。

「わたしは、別に……」

 小さくなってしまっている親衛隊全国指導者を見やった空軍総司令官のゲーリングは、そんなヒムラーを侮蔑するようにフンと鼻を鳴らして腕を組むと弱り切った顔つきのレーダーと、やはりヒムラー同様意気消沈しているカイテルを見やってから、ゲッベルスに視線を戻した。

 まるでカイテルやレーダーでは話にならないとでも言いたげだ。

「別にやましいところがあるわけでもなかろう。総統閣下も正直に弁解すれば理解してくださるだろう」

「問題はボルマンだ、国家元帥」

 ゲッベルスがゲーリングに応じた。

 あの男が全ての報告を一手に握っている。

 彼の権力拡大にとって邪魔になる問題を、マルティン・ボルマンが握りつぶしているのだという現実をゲッベルスが暗に指摘した。

 ボルマンは周りの人間からはさっぱり好かれてはいないが、それでも現在、巨大な権力を握っていることもまた事実だ。

「幸い、国防軍情報部と親衛隊情報部の双方から報告書も入った。ボルマンの力を削ぐには少なからず力不足だろうが、”彼女”の訊問が始まればあの男の企みも水泡に帰すだろう」

 ばさりとゲッベルスが二冊の報告書を放り出した。

「ボルマンが裏で動いていると?」

「大変な裏切り行為を働いている」

 レーダーが興味深そうな視線を上げると、ゲッベルスは言い切って四人の高官たちを見渡した。

 ちなみにゲッベルスにしてもゲーリングにしても、ボルマンが邪魔者であることには代わりがないので、その排除という見解については一致していた。

 自分自身の権力を拡大しようとして、専門外の戦争についてくちばしを突っ込んでくるボルマンが鬱陶しいことこの上ないのは、陸軍にとっての問題だけではない。海軍のレーダーも、そしてゲーリングもまた不愉快なものを禁じ得ない。

 そうして彼らは目の前に放り出された書類に手を伸ばした。

「ボルマンを手玉に取るつもりか?」

 ゲーリングがゲッベルスに問いかけた。

「人聞きの悪いことを言わないでいただきたいものですな。国家元帥」

 ゲッベルスが白々しく言葉を返す。

「わたしはただ総統閣下の障害となる存在を排除するだけです」

 プロパガンダの天才。

 そう呼ばれる男はぎろりと視線を滑らせた。

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