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神々の黄昏 ― Vaterland ―  作者: sakura
XXI ゲヘナへの道筋
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8 罪の行方

 オットー・オーレンドルフ親衛隊中将は書類仕事で凝り固まった自分の肩を軽く拳で叩きながら、日も落ちつつある窓の外に広がるベルリンの街並みを見やった。夕暮れに染まる冬の空を見つめながら、オーレンドルフはじっと思考に沈んだ。

 国外諜報局長ヴァルター・シェレンベルク親衛隊上級大佐の指揮下におかれたマリーの特別保安諜報部。彼らは常にヒムラーの命令を受けてオーバーワークをこなしていた。

 六月にハインリヒ・ヒムラーの鶴の一声によって、国家保安本部への配属されることになったマリーは、ゲシュタポの捜査官たちと同じように任務に携わったことから、外的要因による危険に晒された。

 現代においても危険とはそれだけではない。

 生きている以上、疾病や怪我などと言ったものの危険性も高かった。体力のない彼女はそういった事情から病院を出たり入ったりを繰り返している。

 今回もそうだ。あらぬ嫌疑をかけられて、秩序警察の独房に収監されて急速に体調を崩した。マリーのそんな体調の悪化にカルテンブルンナーとミュラーが激怒したのは言うまでもない。

 華奢な少女は秩序警察の医務室で高熱に苦しんでいて、そんな彼女の姿にオーレンドルフの胸が痛んだ。

「……調査してみる必要があるな」

 マリーが高熱を出して四日間。国家保安本部長官のエルンスト・カルテンブルンナーは、搬送先の病院に泊まり込んで仕事に勤しんだ。そして容態が落ち着いたのはほぼ一週間がたってからだった。

 もちろんまだ退院の許可は出ていないし、カルテンブルンナーとヒムラーの命令によって病院内の護衛は徹底的に行われた。

 まさに鼠一匹は入り込むことができないほど厳重に。

 幸いなことに、オーレンドルフは政治的な国内諜報部門を指揮している。

 プリンツ・アルブレヒト・シュトラッセの本部の執務室を出たオーレンドルフは腕時計を見つめて時刻を確認した。

 自宅へは遅くなる旨を電話して、ゲーリングの管轄する航空省調査局へと足を伸ばす。もっともヘルマン・ゲーリングが指揮を執るとは言え、そこに国家元帥が直接詰めているわけでもないから、その辺りはオーレンドルフにも自由が利いた。

 現在のところは初夏に行った赤いオーケストラ(ローテ・カペレ)に対する摘発によって、ゲーリングの調査局(FA)は親衛隊情報部と国防軍情報部の管轄するところとなっている。

「おや、これは」

 年上の男の気易い声が聞こえてきてオットー・オーレンドルフは、神経質に片方の眉尻をつり上げてから唇をへの字に曲げる。

 悠然とした男の態度がオーレンドルフは苦手だ。苦手だと思うから余計に言動もぎこちなくなるわけだが、いかんせん苦手だと感じてしまうものは仕方がない。修行が足りないと言われればそれまでなのだが、そんな自己評価もオーレンドルフ自身の機嫌をさらに悪化させる。

 人間というものは、そうそう成熟などするわけもないし、先頃東部戦線で指揮した「パルチザン掃討部隊」での厳しい任務がオーレンドルフの中の時間を止めてしまった。

「”閣下”も例の疑惑に関する調査ですかな?」

 国防軍情報部の長官、ヴィルヘルム・カナリスの同年齢にあたるその首席補佐官であり戦友――国防軍陸軍大佐、ハンス・オスター。

 百戦錬磨の情報将校で、その深い洞察力は一目(いちもく)置くものがあった。

「――……仮に大佐の言う通りならなんだというのです?」

 不機嫌さを隠しもせずにハンス・オスターを見つめ返すと、壮年の男はこつりと靴音を響かせて調査局の廊下でオーレンドルフとすれ違った。

「これは、もしかしたら国家を巻き込んだ陰謀の可能性がある。オーレンドルフ中将もそれを覚悟されると良い」

 素っ気なく告げたオスターが、オーレンドルフとすれ違い際に一冊のファイルを手渡した。

「……陰謀?」

「えぇ、そしてその闇はひどく深い」

「世間とは得てして薄暗い闇に包まれているものです」

 深く暗い闇に包まれているものだ。

 そんなことはオーレンドルフ自身がよくわかっている。彼は国家権力の暗がりに飲み込まれ続けてきた。

 人間(ひと)とは無力なものだ。

「あなたも気をつけるべきだ」

 オスターが言い残して立ち去ってから、手渡されたなにも書かれていないファイルを凝視するとややしてからおもむろに開いて片目を細めた。

「フン……」

 オーレンドルフは鼻を鳴らす。

 正真正銘のナチス党(NSDAP)古参党員であるオーレンドルフには、まだ党員がごく少数だった頃からヒトラーの周辺で巻き起こった権力闘争を間近に観察してきた。それは、政治の中枢となった今も大して変わりはしない。

