3 画策
「マリーが熱を出した」
国内諜報局長のオットー・オーレンドルフ親衛隊中将にそう言われて、国外諜報局長のヴァルター・シェレンベルクは軽く肩をすくめてから代用コーヒーの注がれたカップを口元に寄せた。
「そのようですね、まぁ、当然と言えば当然です。仕方ありません」
予想の範囲内だったとでも言いたげなシェレンベルクの言葉に、オーレンドルフは表情を動かさずにちらりと視線をやった。
「もっとも、マリーの治療にゲープハルト中将が泊まり込みで治療に当たっているのでしょうから余り心配はしておりませんが」
「そう言う割りに、余りゲープハルト中将のことを信用してるようには思えないが?」
「……まぁ、その辺りはノーコメントということで」
低く笑って話しをはぐらかしたシェレンベルクは足を組み直して自分の向かいのソファに腰を下ろしているオーレンドルフを眺めてから、鼻から息を抜く。
「まぁ、わたしにとってもゲープハルト中将が信用できるか、信用できないかなどということはどうでも良いことだな」
どうでも良い。
ばっさりとオーレンドルフが切り捨てた。
カール・ゲープハルトなど、オーレンドルフには眼中にも入らない。
「……マリーは体力がない。秩序警察が独房に放り込むだろう事が想像できたというのに、その可能性をろくに考えずヴェンネンベルク中将のもとに置き去りにしてきたのはベスト中将の責任です」
他人事のように呟いたシェレンベルクにオーレンドルフは片方の眉を引き上げた。
「心配ではないのか?」
「わたしが心配したところで事態が変わるわけでもありません」
冷徹に言い捨てたシェレンベルクに、オーレンドルフはわずかに考え込んでから、自分の膝を軽くたたいて目を上げた。
「なるほど」
「自分にできることとできないことはわきまえているつもりです」
つまり、マリーの病状を心配したところで自分にはどうすることもできないから考慮もしないのだ。そう言外に告げるシェレンベルクに、オーレンドルフはあきれた様子で息を吐き出した。
「彼女は貴官を信頼している」
「鳥の雛が、初めて見たものを親と思うようなものです」
彼女がラインハルト・ハイドリヒの棺桶から救出されて、初めて見たものはシェレンベルクだった。それから甘い言葉を告げる彼の後見を受けて生活してきた日々がある。だからマリーは彼を信頼するのだ。
「とにかく、シェレンベルク上級大佐がどう思っているかはともかく、マリーの意識が戻ったら顔くらい見せてやったら喜ぶだろう」
「一応考慮しておきます」
一見しただけではこれ以上ないほど冷ややかに。ヴァルター・シェレンベルクはそう言った。
同じ諜報の分野を担うオーレンドルフにも、親衛隊随一の諜報部員であるシェレンベルクがなにを考えているのか理解しかねる。
彼――ヴァルター・シェレンベルクには謎が多い。
「とにかく、今はまだ予断を許さない容態だと聞いています。わたしが見舞いに行ったところで医師や看護婦の邪魔にしかなりません」
シェレンベルクは結局そう切り捨てた。
なにを考えているのかわからない。
彼はそういう青年だった。
「……ところで、マリーに日本人の文通相手を紹介したのは貴官か?」
「えぇ、わたしです。大島中将や、小野寺大佐が母国のことで気もそぞろになっていましたので、丁度良い気晴らしにでもなるかと思いまして」
「ふむ」
封書の手紙の内容までは把握していないが、時折交わされているはがきでのやりとりは、オーレンドルフも把握していた。国内外における情報の動きはオットー・オーレンドルフとヴァルター・シェレンベルクの手の内にある。
「母国のこと、か」
一九四二年夏に行われたミッドウェーの海戦でドイツ第三帝国の同盟国、ユーラシアの果てにある大日本帝国の海軍は世界の頂点に君臨していただろう空母機動部隊を喪失した。その敗北は世界の勢力図を書き換える決定打となるはずだった。
だが、そうはならなかった。
もちろん、親衛隊情報部が秘密裏に動いてそうしなかったのだが。
「日本の敗北は、ドイツにとっても大きな影響を及ぼします」
シェレンベルクの指摘にオーレンドルフは肩をすくめた。
アメリカに二正面戦争をしていてもらわなければ困るのだ。
仮に、同盟国の大日本帝国に多大な負担を強いることになっても。
