9 移ろう世界
アメリカ合衆国の第三四代大統領として下院議長から繰り上げ人事として大統領に就任したサム・レイバーン下院議長の副大統領として、ハリー・トルーマンが就任した。
こうしたアメリカ国内の動きを察知した親衛隊情報部のヴァルター・シェレンベルクだったが、表面的には顔色を変えずに部下たちからの報告を受け取ったに過ぎなかった。
「トルーマン、か」
これは一波乱がありそうだ、とシェレンベルクは思った。
トルーマンは白人至上主義者として有名で、一九二〇年代にはあの悪辣なKKK団にも参加している。
アメリカのもはや公然化した秘密結社――KKK団。
神のお告げだの、特定の人種の優位性だの。まったくもってくだらないことこの上ない。シェレンベルクは冷ややかに部下の報告書を一瞥して小さく鼻を鳴らした。
もっとも、とりあえずシェレンベルクが注意を傾けなければならないのは、ハリー・トルーマンのことではない。
ナチス親衛隊すらをも巻き込んだ、誰かしらによって謀られた国防軍による軍事クーデターの陰謀疑惑。おそらく、この疑惑によってかつての突撃隊幹部の粛正と同様に、国防軍及び親衛隊に潜む反ヒトラー陣営と、積極的ではないヒトラー派たちをあぶり出して見せしめとして極刑を下すことこそが目的だろう。
国防軍や親衛隊の大物が処罰されればそれだけで、国民の政権に対する批判ムードは減退する。それに乗じてヒトラー陣営を名乗る「ならず者」たちが勢力拡大に勤しむだろう。
そしてそれらの行動は一見しただけではヒトラーにとって耳障りの良い言葉を吐き出すため、利己的な権力欲から出たものとは受け取られることはない。
ヒトラーに対する忠誠。
それが国家元首アドルフ・ヒトラーの視界を狭めている。
――もしかしたら、それだけではないのかもしれない。
ヴァルター・シェレンベルクはちらりとそんなことを考えてから、自分の腹部を軽く押さえた。
強靱な精神は、強健な肉体に由来する。
それを青年はわかっていた。
いずれにしろ、アメリカの大統領としてサム・レイバーンが、そして副大統領にハリー・トルーマンが就任したとして、それをどうこうできるような力などシェレンベルクは持っていない。現状、見守ることしかできないのであれば、感情的になったところで意味はない。
ばっさりと状況を一刀両断してから、彼はゲープハルトの部下として最近になって国家保安本部入りしたばかりの医師がマリーの入院先の病院から持参した報告書に目を通しながら片目を細めた。
ほんのつい最近までロシアの戦場で、味方の兵士たちの中の生き残るべき者と、死んでやむを得ない者とを選別していたという武装親衛隊の医師。
博士号も所持していたから一般的には「知識人」の肩書きを持っている。だが、その経歴にシェレンベルクは着目した。
「藪医者だな」
侮蔑したようにひとりごちて、シェレンベルクは執務机の上に広げたファイルを凝視したままで腕を組み直す。
カール・ゲープハルトも、青年医師のヨーゼフ・メンゲレの医師としての経験を重視はしていないようで、今のところ、それほど重要な仕事は彼に任せることをしていない。一応、シェレンベルクにも人並みの医療知識はあるし、大学に入学したばかりの時は医師を目指して勉強もしていた。
マリーの容態について書かれたゲープハルトの報告書は、やっと症状が峠を越えたことを示している。咳や熱が続いていることも書かれており、今のところ体力のない彼女の事だから楽観視は望ましくないということだ。
「これでは年末までは入院ということになりかねないな」
かわいそうなことだが、とシェレンベルクは形式的に考えた。
マリーはひとり暮らしだから、いつ病状が悪化してもおかしくないような状況でアパートメントに帰すことは考えられない。
「ふぅむ……」
年寄りのようにうなり声を上げてから、シェレンベルクは唐突に彼の執務室へ入ってきた国家保安本部長官の姿に瞠目した。
もはや条件反射のように相手の正体と階級とを頭の中で識別して、シェレンベルクは一瞬で立ち上がると右手を挙げた。
