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神々の黄昏 ― Vaterland ―  作者: sakura
XXI ゲヘナへの道筋
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14 反撃ののろし

 先に会議室を出たヴァルター・シェレンベルクはすでに国家保安本部の玄関先に車を回していて、後から追いついたオットー・オーレンドルフは小脇にファイルを抱えながら深刻そうな面持ちで小首を傾げた。

「打開策はあると思うか?」

「人がやったことですからね、余程のことでなければ大概打開策などどこにでも転がっているものです。中将」

「確かに……」

 シェレンベルクが抱えるのは分厚い報告書だ。

 それは航空省調査局で記録をとられたものだ。さらに、山のように積み込まれたのは録音テープとそれらの解析データだ。

 てきぱきと鋭い指示を飛ばしている青年士官の横顔を見る限り、彼はこの一週間ほどの間激務に晒されていたらしく、少なからず顔色は良くない。一応それなりに訓練を受けている親衛隊員であるからマリーのように体力が皆無というわけではないから、相応の激務にも対応できるだけの体力を持ち合わせているが、それにしたところで膨大な文書と、盗聴データの解析を連日行っていたのだから顔色も悪くなりもするのだろう。

 そう冷静に分析しているオーレンドルフだが、実のところ彼も彼でシェレンベルク同様に激務の渦中にあった。

「対策本部は秩序警察本部に間借りをしています」

「それに対して政府首脳部は首を縦に振ったのか?」

「いずれにしたところで、国防軍と親衛隊を巻き込んだ大きな陰謀が存在していることは間違いありません。秩序警察本部に対策本部を置くことについて、総統閣下の許可を取り付けたのは前ゲシュタポ長官の国家元帥閣下だと聞いておりますが、あちらでもいろいろあったのでしょう」

 まともに考えれば疑惑の主である国防軍と、親衛隊に今回の軍事クーデター疑惑に対する捜査の本部を国防軍情報部と親衛隊情報部におくことなど考えられない。とはいえ、これは党本部がどう出張ってきたところで、捜査の専門家たちではなくその真似事をしようとしても結果は目に見えている。

 捜査するのであれば信頼できる捜査機関に委託すればいいのだが、今回は国防軍と親衛隊とが共に陰謀の主であるとされて、苦肉の策として秩序警察本部の捜査機関に手を借りることになったのだが、こうした謀略めいた事件など専門外にも等しい秩序警察はほぼお手上げ状態であり、結局卓越した解析能力と捜査能力を持つ国家保安本部と国防軍情報部(アプヴェーア)の手を借りる必要性に駆られることとなった。

 こうした事態になんだかんだと水面下で動いて余裕のない人材をゲシュタポと刑事警察から引き抜いたカルテンブルンナーの機転には頭が下がるが、シェレンベルクとオーレンドルフが見たところでは、要するにハインリヒ・ミュラーとアルトゥール・ネーベに無理を言って捜査員を工面しただけのことだから、エルンスト・カルテンブルンナーがなにかをしたということでもなかった。

「トップは気が楽でいい」

 ぼやいたオーレンドルフにシェレンベルクはかすかに口元だけで笑う。

「問題は山積みだ。国防軍情報部の連中が、どれだけ我々を信頼するか」

 なにせ互いの確執が余りにも激しかった。

 親衛隊情報部も国防軍情報部を頭から信頼しているわけではないし、その逆にも同じ事が言える。同じ諜報部門であるからこそ、互いがどれだけ油断ならない相手であるのかを良くも悪くも理解していた。

 ちなみにマリーは今のところ、入院したっきりでヒムラーの側近であるカール・ゲープハルトからの退院の許可は出ていない。そのためベストが病室に彼女の仕事を持ち込んで進めているらしいが、それも彼女が休んでいられない立場にあるためだった。こうした事情から、国家保安本部関係者以外の面会は大きく制限されることになったらしい。

「そういえば、中将」

「どうした?」

 公用の黒いベンツの後部座席に乗り込んだシェレンベルクは隣に座るオーレンドルフに言葉を投げかけて長い睫毛をしばたたかせる。

「イェンス・イェッセン教授を覚えておいでですか?」

 イェンス・ペーター・イェッセン。

 その名前に、オーレンドルフはかすかに片方の眉尻をつり上げた。

「俺が忘れたとでも?」

「いえ、そういう意味ではなく」

 自分の記憶力を馬鹿にしているのか、とでも言いたげなオーレンドルフの不満げな声色にシェレンベルクは、「そういう意味ではない」と彼の不満を否定してフロントガラスの向こうに流れていくベルリンの街並みを見つめてから背筋を正した。