ドイツ人の彼らにとって、同盟国の日本はともかくとしてドイツが勝たなければ困るのだ。
ヴァルター・シェレンベルクも、オットー・オーレンドルフもドイツが勝ち残ることだけを目的として戦ってきた。時に、彼らが望まない仕事も引き受けたのは、ひとえにドイツの勝利を求めたからに過ぎない。
「しかし、”連中”に気休めをしてやったところで戦況が変わるわけでもあるまい」
「全くその通りですが、情報将校が正確な判断をできなければ、我が国の国益にも不都合が生じます」
「つまりシェレンベルク上級大佐は、日本の軍人が正確な判断能力を欠いているとでも言いたいのか?」
「もちろん正確に情勢を把握している情報将校もいます。ですがまだまだ本国の情報分析能力を含めて力不足は否めません」
彼らは情報を正しく行使していない。
シェレンベルクは暗にそう言った。だが、情報を正しく行使していないのはドイツも同じではないか。オットー・オーレンドルフは皮肉げにそう思った。
「とりあえずマリーは楽しく文通しているようですよ。あの子は余り友達がいませんから」
「それで、マリーを使って日本の動向を探るというわけか」
オーレンドルフの的を射たとも言える言葉にシェレンベルクはかすかに笑うと、首を左右に振ってから腹の前で両手の指を組み合わせる。
「まさか」
そんなこと思いもよらないとでも言いたげに、シェレンベルクはカチャリと音を立ててソーサーにカップを戻した。
「わたしが”そんな程度の低い”パルチザンたちのような方法に頼るとでも?」
程度の低い、と一蹴したシェレンベルクが言外に差すのは、ポーランドやフランス、そしてソビエト連邦の住民らによって反ドイツ的な抵抗活動を展開するパルチザンたちのことだ。
彼らは子供さえもそのための道具として差しだした。
大人の言うままに地下組織の活動に従事せざるを得なかった子供たちは、ドイツ軍や親衛隊員の手に寄って「処刑」されるのだ。
「マリーには好きに手紙を書かせていますし、そもそも彼女にそんな計算ができるとお思いですか?」
マリーには丁度良い遊び相手です。
要するにシェレンベルクは彼女の「遊び」には関心がないとも言える物言いに、オーレンドルフはちらりと視線を天井に上げた。
結局、ヴァルター・シェレンベルクがなにを考えているのか理解しがたい。
彼は生粋の諜報部員だ。
「あぁ、もうこんな時間ですか。失礼します、部下からの報告があるはずなので」
ふと時計を見やった国外諜報局長は言いながら立ち上がる。
「……報告?」
「えぇ」
物腰は穏やかで、笑顔は人好きがする。
けれどもその仮面の下で、彼の瞳は冷徹な光を放っていることをオーレンドルフは知っていた。
「では、失礼します」
ハイル・ヒトラー、と敬礼をしてヴァルター・シェレンベルクはオットー・オーレンドルフの執務室を律動的な歩調で出て行った。
「上級大佐」
ブーツを鳴らしてオーレンドルフの部屋から出てきたシェレンベルクに、足早に歩み寄ってきた部下に、シェレンベルクはちらりと視線を投げかける。
「オットー・ハーンがストックホルムでリーゼ・マイトナーと接触しました」
高名な物理学者の名前に、シェレンベルクは視線だけで部下に言葉の先を促した。
「それで?」
「ベルナドッテ伯爵が独自に動いていると思われます」
おそらくユダヤ人保護の問題についてだろう。
フォルケ・ベルナドッテ伯爵がスウェーデン赤十字の副総裁として推薦されたらしいという情報はすでにシェレンベルクも掴んでいた。
そして、そんなベルナドッテの母国、スウェーデンにリーゼ・マイトナーは亡命した。さらに言うなら、デンマークにはマイトナーの甥にあたる物理学者も暮らしている。
冷静にシェレンベルクは考えてから鼻を鳴らした。
これだからユダヤ人が嫌われるのだ。
自ら母国を持たず、一族はてんでばらばらに外国で生活する。
シェレンベルク本人は人種の違いによる区別など低俗なものだとしか思わないが、世間的に考えれば排他的で保守的な集団が、異質な文化を保つ民族を同胞として迎え入れるとは考えがたい。
移民が悪だと言っているのではなく。
移住した国に帰属意識を持たず、現地住人とは異なるコミュニティーを形成することが問題なのだ。
