7 搦め手
マリーの病室を後にしたハンス・オスターは、マイジンガーが不愉快そうに怒りをむき出しにしたことが面白くて、皮肉っぽく笑ってから進む廊下の先に、壁を背中にして立っている親衛隊の高級将校の姿に無言のまま片目を細めた。とりあえず相手の方が政治的にも影響力を持っていることを考慮して、オスターは形ばかりに陸軍式の敬礼をしてみせた。
国家保安本部長官――エルンスト・カルテンブルンナー親衛隊大将。
「アプヴェーアは……」
壁に背中を預けたままでちらりと視線を上げた若い男は、年長者でもあるハンス・オスターに礼も払うこともせずに言葉を切り出した。これだから、ナチス親衛隊の「ならず者」たちは嫌われるのだ。
そんなことをオスターは考える。
エルンスト・カルテンブルンナーという男は、軍人のオスターとは異なり骨の髄まで官僚だ。まだ三十代の若手官僚でありながら、オーストリア出身と言うだけでラインハルト・ハイドリヒ亡き後、国家保安本部長官の後釜としておさまった。もちろん、骨の髄まで官僚であることが悪い事だとは思わないが、自分の頭で考え、行動を選択しないというのは彼の経歴から考えれば宝の持ち腐れとも言えなくもない。
「アプヴェーアは、今回の一件についてどれだけ重大視をしている?」
素っ気なく問いかけられてハンス・オスターは、目の前の警察権力を一手に握る相手に対して慎重に言葉を選んだ。
「……と、言われますと?」
カルテンブルンナーは、ともすればオスターの命を自由にできる程度に大きな権力をその掌中にしている。若造であるからと相手を侮るべきではない。注意深くカルテンブルンナーの表情の変化を観察しながらオスターは背筋を正した。
「国防軍が今回の件を親衛隊による総統閣下への反逆として責任を逃れるつもりなのではないかと言っているのだ」
苛立たしげに告げるカルテンブルンナーに、オスターは内心で嘲笑した。
タバコでも探しているのか制服のポケットを片手で探っているのは彼の余裕のなさを感じさせる。事実、精神的に余裕はないのだろう。結局タバコが見あたらなかったのか、不満げに自分のポケットを軽くたたいてから視線を上げると突き刺すようにオスターを睨み付けた。
つくづく感情のわかりやすい男だ。
低俗な男はつまるところ、今回の疑惑についての全責任をマリーひとりに押しつけて、国防軍が難を逃れるつもりなのではないかと気を揉んでいる。
知識人と名乗っているがお里が知れる。皮肉げにオスターは内心でほくそえむ。
「確かにマリーは陸軍の参謀総長のもとに通ってはいたが、それはわたしも、ヒムラー長官も了解してのことであるし、仮に謀略が本当に存在していたのだとしても、彼女はなんら関係はない」
鋭く言い放つカルテンブルンナーにオスターは即答した。
「”あったら”どうします? 大将閣下」
「……――!」
息巻くカルテンブルンナーにオスターが踏み込んだ。
可能性はひとつではない。
外面上は国防上の情報を統括する国防軍情報部の情報将校であり、ヴィルヘルム・カナリスの「戦友」だ。そんなハンス・オスターは、ありとあらゆる側面から状況を考察する。
「そんなことはありえん!」
一方的に決めつけるようなカルテンブルンナーの言葉に、オスターはその場を取り繕うように視線を横に流してから数秒ほど考え込む素振りを見せた。
「”我々”情報将校は、常に状況を正しく把握しなければなりません。それは親衛隊情報部の事実上の長官をお勤めになる閣下がよくご存じのはずです。ありとあらゆる可能性を考え、情報を考察し、現状を正しく俯瞰しなければ”不愉快”な疑惑を否定することもかないますまい」
ナチス親衛隊のカルテンブルンナーなどに礼を払わなければならないことは、オスターにしてみれば面白くないが、目の前で彼の言葉に右往左往している国家保安本部長官の姿を見ていると胸がすく思いだ。
馬鹿馬鹿しい。
そう感じながら、オスターは言葉を続けた。
「国防軍情報部としましても、親衛隊の動向が興味深いところではあります。いずれにしろ、親衛隊と国防軍のどちらかが互いに責任をなすりつけあったとしても、”マリーの責任”は免れないでしょう」
