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神々の黄昏 ― Vaterland ―  作者: sakura
XXI ゲヘナへの道筋
274/410

2 悔恨

 国家保安本部によってマリーの健康状態の悪化は早急に報告された。

「……なんということだ」

 呆然と口を覆ったハインリヒ・ヒムラーはそうして言葉を失った。長い茫然自失の後、ヒムラーは国家保安本部に対して”どんな手段を使っても”彼女の命を救うようにとの命令を発信した。

「もちろんだとも、ハイニー」

 電話の向こうでゲープハルトにそう言われて、ヒムラーは深々と受話器を持ったままで優秀な旧知の医師に頭を下げた。

「よろしく頼む」

 いつも強健な「彼」には助けられてばかりだった。けれども、ヒムラーが頼りにしたラインハルト・ハイドリヒが暗殺に倒れ、そうしてドイツを憂えて戻ってきた彼女は、ヒムラーが守ってやらなければならないほど華奢でか弱い。

 そう。

 もはや彼――あるいは彼女を守ってやれるのは自分だけなのだ。

「ラインハルト……、今度こそわたしは君を助けたいのだ」

 受話器を置いたヒムラーはぽつりとそう呟いた。

 最新設備と最新の医薬品を兼ね備えた親衛隊の病院の集中治療室に運び込まれた彼女は、今、その力を借りて文字通り病魔と闘っている。

 ――今晩がおそらく山になるだろう。

 ゲープハルトの言葉を思い出して、ヒムラーはそのまま全身の力が抜けてがっくりと膝を折った。



  *

 マリーがベルリン市内の総合病院に運ばれた翌日の早朝にヨーゼフ・マイジンガーは堅い表情のままで特別保安諜報部の首席補佐官にそう詰め寄った。

 とりあえず、マリーの容態は安定はしないもののなんとか翌日を迎えることができたのだが、相変わらず危険な状況にあることは変わりがない。国家保安本部長官は仕事を片手に病院へ詰めていて、部下たちが仕事を彼のところまで持ち込んでいるらしいと言うことだ。

 公私混同にも程があるとは思うが、カルテンブルンナーにはそこまでしなければならないと思わせる程、マリーの容態は彼の心をさざめかせるのだろう。

「護衛にはわたしが就きます」

「しかし、貴官がやらなければならんような仕事ではない」

 仮にもヨーゼフ・マイジンガーは親衛隊大佐だ。そんな階級に就く男がたかだか護衛程度の仕事などしなくても良い。そうベストに言葉を返されて、わずかに不愉快そうな表情を浮かべたマイジンガーは、ともすれば荒くなりそうな言葉遣いをなんとかおさえこむ。