 まだナチス党が小規模でしかなかった頃と本質的なものは変わっていないのだ。むしろ状況は当時よりも悪化の一途を辿っているのかもしれない。

 優秀な官僚や、政治家はごく一部で多くの愚か者たちは、単にヒトラーの周りにある甘い権力の蜜に集まっているに過ぎない。

 立ち止まったままファイルを見つめていたオーレンドルフは、しばらくしてからぎりりと奥歯を噛みしめて思わず薄いそれを握りつぶした。

「俺が目指したものはこんなものではない」

 政治に――あるいは理想に忠実に、純粋だった者は嫉妬深い者たちの陰謀によって窓際へと追いやられた。

 数年前の自分の立場もそうだ。

 ヒムラーやハイドリヒに耳の痛い発言をするたびに、政治の中心からは遠ざかって、オーレンドルフの理想とする場所からはますます遠のいた。それがオットー・オーレンドルフを苛立たせる。

「国防軍の連中が思っていることを俺がわかっていないとでも思っているのか」

 彼の目の前に存在している矛盾がオーレンドルフを苦しめ続けた。そして、そんな彼の心を救ったのが他でもない少女の笑顔だったということ。

「奴らになにがわかる」

 命令だからと、ただ淡々とむせび泣く女子供の虐殺に部下たちを駆り出さなければならなかった彼の苦痛を、国防軍の首脳部に理解などできるわけもない。ラインハルト・ハイドリヒという男の権力に縛り付けられて、オーレンドルフは行動するしかなかった。

 ――勇気ある者は石を投げよ。

 弱者を殲滅する勇気を持つべし。

 ナチス親衛隊にはそうした覚悟が要求された。それは下士官や兵士たちだけではない。オーレンドルフらのような大学出身のエリートたちにも強要されたことだった。

 忌々しげに独白したオーレンドルフはそのまま調査局の資料室へと足早に向かう。

 調べなければならないことは山ほどある。



  *

「”シェレンベルク上級大佐”」

 声を掛けられて帰宅の準備をしていたヴァルター・シェレンベルクは顔を上げた。

 かつて、ハイドリヒが生存していた当時、シェレンベルクと血で血を洗う政争を繰り広げた相手だ。

 親衛隊員としての階級はシェレンベルクよりも上になるが、現在のところシェレンベルクの指揮下でマリーの首席補佐官を務める堅物の法学博士だ。

 ベストはそのうち自分の頭の堅さのために身を滅ぼすのではないかとも思うが、シェレンベルクも空気を読んでそんなことは口にしない。

ヒトラー万歳(ハイル・ヒトラー)!」

 踵をコート掛けに伸ばしていた片手をさっと上げて、シェレンベルクは形ばかりの礼を払った。

 胡散臭そうに目を細めたのはヴェルナー・ベストだ。

 ベストはシェレンベルクの持つ変幻自在の疑わしさをよく知っている。

 謀略の名手にして、冷徹な国家保安本部長官ラインハルト・ハイドリヒの片腕という呼び名は飾りではない。この若い青年弁護士はハイドリヒのように自分の目的のためには手段を選ばず、同様に冷酷だ。

 人当たりが良いシェレンベルクの本質的な部分をよく知る数少ないエリートのひとり――それがヴェルナー・ベストだった。

「今回の一件について、君の意見を聞かせてもらおう」

 率直にベストが告げる。

「わたしたちは、プラハに飛んでいた。疑惑に関与のしようがないし、場合によっては我々国家保安本部全体の失態として捉えられることも考慮される。もちろん、君の責任も」

 シェレンベルクに対して歯に衣を着せない物言いをするベストの生真面目さが、青年には内心おかしくてならないがそうした思いをおくびに出すこともせずに、かつての上官にソファを薦めた。

 プラハにいたマリーには陰謀に関わりようがないし、その前はシェレンベルクと共にストックホルムにいた。確かに参謀本部の勉強会に同席していたが、それにしたところで疑惑の出たタイミングがおかしい。

 そもそも勉強会そのものに対する不審があるのであれば、国家元帥のヘルマン・ゲーリングも知るところであったわけだから、勉強会が行われた時点でそれらの行動は潰されていて然るべきだ。しかしゲーリングはそれを黙認したし、国防軍総司令部総長を務めるヴィルヘルム・カイテルも黙認した。