「ハイル・ヒトラー! 長官閣下!」
そんな形式的なシェレンベルクの態度に、エルンスト・カルテンブルンナーはちらと眉尻をつり上げただけで、シェレンベルクのデスクの上に広げられたファイルに視線をやった。
「マリーの容態の報告書か?」
「はい、たった今、ゲープハルト中将から報告を受け取りました」
「例のメンゲレか?」
「はい」
カルテンブルンナーは医療に関しては全くの門外漢だが、そんな彼でもそれほどメンゲレの医師としての知識は信頼していない様子だ。臨床経験がなければ医師としての信頼もへったくれもないのだが、自称父親としてはやはりかわいい愛娘を任せるには優秀な医師の方が良いと言うのも頷ける。
「しばらくは入院による加療が必要だと言うことです。信頼できる預け先があれば良いそうですが……」
「あの子はひとり暮らしだからなぁ」
シェレンベルクの簡潔な言葉に、カルテンブルンナーは顎を軽く撫でながら眉間にしわを寄せて考え込んでいる。
「体力がもう少しあれば、我々……――わたしとしても安心なのだが、どうしてああも体力がつかないのだと思うかね?」
問いかけられてシェレンベルクは内心で「そんなこと俺の知った事か」と考えるが口には出さない。なにせ相手は天下の国家保安本部長官で、シェレンベルクの上官にあたる。少々偏屈で、思い込みの激しい男が娘のように大切にしている少女に対してシェレンベルクが憎まれ口のひとつも叩こうというものなら、話がややこしくなるばかりだ。
「では、病気が完治した来年辺りから、親衛隊婦人補助員らと一緒に運動会にでも出しますか?」
ヴァルター・シェレンベルクの建設的な物言いに、カルテンブルンナーは無言のまま肩をすくめてみせる。要するに、それは余り彼としては賛成できないと言うことなのだろう。
ナチス親衛隊に関係する婦人補助員らの多くは、ドイツ女子同盟の中でもオーバーエンハイム親衛隊帝国学校を卒業したドイツ人女性の中でもエリート中のエリート。世間一般的にはそう認識されている。
健康的で、ドイツの母となるべくして認められた女性たちだ。
しかしその実態は……。
「あんな下品な女たちとマリーを一緒に運動会に出すというのか?」
「下品ですか」
エリートコースを邁進していると頭から信じて疑わない下劣な品性を、カルテンブルンナーは蔑みの対象として見ていた。
特に、ドイツ女子同盟とナチス女性同盟だ。
彼女らの一部は強制収容所の女性看取としても登用される。
国家保安本部の長官として多くの捜査に携わるカルテンブルンナーは、そんなエリートとされる女性たちの居丈高な鼻持ちならない態度を知っている。そうして彼女らは、親衛隊幹部の男たちを籠絡しようとするのだ。
そんな堕落の巣窟にマリーを放り込むようなことは、カルテンブルンナーとしては正直ぞっとしない。
「考えすぎではありませんか? 閣下」
「マリーは競争とか、権力争いとかそうしたものが苦手だからな。あんな、周りの人間は蹴落として当然というドイツ女子同盟の理念を前面に押し出したような運動会に参加させるのは反対だ」
マリーはどんな嫌なことをされてもニコニコと笑っている。
時には、同じアパートメントに暮らす同年代の少女たちに嫌がらせをされることもあるくらいだ。そんな身に覚えのない嫌がらせを受けても、笑顔を絶やさない。そして誰かに告げ口をするわけでもない我慢強さが、カルテンブルンナーには健気に思えてたまらない。
わたしが守ってやらなければ。
カルテンブルンナーの勝手な思い込みはともかくとして、シェレンベルクはやれやれと小首を傾げてから執務机に開かれたファイルを片手で閉じる。
「そんなに意地の悪い女性たちばかりとは思えませんが」
ナチス女性同盟にしろ、ドイツ女子同盟にしろ、そこに所属しているのはヒトラー・ユーゲントらと同じでごく一般的な少女たちだ。
彼女らの全てが政治的に関与しているわけではない。