「プラハでは連絡不十分もあって秩序警察のぺーぺーにマリーの部屋に好きに侵入を許したではありませんか」

「信用ならんと?」

「できませんね」

 しかも、今のマリーは健康状態が最悪です。仮に侵入を許した場合、抵抗ひとつできないでしょう。

 マイジンガーの鋭い瞳が、かつてのポーランド戦の折りに見せた冷徹無比のそれを思い起こさせて、ベストは思わず黙り込んだ。

 ポーランド戦の際、彼は率先して多くの「レジスタンス」や反ドイツ勢力に対する摘発を行った。彼の本質的なサガはひどく残忍で、冷酷だ。

 目的のためなら手段を選ばない。

 特に、マイジンガーが主導したポーランドでの特別平定行動は記憶に新しい。

 マイジンガー自身の年齢は四三歳だが、彼は年齢を感じさせないほど精力的に最前線で行動した。

「……――良かろう」

 人には時に適材適所というものがある。

 かつて国家保安本部で人事局長を務めたベストだからこそ、マイジンガーのことをよく理解してもいた。

 どちらにしろ、ベストがマイジンガーに「(ナイン)」と言ったところで、今のマイジンガーはその命令に従わないだろう。

「貴官にマリーの護衛を任す。……が、場所が場所だ。余分な騒動を起こさぬようにくれぐれも注意したまえ。あと、赤号(ロート)をつれていくように」

「はっ」

 ブーツの踵をカッとならして敬礼したマイジンガーは、勢いよく体を翻すとマリーとふたりの補佐官の執務室を出て行った。

 今はその執務室の主人はいない。

 ベストはそんなマイジンガーの背中を見送ってから大きな溜め息をつくと、執務机に頬杖をついてからマリーのデスクの上に山になった書類を見やった。

 プラハの反独感情の高まりについて追跡調査を行う身の上である以上は、マリーの病院へ見舞いに行く暇などありはしない。もちろん、行ったところで医療の心得もない自分が役に立つとはこれっぽっちも考えていないため、行くだけ無駄だというところも理解している。

 問題は、先日交通事故死したクルト・ダリューゲと、ベーメン・メーレン保護領の親衛隊及び警察高級指導者のカール・フランクについてだ。

 フランクが自ら権力を握ろうと奔走していた証拠は出そろってきたのだが、それについて最終的な承認を下す部署長のマリーが国防軍の国家転覆の謀議に関与したという容疑で秩序警察に拘束された。

 訊問は年内中はかかるだろうと推察された中、アルフレート・ヴェンネンベルク親衛隊中将の意志はともかく、国家保安本部と秩序警察の確執に巻き込まれたか弱い少女は劣悪な独房の環境に一気に体力を消耗し、今は生死の境をさまよっている。

 気もそぞろに書類をしたためながら、ベストは眉をひそめたきりで顔を上げない。

 自分の能力を確かに理解しているからこそ、彼はハインリヒ・ヒムラーの側近とも揶揄されるカール・ゲープハルト親衛隊中将に全権を託した。

 そしてその護衛にあたるのは血の気は多いが活動的なヨーゼフ・マイジンガーと、国家保安本部でも屈指の警察犬だ。

 護衛上の問題は起こるまい。

 そうベストは考える。

 ちらちらと壁に掛けられた時計を眺めながら書類仕事をするベストを見るに見かねたのか、定時を回った時計の針に次席補佐官のハインツ・ヨストが立ち上がると壁際のコート掛けにかけられた自分のコートを腕にかけた。

「……ベスト中将、わたしは帰りにマリーの見舞いに行くが貴官は仕事があるのか?」

「マリーの仕事が残っているから、わたしは残業を……」

 言いかけて顔を上げたベストは苦笑しているヨストの顔が視界に入って思わず黙り込んだ。

「心配なら別に取り繕わなくてもいいだろう。ここはベルリンで、最前線ではないのだからな」

「しかし、病院にはカルテンブルンナー大将もいるのだろうからわたしがわざわざ行くまでのこともないのでは?」

「心配なのだろう?」

「……――」

 ヨストの言葉にヴェルナー・ベストは口元に片手をあてたままで沈黙に沈み込んだ。

「だが、しかし」

 自分に甘えを許して良いのかわからない。

「”しかし”も”かかし”もないだろう」

 ヨストが言った。

「行きたいのか、行きたくないのか。それをはっきりしたらどうだね」

 まるで上から見下ろすようなヨストの物言いに腹が立って、ベストは内心ムッとしながら再び顔を上げると彼のコートを差しだして次席補佐官を務めた男が笑っている。

「マリーが心配なんだろう。昨日から一日たっているからもしかしたら容態もよくなっているかもしれん」

 ヨストにそう言われてベストは息を吐き出しながらやれやれと立ち上がった。

「ゲープハルト中将も報告が遅いのは問題だ」

 意地の悪い悪態をつくのは忘れない。

 ヨストに差しだされたコートを受け取りながら、ヴェルナー・ベストは執務室の鍵をポケットから取り出した。

「マリーの体が回復したら大好きなケーキを腹一杯食べさせてやろうか」

 ベストはぽつりと独白する。

「それはマリーが喜ぶな」

 応じたハインツ・ヨストは微笑して、首席補佐官の横に並んで歩きだした。車を飛ばして病院へ駆けつけたふたりは親衛隊医師のゲープハルトに合流すると、その横には見慣れない白衣の青年が立っていた。