 そういった側面から考えると、これらの疑惑を突き上げたのはカイテルとゲーリングではないだろうとベストには思われた。とはいえ、それも可能性のひとつでしかなく、確証的なことはなく今のところ全ては謎に包まれている。

「不自然だとは感じています」

 そんなベストの不信感を鋭く感じ取ってシェレンベルクは相づちを打った。

「おそらく、勢力拡大を狙った何者かのよる陰謀と考えて妥当かと思われます。……が、今のところ確信がありません」

「”ここ”は盗聴の危険性がない。だから単刀直入に聞くが、君は誰が権力の拡大を測っていると考える?」

「……そうですね」

 ベストに問いかけられてシェレンベルクは、顎に指先で触れると考え込む素振りをしてみせる。

「カイテル元帥はあくまでも国防軍の将校ですので、おそらく可能性は低いでしょう。総統閣下のイエスマンなどと影から言われているらしいですが、あくまでもそれはそれ、かと。国家元帥閣下は今のところ勢力拡大には関心がないかと思われます」

 ゲーリングは俗物だ。

 自らを飾り立てることにしか関心を抱かない。そんな彼が今さら自ら権威の失墜の可能性が高い選択をするとは思えない。

 なによりもゲーリング自身が航空省調査局を国防軍情報部と親衛隊情報部に実権を握られたことについて危機感を抱いているはずだ。事実上、彼の諜報部門は有名無実化している。

「現状、我々や国防軍を敵に回すより味方でいることが自分にとって有益だと理解しているはずです」

 数多くの優秀な軍事的、あるいは政治的な情報将校や諜報部員を敵に回すことの恐ろしさをヘルマン・ゲーリングはよくわかっているし、現状で度重なる失敗を重ねている彼は無闇矢鱈と国防軍(ヴェーアマハト)親衛隊(SS)を刺激すれば待っているのは身の破滅だ。

「つまり貴官は勉強会の存在を知っていたゲーリングとカイテルには動機がないと?」

「確証はありません。中将」

 なるほど、と言葉を返しながら自分の膝を軽くたたいたベストは、数秒考え込んでから小首を傾げた。

「ヒムラー長官の権力を鬱陶しく思っている者もいるだろうな」

「その線も考えられます。ですが、長官閣下ライヒスヒューラー・エスエスは見ての通りの日和見ですから、それほど閣下の権力に対して警戒する者はいないでしょう」

 ヒムラーの権力などよりも、多くの者が「ナチス親衛隊」のもはや特権とも呼べるような強大な権力を警戒している。

「たとえばハイドリヒのような?」

「そうです」

 ベストにシェレンベルクは頷いた。

 かつて突撃隊のレームが邪魔者とされたのは、彼自身が持つ権力の大きさ故だった。しかしハインリヒ・ヒムラーは決してそうではない。

 ともすれば大樹の陰に隠れてしまいそうな影の薄い男で、その政治理念は他の閣僚たちと比較すればはるかに潔癖だ。

 ヒトラーに忠実な潔癖な男。

 それがナチス親衛隊の長官を務めるハインリヒ・ヒムラーだ。

 もっとも、これについては少々、夢想家じみた悪癖があることもシェレンベルクは知っている。

 人の心の力というものは否定はしないが、行きすぎて呪いだの神罰だのと言うのは明らかに精神の正常さを欠いている。

「毒も時に薬にもなりますが、親衛隊長官閣下の言っていることを頭から信じているような親衛隊幹部は少数でしょう」

 そもそもヒムラーの妄想じみた発言を頭から信じるような幹部将校がいるならば、それはそれで邪魔でしかないからさっさと親衛隊から追放すべきだと考えた。

「できれば長官閣下にはもう少し現実を見ていただければありがたいのですが」

 シェレンベルクは付け足してから苦笑する。

 ヒトラーの周りで(しのぎ)を削る閣僚たちのいずれか。

 誰かがこの疑惑の糸を引いている。それがシェレンベルクとベストの統一した見解だった。

「幸い、調査局の方の記録は三局のオーレンドルフ中将があたってくださっていますので、そちらはお任せしようかと思います。遠からず、カルテンブルンナー大将からこの問題に対する調査の命令が下るとは思いますのでベスト中将が気を揉むこともないかと」

 静かにそう告げてからシェレンベルクは長い足を組み直して悠然と笑みをたたえた。

「……国家保安本部を敵に回したことの恐ろしさを身をもって知らしめてやれば良いのです」

 二度と立ち上がれなくなるほど、徹底的に叩きつぶせ。

 シェレンベルクはそう言った。

「ベスト中将がどのようにお考えかは理解致しかねますが、マリーの存在はドイツの敵をあぶり出すためには役に立ちます」

 彼女は弱い。

 だからこそ役に立つのだと、シェレンベルクは冷酷に言い放った。

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