「とりあえず当面マリーは入院しなければならないそうですが、閣下、別件で重要な報告がありました」
いつまでたってもマリーの健康の心配をしているカルテンブルンナーに業を煮やしたシェレンベルクが、彼の意識を切り替えるために自ら話題を持ち出した。
カルテンブルンナーに告げるにはまだ時期尚早かもしれない。
そう思いもするが、エルンスト・カルテンブルンナーにいつまでもひとりの子供の健康状態にかかずらっていられても困ると言うものだ。
「アメリカの副大統領が決まったそうです」
アメリカという単語にカルテンブルンナーは不愉快そうな表情を浮かべながらも、瞬時に表情を改めた。決して自分の立場を忘れていたわけではないようだ。
「つい最近まで不在だったと記憶しているが?」
「はい、ローズヴェルトに引き続き、ウォレスが暗殺されたことに触発されてのことだと考えられます」
「アメリカの通例では、大統領、副大統領の不在にあたっては下院議長が権限を持つと聞いているが」
「三五代大統領に繰り上がりで就任したのはサム・レイバーン議員であるというのはすでにご存じかと思われますが、その副大統領にハリー・トルーマンが指名されました」
「……よくは知らんが」
「一九二〇年代にKKK団に在籍していたと言えばご理解いただけるかと思います」
シェレンベルクの口から出た「KKK」という単語に、カルテンブルンナーは国外諜報局長のデスクに座り込みながら憮然として息を抜いた。
「”あの”カルト結社か」
「カルトはカルトですが、最大時の団員は六〇〇万人にのぼります。彼らの影響力は今現在も看過することはできません」
アメリカ全土を覆い尽くしたかつての白人至上主義団体。
この存在がシェレンベルクには笑止千万な思いだ。
片やヨーロッパにおける民族自決権を認めながら、片やアジア・アフリカ地域における植民致死主義を黙認する英仏連合とその取り巻き。
ヨーロッパの開放を声高に唱えながら、国内に差別主義を蔓延させるアメリカ合衆国とソビエト連邦。前者は白人による有色人種の支配を黙認し、後者は一部民族の劣等生を身勝手に決めつけて、理不尽な理由から強制収容所に収容して労働力として行使している。
二枚舌はどちらなのだろう。
いっそドイツのように徹底的な法令において基準を定めた方が道議にかなっているのではなかろうかと、シェレンベルクは皮肉に考えた。
英仏連合とその取り巻きの同盟国が唱えるのは、所詮口先だけの道徳だ。
彼らが唱えるそれに正義など一切存在しない。
そもそも全ての存在に対して清廉潔白な正義など存在しないのだから。
国家と国家は自らの利権を求めて、過去から幾度となく全力で衝突してきた。それは今も昔も変わらず、そうしてよりいっそう暴力的に、権利を主張するようになっただけのこと。
「くだらんな」
侮蔑するようにカルテンブルンナーはぽつりとつぶやいた。
「えぇ、確かに馬鹿馬鹿しいことこの上ありませんが、何事も主張するには負けていては話になりません」
それを先の欧州大戦でドイツは学んだし、世界の情勢的なものを見ても負けた側に権利が存在しないことは明白だ。
アジア・アフリカ諸国と同じように、勝者に蹂躙される。
それらをドイツ人は学んできた。
「我々”ドイツ民族”を踏みにじったイギリス人やフランス人に怒りを示さなければなりません」
ドイツの土地を踏みにじった者に死の罰則を。
ドイツの精神を蔑んだ者に心も凍らせるような痛みを。
マース川からメーメル川、エッチュ川からベルト海峡まで。その巨大なドイツ帝国と、ドイツ民族を分断された嘆きと怒りを彼らに突きつけるのだ。
勝たなければ話にならない。
それを先の欧州大戦で彼らは目の当たりにした。
「ウォレス暗殺とローズヴェルト暗殺はアメリカ国内の情勢不安による事件だと耳にしているが、KKKが活発化すると考えると、”連中”の国内問題はさらに混迷を極めそうだな」
「ほかにも軍事的な情報にあたるかと思われますが、どうやら対日本戦において、アメリカ世論が微妙な変化が出てきているとのことです」
