3 動静の底
その頃、オットー・オーレンドルフは執務机に肘をついたままでむっつりと黙り込んで考え込んでいた。
オーレンドルフ率いる第三局の敵は、国外の軍事的脅威ではない。もちろん、国内の反体制分子だけでもない。
――そんなものは警察共に任せておけばいいのだ。
反体制分子については、ドイツ第三帝国の根本的な地盤を揺るがすような問題を起こすようならば、実力を持って始末するだけの話しだが、そればかりではなく彼にとっては国内にいる腐りきった政治家や軍の高官、そして私利私欲にまみれた法の番人たちのほうがはるかに問題だ。
「特別保安諜報部、か」
シェレンベルク率いる第六局の下に設置されたその部署は事実上マリア・ハイドリヒの統括する部署だと言っていいだろう。
配置されているのは多くが諜報部員たちだ。
なにを考えてそんな部署が設置されたのか。
しかもこの時期だ。
親衛隊情報部と、国防軍情報部、そして陸軍参謀本部が率いる二つの情報部。さらに、海軍と空軍、そして外務省の率いる情報部。これらの多くの情報部が国内に乱立している中に、である。
その部長を務めるのは、若すぎる少女――十六歳のマリア・ハイドリヒ。
そこまで考えてからオーレンドルフは意識を切り替えた。
ここ最近。彼が東部戦線で行動部隊を率いていた時期に、はじめられたささやかながら不穏な国内での動きをごく当たり前のように国内諜報局は察知している。
今のところ、その首謀者は不明だが徐々にそろえられる資料を見る限り、国内の外国人を中心とした反体制運動ではなく、ドイツ人による反ナチス運動と見るべきだった。
願わくは……。
オットー・オーレンドルフは思った。
「罪のない」ドイツ人たちを処刑することにならなければ良い。そんな残酷な仕打ちを、オーレンドルフは望んでいなかった。思案に暮れるオーレンドルフは意識の片隅に、人の気配を感じ取って顔を上げた。
聞こえてきたのは歩幅の狭い足音だ。やがて扉を境にして秘書の女性となにごとか言葉を交わしている声が聞こえたと思ったら、小さなノックの音と共に扉が開かれた。
ひょっこりと顔を覗かせる。
「オーレンドルフ局長」
金色の髪の少女は青い瞳をまたたかせながら、呼び掛けると無言で入室を促すように頷いた彼の反応を見て取ってから歩いて入ってきた。
相変わらずのことだが、彼女の恰好はとてもナチス親衛隊のものとは思えない。
「どうしだんだね? 大尉」
「……知っています?」
「なにをだい?」
いつものことだが彼女と言葉を交わしていると、子供を相手にしているような気分に陥る。もっとも、少女の方もオーレンドルフが自分を子供扱いしていることに対して、それほど気分を害しているようでもなかった。
おそらく自分のことを「子供」であると認識しているためだろう。
「そういえば、君の部署が新しく新設されたと耳にしたが、若いのに部下を率いることができるというのは羨ましいものだね」
皮肉がかった彼の言葉にマリーが花のように笑う。
「ありがとうございます」
たった十六歳の少女が一足飛びに昇進することなど考えられない。
とうとうヒムラーも焼きが回ったか? それがオーレンドルフの率直な感想だった。今までの一度として、諜報部員としてどころか、ナチス親衛隊の将校としてすらも教育を受けていないだろう少女をいきなり大尉に任命するなど狂気の沙汰だ。
「ところで、”知っている”とは?」
彼の言葉に対して、国家保安本部に居場所を確約された彼女は存外自由気ままにプリンツ・アルブレヒト・シュトラッセのオフィスを動き回っている。
「子供には、子供の情報網があるんですよ?」
口元に手を当ててクスクスと笑った少女は、スカートをふわりと揺らして豪華なソファに腰を下ろして首を回す。
その視線の先で、オーレンドルフが立ち上がると、考え込む表情のままで彼女の前のソファに腰を下ろした。
「ほぅ?」
それは興味深い。
だけれども、彼女は子供でしかないのだ。
子供には子供の情報網があるとは言え、それはたかが知れている。
本来の意味で、であれば。
もしくはもっと隠された意図があるのかもしれないが、それを察するにはオーレンドルフはマリーを知らなすぎた。
「それで、知っている、というのはどういうことだ?」
再三問いかけるとマリーは機嫌良さそうに笑ってから、そろえた膝に手のひらをついて、オーレンドルフの顔をじっと見つめる。
「ここ最近噂されている、”子供たち”による不穏な動きは、戦況が好転すればいやでもおさまるでしょう。オーレンドルフ局長がそのことで頭を痛めているのではないかしらと、思ったので一応お伝えに」
形の上では礼儀を保った彼女の言葉にオーレンドルフは視線をわずかに外した。
そう。彼女の言うことは正しい。
ここのところドイツ国内の大学生たちを中心に反戦運動の徴候らしいものが浮かび上がってきているのは事実だった。個々のひとつひとつの影響力は大したことはないが、しかし、それが巨大なうねりとなってドイツを飲み込んだとき体制転覆の力になることもあるだろう。
そう考えると放置しておくのは望ましいことではないのだが、現在のところ首謀者がはっきりしておらずなんとも判断しがたいものがある。