彼女はハルダーやベックの言葉を交わすその場にいた。
そして彼らの発言を親衛隊首脳部に報告しなかった。
親衛隊情報部の総本山である国家保安本部長官と、最もナチス親衛隊全国指導者の近くに存在する全国指導者個人幕僚本部長官の部下でありながら、国防軍の動向に対して無頓着であったこと。
それをオスターが指摘した。
もっとも彼の告げる内容は、国防軍にも危険が及ぶことも考えられる諸刃の剣だ。それでもオスターは自分自身を危険にさらすことだとわかっていて、勝負を賭ける。
「彼女」の可能性。
オスターの内心を知ってか知らずか、カルテンブルンナーはぐっと息を飲み込んで胸の前で拳を固めた。
その長身にふさわしく、長い指が印象的な大きな手だ。
「マリー……、マリーが……」
呻くようにそう言った彼は絶句してから視線をさまよわせると、一歩足を踏み出してから改めてハンス・オスターを睨み付ける。
「何者かが、国防軍首脳部を貶めようと画策しているのであれば、その場にいた彼女は必ず巻き込まれることになるでしょう」
ドイツの現政権にとって、マリーなどたかが少女であり、たかが親衛隊将校でしかない。彼女の変わりはいくらでもいる。これまでナチス党本部がそうしてきたように、必要ないと判断されれば冷徹に切り捨てられるだけのことだ。
今やそれほど珍しいことではない。
当然のように冷酷な決断が下るだけだ。
そうした巨大な国家権力の前には、所詮エルンスト・カルテンブルンナー程度の権限の及ぶところではない。
「……わたしは所詮無力だと言うのか」
ぎりぎりと歯ぎしりをこらえながらカルテンブルンナーが告げれば、ハンス・オスターは眉をぴくりとも動かさずに引き結んだ唇の端を小さく動かした。
カルテンブルンナーは確かにそれなりに優れた頭脳を持つ知識人だ。しかし、彼は諜報部員でもないし、確固たる意味で情報将校とは程遠い。
彼は型にはまった官僚でしかない。
それがオスターのカルテンブルンナーに対する評価。
人にはいくつかのタイプが存在する。
一部の天才たちのように世間という概念――あるいは枠にはまらない型破りなタイプ。そして、世間の型にはまって考えの硬直しきったタイプ。多くの人は後者で、カルテンブルンナーもまた同じなら、ハンス・オスター自身も自らを後者だと考えた。
ドイツという国に執着し、その存続のために最良の方法を探る。
アドルフ・ヒトラーの権力に立ち向かうために必要なことを、自分の本心を曲げてすら思索した。
長い時間考え込んでいたカルテンブルンナーはやがて鋭く踵を鳴らすと踵を返した。
時刻は午後五時半を指していた。
「プリンツ・アルブレヒト・シュトラッセに戻る、すぐに車を回せ」
厳しいカルテンブルンナーの声がかすかに聞こえてきて、オスターはほっと肩から力を抜いた。
とりあえずこの場はなんとかやり過ごした。
「オスター」
「なんでしょう、提督」
こつりと靴音が響いてオスターの手前の病室の扉が開いた。
ヴィルヘルム・カナリスの登場に、しかしオスターは動じない。
「カルテンブルンナーは味方ではないぞ」
今のところ、エルンスト・カルテンブルンナーはあくまでもナチス党側の人間でしかない。それはオスターにもわかっている。
しかし国防軍の側からだけでは状況は一向に改善しないことも、切れ者の首席補佐官にはわかっていた。
「カナリス提督もご理解のこととは思いますが……」
「あの男は、ハイドリヒの尻に敷かれていた期間が長かったからな」
オーストリアの親衛隊及び警察高級指導者。その地位にあったとは言え、実質的には有名無実化していた。それがカルテンブルンナーの欲求不満を募らせたことをカナリスもオスターも知っている。
男のプライドがカルテンブルンナー自身を歪めた。
そしてそれは凶暴に研ぎ澄まされた牙となり、異民族たちへと襲いかかることになった。その悪夢の一端が、カルテンブルンナーが創設に関与したマウトハウゼン強制収容所だ。権力を握るひとりの官僚として大きく構えていれば良かったものを、彼自身の欲求不満がドイツにとって障害のひとつを生み出す結果となったのである。
「こちらの思惑通り動くでしょうか」
「どうだろうな、だが、今のあの男にとって”マリー”は何にも変えがたい」