天然痘の発症――。
それがとうとう年末になってアメリカ世論に隠蔽することが不可能となった。
致死率の高い病魔の蔓延する戦線に、兵士たちを送り出すことに対する不安がアメリカ国内の情勢不安と共に高まりつつあった。
「アメリカはアメリカの国内問題に集中すべきだと意見も出ている様子です」
天然痘だけではない。
熱帯地域には多くの伝染病が蔓延する。
赤痢やチフス。そうした感染症との戦いでもある。
一説には占拠した日本の基地にチフスや天然痘の治療についての文書が残っていたためにアメリカ軍がパニックに陥ったという情報もあった。
「仮にそれらの問題を一気に解決する案があったとして、連中はそれを使うと思うか?」
「……我々、独伊日を叩きつぶすために必要であるとアメリカ政府首脳部が判断するとすれば、あり得ない話ではないと思われます」
「なるほど」
カルテンブルンナーはシェレンベルクの言葉に耳を傾けながら視線を中空へと泳がせると、途方に暮れたように思案する。
「東南アジアの植民地に駐留する各国軍を相手にしている日本軍はすでに相当な疲弊を抱えています。彼らにこれ以上の要求をするのは厳しいでしょう。そうなると、ドイツはドイツなりに行動しなければ埒があきません」
日本の勝利はドイツの勝利にも繋がることだ。
最終的に日本がどうなろうと知った事ではないが、今のところ同盟国の大日本帝国に踏ん張ってもらわなければ困る。
「満州に展開していた医療部隊が東南アジア方面に展開していると聞いたが、日本も研究員をそちらに割かなければならんのは踏んだり蹴ったりだな」
ナチス親衛隊の作戦によってアメリカに持ち込まれた天然痘は紆余曲折を経て、東南アジア方面へと拡大した。
もっと早くアメリカが事態の重大さに気がついて、病原菌の拡大に注意を払っていればアメリカ軍はもっと楽に戦えたはずなのだ。アメリカは自分の首を絞めているようなものなのだが、幸い彼らは今のところそれらに気がつけていなかった。
「人海戦術で勝てると思っているなら、それは妄想に過ぎません」
もちろん、戦争において物資と人員が豊富なことは言うまでもなく重要だが、それだけでは勝てない戦いというのも往々にして存在している。
「しかし、それもこれも東部の状況が好転したから言えるようなもので、万が一昨年の二の舞になるようなことになれば、我々はソ連とアメリカの物量に押しつぶされていただろう」
カルテンブルンナーの言葉にシェレンベルクは重々しく頷いた。
いつの間にやらこの二流の政治家は、それなりにまともな思考を展開できるようになっていた。その根本的な部分にマリーに対する思いやりがあるのは明白だったが、それにしてもどこからどう見ても欲求不満だった中年男が短期間の間に随分と丸くなったものだとシェレンベルクは感じた。
「戦争については、一般親衛隊は門外漢ですから、国防軍の活躍に期待するしかないでしょう。そして、その国防軍が重大な危機に瀕している以上、それを見過ごせばドイツが崩壊します」
ドイツがドイツとして勝つためには、国防軍の危機を見逃してはならない。
「その後に主導権争いが生じるのはともかくとして、”政府首脳部”の愚か者と結託して国防軍の権力を削ぐような真似は賛同致しかねます」
「……――」
カルテンブルンナーは目を上げる。
娘のように大切に思っている少女を守るためにも、ドイツという国を守ることは何にも変えることはできない。
シェレンベルクの言い分に思うところもあったのか、カルテンブルンナーは青年の執務机に腰掛けたまま軽く自分の足を手のひらで叩いた。
「国防軍の疑惑を明らかにするのは、我々親衛隊にも重要なことだというのは貴官が言わなくても理解している。今回はドイツの勝利のためにも国防軍に力を貸してやるのも悪くはない」
それだけ言ってからカルテンブルンナーは立ち上がると、シェレンベルクを見据えて指示を飛ばす。
「アメリカの動きは最新の情報が入り次第報告しろ」
「了解しました」