「その情報を、どうして君が知っている?」
真っ当なオーレンドルフの問いかけに、マリーは首をすくめてから笑った。
「連合の諜報部員と接触した際に、ついでに」
まるでその辺の商店に買い物へ行くついでかのような調子のマリーの言葉に、オーレンドルフは鼻から息を抜く。そうして、マリーを見つめ返してから、言葉を探した。
「これだけ短い間にそれだけの情報をどこで仕入れたんだ?」
「秘密です。言いましたでしょう? 子供には子供の情報網があるんです」
顎に人差し指を当ててにこにこと笑っている彼女は、清楚なスカートの裾を揺らしてから立ち上がると爪先で重心をとってくるりと方向を変えた。
まるで「不思議の国のアリス」に出てくるアリスを思わせた。
もちろん、アリスは六歳の少女なのだが。
「子供は気楽でいいものだな」
「……ですが、局長。児戯にも等しい危険な遊びを、彼らは真剣にドイツのためと思って邁進しているの。そんな彼らを咎めてはいけない。咎めるべくはもっと別にいることを局長ならご存じのはずです。もちろん、彼らが危険な存在となり得るのであれば、そのときは強制的に拘束し始末するのもひとつの手でしょうが……。あの手の類の子供たちは、戦況が好転し状況が落ち着いてくれば自然と静かになるものです」
それに、とマリーが付け加える。
「なによりも国内でのそうした動きで得をするのは敵だけです。だとしたら、子供たちの火遊びなどに真面目に取り合っていてはこちらが痛い目を見るばかりです」
思慮深い彼女の言葉に、オーレンドルフは目をみはった。
マリーはどこまでなにを知っているのだろうか、と。
なんでもないことのように状況を分析した少女は、視線を自分の前方に戻すとわずかにうつむきがちに歩みを進めた。
言いたいことはそれだけだったのか、彼女はちらとオーレンドルフを見やるとふわりと微笑してからナチス式の敬礼をして彼の執務室から出て行った。
火遊び。
反体制運動の一派を「火遊び」という言葉で一蹴したマリア・ハイドリヒに、オーレンドルフは眉間を寄せたままで考え込むと、内線電話の受話器を上げた。
マリア・ハイドリヒ親衛隊大尉の部下として白羽の矢が立てられた者のひとりが、東部戦線に武装親衛隊将校のひとりとして「左遷」されていた、アルフレート・ナウヨックスである。
数々の特殊作戦を成功の内におわめてきた生粋の秘密工作員で、かつて彼はラインハルト・ハイドリヒの腹心とまで言われた男だった。しかし、ある作戦に対してハイドリヒに意義を唱えたことにより、彼は不服従の烙印を押されて東部戦線へと左遷されていたのだ。
「見ての通り、あれだからな」
アルフレート・ナウヨックスに直々に告げたのは、親衛隊長官ハインリヒ・ヒムラーだった。
あれ、と、顎をしゃくって窓の外を見つめた彼は、親衛隊司令部のオフィスの中庭で花冠を作っている少女を見やる。
ナウヨックスもヒムラーの視線を追いかけるように窓の外を眺めてから訝しげに眉をひそめた。
深い茶色を基調にしたスカートは清楚な膝丈で、裾には二重の白いパイピングが施されている。袋袖の半袖のブラウスに、ショールを肩に引っかけて、さわやかな印象を演出していた。
それほど広くはないツバの麦わら帽子には白い花が飾られている。
ヒトラーユーゲント――厳密にはヒトラーユーゲントではない――の少女のように無邪気な姿に、ナウヨックスはあからさまに不審げな顔をしてみせた。
力をいれて掴めば簡単に首の骨などへし折れてしまえそうなほど、体格のなにもかもが華奢で細い。
「……つまり、小官は姫君の騎士を務めれば良い、ということですか? 長官閣下」
一度はハイドリヒの不興を買って左遷させられた身だ。
今さらどんな閑職に飛ばされることも覚悟をしている。
「そういうことになる」
「閣下、ひとつお聞かせください」
ナウヨックスはそこで言葉を切った。
「彼女は”我々”が警護しなければならない程重要な人物なのですか?」
「わからん」
わからない。
それが現状でのヒムラーの感想だ。
「だが、彼女が”真価の発揮”を望んでいる。貴官も今回の作戦で改めて真価を発揮することができれば国家保安本部に籍を戻すことも可能だろう。結果がどうあれこれ以上悪くなることはない。どうだ、ナウヨックス。今までも無茶な作戦を遂行してきただろう。彼女の真価とやらに興味はないか?」
「……承知しました」
上官からの命令に拒否権はない。
気に入らなくてもナウヨックスは従うしかない。
「気に入らんという顔をしているな」
「いえ」
短く否定して、ナウヨックスは片目を軽くつむった。
「命令であれば、従う所存です」
事務的なナウヨックスの言葉にヒムラーは肩をすくめてみせる。ヒムラーもナウヨックスの気持ちがわからないわけではないのだ。
ただ、現状ヒムラーがひとりで荷物を背負うにはその重さは勝ちすぎる。
「そこで、ナウヨックス。貴官に命令だ。”彼女”に関する一切の報告を命じる、ただし、充分に気をつけろ。いいな」
ありとあらゆる場所に、数多くの諜報部員たちがいることを忘れてはならない。
ヒムラーの言葉に、アルフレート・ナウヨックスは姿勢を正して右手を挙げた。
「ヒトラー万歳」