俗物は俗物なりに使い道がある。
冷ややかにそう告げたカナリスに、オスターは睫毛をおろした。
「では、わたしも情報収拾に戻ります」
「なに、今日は帰りたまえ。どちらにしたところで親衛隊が動かんことには国防軍も一巻の終わりだ」
カイテルを含めた一部のヒトラーのイエスマンで国防軍首脳部が占められるようなことになれば、ドイツ国防軍の大幅な戦力の低下は避けられない。それは国内外のありとあらゆる脅威からドイツを守るためには絶対にあってはならないことだ。
おそらくヒトラーに否定的な多くの高級将校らが一線から退くことになるだろう。
そんなことがあってはならないのだ。
「ところで、マンシュタイン元帥はなんと?」
「……プロイセン軍人の名誉は汚せぬ、と」
「なるほど、マンシュタイン元帥らしい」
口元に片手をあてて苦笑したカナリスは眉尻を下げてからオスターが歩いてきた方向を見やって肩をすくめた。
「笑い事ではないでしょう」
今回ばかりはマンシュタインもハルダーの勉強会とやらに何度か足を運んでいた以上、当事者の一人だ。
ドイツ国防軍最高の知性を持つ将軍が、戦中の現時点で拘束されるような事態は好ましくないし、なによりも、今回の問題によって余計な問題を掘り起こされることが厄介だ。
オスターはそれを警戒していた。
「全くもって笑い事ではないが、今回は親衛隊も矢面に立たざるをえんからな。それとなくシェレンベルク君に探りをいれてみようとするか」
タバコをくわえながら、そこが病院であることに気がついてポケットに戻したカナリスに続いてオスターも歩きだした。
「親衛隊のシェレンベルク上級大佐……、彼にカルテンブルンナーを御せるでしょうか」
「どうだろうな。カルテンブルンナーが欲求不満の塊だということは彼もわかっているだろうから、ヒムラーに手を回してなにかしら行動に出るかもしれんが」
誰かが悪意を持って勘ぐれば、親衛隊情報部にしろ国防軍にしろ叩けばいくらでもホコリが出てくると言った状況だ。
問題が持ち上がった時点で少女ひとりを粛正すれば良いと言う話しではなくなっていた。もちろん罠を仕掛けた人間はここまで問題が大きくなることは想定していなかったかもしれないし、問題がここまで大きくなっているとは考えてもいないだろう。
誰が仕掛けた罠なのか。それを見つけ出さなければならない。
病院を出て、車の脇に立ったふたりは窓越しに少女が手を振っているのが見えた。隣に立っている制服姿の男はヨーゼフ・マイジンガーだろう。
にこやかに手を振るマリーにカナリスとオスターは手を振り替えしてやって、そうしてベンツへ乗り込んだ。
「危機感に欠けますな」
「まだ子供だ。仕方ないだろう」
子供というものは、未来を理由もなく信じている。
大人たちとは違う無限の可能性。
「彼女は、何者なのでしょうか……」
ぽつりとオスターがつぶやいた。
「マリーはマリーだろう。ただ、”彼女”はドイツを守りたいだけだ」
「そういう意味ではなく」
カナリスの返答にオスターは運転手がいることに気を遣ったのか、特定するような言葉を避けて言葉を詰まらせた。
彼女の名乗った名前はかつてはマリー・ロセターだった。
しかし現在はハンス・オスターが作成したマリア・ハイドリヒとして生活している。マリアという名前も、ハイドリヒという姓も。それほど変わったものではない。
どこから来て、なにを見ているのか。
そしてどこへ行くのか。
「自分がいつ殺されてもおかしくないのに、不思議な子です」
「興味がないんだろう。殺されることにも、殺すことにも」
子供の世界観はひどく狭い。
カナリスの評価に、ハンス・オスターは押し黙った。
自分の周りだけが心地よければそれで良い。そう考える子供は多いものだ。しかし、他者の気持ちを思いやることもできなければ人間としてそれは欠陥があるとも言える。
「世界は自分を中心に回っていると、あのくらいの年齢の子供は考えているものだよ」
タバコをくわえたカナリスにオスターは無言で車窓の外に流れるベルリンの街並みを凝視した。
「そして子供を守るのは我々大人の仕事だ」
「……はい、承知しています」