「国家保安本部を離れてから、陸軍の予備役に就いたことはすでにご存じのこととは思います」

「……予備役と言っても、イェッセン博士はもうすぐ五十だろう。前線で役に立つとはとても思えないが」

 前線で任務を行う体力を持ち合わせているとは思えない。

 しがない経済学者だ。

「ですから”予備役”だと申し上げました」

 合点がいかぬといった様子のオーレンドルフにシェレンベルクはそう言った。その段になってオーレンドルフは「なるほど」と口の中で呟いてからひとつ頷いてシェレンベルクを見やると顔の前に人差し指を立てる。

「つまり、イェッセン博士は国防軍内でもそれなりの地位を”認められて”いるということか」

「そうなるかと考えます」

 彼は国防軍からもそれなりにその知性を認められていると考えるのが妥当だ。そして、国家保安本部に所属し、そのやり方を熟知しているイェッセンともなれば特に反ヒトラー陣営として名高い陸軍参謀本部や国防軍情報部から重用されて当然のことと言える。

 かつては国家保安本部にその能力と知性を寄与したイェンス・ペーター・イェッセンにどんな心変わりがあったのか。

「中将は、イェッセン博士が我々の不利益のために動くような人だと思いますか?」

 かつて師事した経済学者の顔を思い浮かべたのか、オーレンドルフはシェレンベルクの言葉を受けて胸の前で腕を組み合わせると片目を細めてみせる。

「どうだろうな」

 ややしてからぽつりとつぶやいた経済の専門家でもあり、弁護士でもある青年は視線をさまよわせてからしばらくの間なにかを考えているようだった。

「あの人が俺たちとは考えを異にしていることは確かなことだった。もしかしたら、異民族に対する強硬な政策が気に障ったのかもしれない」

 国家保安本部は権力の執行者だ。

 政治首脳部は上から命令しているだけで良いが、命令されたほうは見ているだけというわけにはいかない。相応の手段を講じて命令の遂行をしなければならないのだが、それがなんとも精神的に大きな負担を強いる行為であることは明白だ。

「別に”わたしたち”が処刑するわけでもないのですから、それほど深刻に受け止めることもないでしょうに」

「シェレンベルクはそう言うが、人の心というものはそれほど簡単に割り切れるものでもなかろう」

 人を殺すこと。

 人の死ぬ現場。

 そうした場所に不慣れな者にとっては、その場を想像するだけでも大変な不愉快を感じるだろう。

 そもそも、ドイツの死刑とはかつてはマイスターの仕事であり、一般的な仕事ではなかった。その禁忌が強制収容所やゲットーなどでは半ば公然と破られている。もちろん、多すぎる異民族の再定住に関して少数のマイスターだけでは対応しきれるわけもないし、それらの問題はマイスターの仕事であるわけもない。

 ――人の形をして、感情を持ち、人の言葉を話す。あるいはかつての自分の知人や友人たちを手に掛けなければならないというその恐怖を、容易に乗り越えることなどできるわけもない。

 おそらくそういうことなのだろう。

 やんわりと応じたオーレンドルフに、シェレンベルクの方は関心なさそうな顔をしてから肩をすくめると窓の外に視線を放った。



  *

 それからしばらくして秩序警察本部に到着した彼らは提供された空き部屋に大量の書類を運び込ませながら、シェレンベルクとオーレンドルフはやはりほぼ同じ時刻に到着した国防軍情報部(アプヴェーア)二課のエルウィン・フォン・ラホウゼン陸軍大佐がいた。

 気難しげな目鼻立ちが印象的で、シェレンベルクの知るところでは、反ヒトラー陣営に名前を連ねるアプヴェーア長官ヴィルヘルム・カナリスの腹心的存在でもある。

 もっともシェレンベルクにしてみれば、相手が反ヒトラー陣営であろうがなんだろうが余り関係のある話でもなく、シェレンベルク自身の利益に繋がるのであればそれが反ヒトラー陣営であろうと、親ヒトラー陣営であろうと勝手にやっていれば良いと言うのがもっぱら彼の見解だった。

 オーレンドルフの手前、形式的に「ハイル・ヒトラー」と敬礼をしたシェレンベルクだったが、気難しげな表情を欠片も崩さないラホウゼンに形ばかりの会釈をしてから、運び込まれるファイルを横目にして、窓際におかれたテーブルの椅子を引き寄せた。

「事態は切迫しておりますので、余計な腹の探り合いは我々としても好みません。ラホウゼン大佐」

「それはこちらも同じだ。さっそく本題に入らせてもらうが、実際問題として君らはどこまで今回の問題を深刻視しているのか知りたいものだ?」

 つけつけとぶっきらぼうに言葉を続けたラホウゼンを観察するように凝視した。

「すでにご存じのこととは思いますが、親衛隊情報部のほうでもすでに調査局の盗聴データを取得し、解析にかかっております。このままごとのような謀略は、それこそ国家元首に対する比類ない裏切りに他ならないことは突き止めております」