 年齢は国外諜報局長のヴァルター・シェレンベルク親衛隊上級大佐と同じくらいだろうか。もっとも、白衣の下に身につけた制服の襟章はシェレンベルクと比較してだいぶ階級が下であることを物語っている。

 不審そうにゲープハルトの横でカルテを覗き込んでいる青年に視線を向けるハインツ・ヨストに、ヴェルナー・ベストは簡単に青年を紹介した。

「彼は武装親衛隊に所属した医師で、ヨーゼフ・メンゲレ親衛隊中尉だ」

「ふむ」

 医師で親衛隊中尉という階級を考えると、要するにそれほど実績がないということになる。そんなヨストの不信感を察したのかゲープハルトはシャーカステンに張り付けられた胸部レントゲン写真を覗き込みながら、余り感情の揺れを感じさせずに口を開いた。

「マリーの治療のための薬は、ヒムラー長官に便宜をはかってもらって優先的に回してもらっている。そんなに心配そうな顔をしなくてもいい」

「しかし、まだ熱は下がらないのではないか? ゲープハルト中将」

「”峠”は越えた。体温も今は三八度まで下がった。……が、しかし予断は許さん容態ではあるが」

 軍の傷病者のために優先的に提供されているペニシリンを、マリーの治療のために使用しているという説明を受けてヴェルナー・ベストとハインツ・ヨストはほっと胸をなで下ろした。

 ラインハルト・ハイドリヒは、治療のための抗生剤の確保が間に合わずに敗血症で死んだのだ。

 もっとも、体力のない彼女の事だ。いつ容態が急変してもおかしくはない。だからこそ、少女が搬送された病院にカール・ゲープハルトは夜通し詰めているのだ。

「ベスト中将、ヨスト少将。マリーのことは心配いらん。わたしが責任をもって彼女の命を救おう」

 必ずや。

「顔を見ていくかね?」

 ゲープハルトに言われて、ベストヨストは頷いた。

 それほど広くはない集中治療室に通されて、ふたりの補佐官は口にすべき言葉が見つけられないままシンと静まりかえった室内に足を踏み入れる。白いシーツの上に瞼を閉ざした病衣の少女がそこにいる。腕に針を刺されてゆっくりと規則正しく点滴が滴下されていた。

 まだ呼吸が整わないのか肩で息をしているマリーの傍らに、ベストは腕にコートをかけたままで静かに歩み寄る。

 彼女が国家保安本部に配属されてから医師の世話になることは少なくない。

 警察組織にいればやむを得ないという考えもできなくもないが、それでも彼女はか弱い少女なのだ。

 ベッドに腰を下ろしたベストは長い時間沈黙してから、そっと少女の頬に触れる。

 秩序警察本部での彼女との別れ際に、自分はこう言ったのだ。

「必ず助けに行くから、待っていなさい」

 そう言ったベストにマリーはいつものように朗らかに笑って、彼に頷いた。

「はい、ベスト博士」

 助けるどころか、彼女の命を危険にさらした。カール・ゲープハルトは峠は越えたと言ったがそれでも予断を許さない状況には変わりはないという。

「わたしは、君との約束を(たが)えてしまった」

 マリーはベストを信頼していたというのに。彼女の信頼に応えられなかった。

 どんな手段を使ってでも。

 自分のありとあらゆる権力を行使してでも。

 もっと早く秩序警察から救い出すべきだった。本来はそのための法律家としての力だったはずなのに。自分がそれを選択しなかったことを後悔し、恥じる。

すまない(フェアツァイウング)

 触れた頬は発熱のためにひどく熱くてそれがベストを不安にさせた。

 彼女の不甲斐なさと、無知振りにいつも苛立たしげなものを感じていた。もっともその苛立たしさも、胸の奥がホッとするような暖かいものだったこと。

 マリーはいつでも計算をすることもない素直な笑顔でベストを癒してくれた。

「君が……」

 長い指先で白い頬を辿る。

 肌理(きめ)が細かい少女の肌だ。

「……君が、元気になったらケーキを食べに行こう」

 ――好きなだけ君の大好きなケーキを食べよう。

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