本来、ユダヤ人問題とはそうしたものなのではないかとシェレンベルクは考えた。そうした移民の帰属意識の低さによって被害を被るのもまた移民自身なのである。
一部の彼らの独自のコミュニティーに暮らす者たちに対する偏見が、全ての移民たちに向けられる。
民衆というものは無知である故に、偏見を持ちやすい。
「オットー・ハーンを逮捕しますか?」
「いや、泳がせておいていい」
逮捕するか、と問いかけられてシェレンベルクは軽く片手を振って部下の提案を受け流して、廊下を歩きながら片手で口元を覆った。
「ベルナドッテ伯もマイトナーもいずれ使い道がある。ただ、警戒すべきはアメリカの動きだが、連中の諜報部の動きはどうなっている?」
「このところひっきりなしにイギリスとアメリカが接触している様子です。おそらく、自由フランスの諜報も一枚噛んでいるかとは思われますが、自由フランスのほうはマキの動向もありますので、少々厄介かと」
自由フランスの本拠地はフランス本国にはない。彼らが苦心して関係各国と協力してヨーロッパ全土に張り巡らされていた反ドイツ的な盗聴組織はこの夏に壊滅させた。地に足が着いていないとはまさにこのことだが、それらの情報網を丹念に調査した結果、イギリスの情報部がシェレンベルクが考える以上にドイツの軍事及び、政治情報を入手していた。
エニグマの情報だけではない。
スターリン政権の崩壊によって、赤軍諜報部が事実上瓦解し、それらの一面を担っていたルーシィーはゲシュタポによって逮捕、拘束されたことによって、アメリカとソビエト連邦の協力関係は実質的に崩壊した。
米ソ両国をつなぎ止めていたイギリスの諜報機関も現在は活動規模を縮小させている。もっとも、スターリンをこの上なく嫌っていたチャーチルが、打開点を求めてフルシチョフに接触することも考えられる。
時間はもう余り残されていない。
――生命線が少々伸びただけ。
天然痘による混乱は一時のものだ。
「イギリスの植民地がどう出るか、か」
ぽつりとシェレンベルクはつぶやいた。
東南アジアから中東アジアにかけて、広大なイギリスの植民地が広がっている。そして、その植民地の生産力を武器にイギリスはアメリカと共にドイツと戦っているのである。
独立を勝ち取るために動き出しているインド。
そしてその西にあるイラン、イラク、そしてシリア。そうした国々だ。
中でも注目すべきはイランとイラクだと、シェレンベルクは考えた。ソ連が弱体化している現状で主権を勝ち取ろうと行動するのはこの二国だろう。
シリアはヴィシー・フランスとドイツの影響下にあるが、半年前までソ連の影響下にあったイランとイラクがこの時期を見逃すとは考えがたい。だが、すでに親独政権が倒れ国内問題で動揺しているイラクはシェレンベルクが求めるような行動はとれないだろうと考えると、イランこそ行動する大義名分を持っている。
中立を宣言していたイランに進駐したのはソビエト赤軍なのだ。
長大な戦線に苦しみ攻めあぐねる日本軍にイギリス本土と植民地の分断を期待するのは荷が重いだろう。そうなると別の手段を考慮しなければならない。
本来、地理的に中東一帯を一手に担うのは同じ同盟国のイタリアのはずなのだが、これが全く役に立たない。
国防軍の別働隊、ドイツ・アフリカ軍団をエルウィン・ロンメルが指揮するが英米連合を相手に小規模な部隊で拮抗している。
日本にとってもドイツにとっても、一番の難敵は兵站だ。
もちろんシェレンベルク自身は軍人ではないから適切な妙案を出せと言われても難儀するのであるが。
そこまで考えたとき、シェレンベルクは背後から感じた人の気配に足を止めた。
「……失礼します、シェレンベルク上級大佐殿」
相手の顔を確認するとオーレンドルフの副官だ。
「なんだ」
「オーレンドルフ中将閣下より御伝言です」
――顔を見に行ってやれ。彼女は寂しがり屋だ。
さっと差しだされた便箋を一瞥して、シェレンベルクは長々と溜め息をついた。
「……承知した、と伝えてくれ」
マリーは寂しがり屋だ。
そんなことはわかっている。
彼女の容態が悪化して二日。まだ意識を取り戻さないらしいが、近く目を醒ますだろう。表情を隠すように受け取った便箋で顔の前を仰いだシェレンベルクは、オーレンドルフの副官に背中を向けて歩きだした。