 裏切り――。

 その言葉にぴくりとラホウゼンの頬の筋肉が動いた。

 もちろん国防軍には大きな反体制派が存在することはシェレンベルクも知っている。しかし彼らの動きがほとんどないことを十分に承知していた彼はあえてその動きが外面に見えてくるまで放置していた。とはいえ、その反ヒトラー陣営がどこまで深く根を張り、どれだけの将校が関わっているのかということは未知数のところもあった。

 プロイセン時代から続く陸軍の伝統は、とてもナチス親衛隊とは相容れない。しかし戦争をやる以上、国防軍にとってもナチス親衛隊という存在は必要不可欠だった。

 彼らはただのならず者ではない。

 それが国防軍の認識だった。

「突き止めた?」

 シェレンベルクの断定的な言葉にちらりと神経質そうな目を上げたラホウゼンは、わずかに考え込んでからふたりの弁護士の青年を交互に眺めてから差しだされたファイルに視線を落とす。

「ラホウゼン大佐もご理解していらっしゃるでしょうが、このまま状況が展開すれば来春には新たな作戦が開始されます。その前に、参謀本部ががたがたになるような状況にあっては作戦行動に支障をきたすものと本官は考えております」

 つまるところ、早急に問題は解決しなければならないのだ。

 それはラホウゼンにしても、その上官のカナリスにしても充分に承知しているが、問題解決のための糸口が見えてこない。

「アプヴェーアのみならず、謀略の主は国家保安本部の弱体化を企んでおります」

 シェレンベルクの台詞に、ラホウゼンは内心で「国家保安本部の権力が削がれれば願ったりだが」と考えるが、さすがに現在のこの状況では口に出さない。

調査局(FA)の盗聴記録を解析したと申し上げましたが、この件にはおそらく官房長が大きく関与しているものと考えます」

「……マルティン・ボルマンか」

 総統代理――そう呼ばれたルドルフ・ヘスがいた頃から、彼の片腕として様々な仕事をこなしていた男だ。

 存在感が薄く、少々奇特なところがあったが、正直に言えばボルマンほど権力に取り憑かれていたわけでもなければ、嫌われていたわけでもない。良くも悪くも凡人だっただけだ。

 権力と女にしか興味がないのではないかとも思える低俗な男――マルティン・ボルマン。

 その名前にしばらく考え込んでいたエルウィン・フォン・ラホウゼンは、ファイルに綴じ込まれた盗聴の解析ログに憮然として肩を怒らせる。

「女のことばかりだな」

「彼は党の金庫番であることを良いことに、独断で党の資金を運用しております。総統閣下の権威誇示のためと言えば聞こえは良いですが、権力者に取り入ろうとしてその”恋人”に下着を送るなど、自己満足以外の何物でもなく下劣な男のやることに他なりません」

 権力者の恋人。

 シェレンベルクは名指しこそしないが、その場にいたオーレンドルフとラホウゼンにはすぐに合点がいった。

 アドルフ・ヒトラーの恋人、エヴァ・ブラウン。

 問題はヒトラーの周辺における人事だ。

 ボルマンをはじめ、多くの無能な凡人が自分の権力を拡大するために戦争を利用しようとしている。

 国の安定がなければ、権力などあるだけ無意味なものだということを果たして彼らは理解しているのだろうか? それとも気楽な推論を元に、自分は国家の重要人物なのだから丁重に扱ってもらえるとでも思っているのだろうか?

「おめでたいものです」

 シェレンベルクは冷ややかに笑った。

「ヘスがいないことは幸いでした」

 幸いだったと冷たく告げるシェレンベルクに、興味深そうな眼差しを注ぐのはオーレンドルフだ。かつて総統代理と呼ばれ、単身イギリスへと「和平交渉」のために飛行機で渡った奇人変人がいなくて幸いだというのはどういうことだろう。

「彼ならおそらくボルマンをかばったでしょう。しかし、今はボルマンを心からかばう者などおりません」

 自ら権力者のより近いところへと接近しようとする無能な反逆者。

「彼は自分自身の欲望のために、総統閣下を……――、そしてドイツを陥れようとしているのです」

 戦時にあって国防軍を不用意に弱体化させるとはそういう意図しか考えられぬ。彼は、陸軍の将軍たちの影響力を恐れているのだ。

「自分自身の本分をわきまえなければどういうことになるのか、彼は知らなければなりません」

 ――国家とは、一部の権力者たちだけのものではない。

「つまり戦争に勝つためには、貴官としては軍部の権限が縮小されるのは問題有りと考えていると言うことか?」

「そう考えていただいて構いません。勝たなければ話になりませんから」

 自分の権力を守るためにも、まずは戦争に勝たなければ意味はない。シェレンベルクはきっぱりとそう言い切った。

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