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神々の黄昏 ― Vaterland ―  作者: sakura
XXI ゲヘナへの道筋
273/410

1 手段の過ち

 クルト・ダリューゲ親衛隊上級大将の死にあたって、ベーメン・メーレン保護領の後任の副総督として急遽、指名されたのは内務大臣を務めるヴィルヘルム・フリックだった。もっとも、実質的には周囲の高官たちが権力を拡大する一方で、フリックはその権力を次第に縮小、喪失していった。そうした理由から、やはり彼には形式的な地位だけが与えられ、事実上飼い殺し的な意味合いで内務大臣とベーメン・メーレン保護領の副総督の兼任とされた。

 また、これにあたって秩序警察(オルポ)長官代理に武装親衛隊第四SS警察師団の指揮官を務めるアルフレート・ヴェンネンベルク親衛隊中将が指名された。

 ベーメン・メーレン保護領の親衛隊及び警察高級指導者の地位にあった、カール・フランクの後任としては新たな人事はされず、一旦、ヒムラーがその地位に就き、さらに補佐としてカール・ヴォルフがあたった。つまるところ、ヴォルフ親衛隊大将がベーメン・メーレン保護領の親衛隊及び警察高級指導者を兼務する形となった。

 そして、先頃、精神的に不安定になった人民法廷長官ローラント・フライスラー判事の後任として指名されたのは、ゲシュタポで強制収容所の一斉摘発に辣腕を振るった親衛隊判事のコンラート・モルゲンだった。もっとも、コンラート・モルゲンも親衛隊判事として人民法廷長官を兼務している状況であり、常々、一部の人間に権力が集中することは危険なことであると言葉を重ねていた。

 これによって、実質的に人民法廷がゲシュタポの管理下に入ったことは余談である。

 これら一連の人事が決定された十二月の初め、秩序警察(オルポ)によって、マリーの訊問が行われることになったのだが、それに不満を示す士官が一部存在したことは否めない。

「ゲシュタポはならず者ばかりだ」

 もちろんその先鋒を切ったのは、マイジンガーによって片手を撃ち抜かれた警官だった。

「お偉方がなにを考えているのかは知らないが、秩序警察(我々)がゲシュタポの連中の顔を立ててやる義理はない」

 クルト・ダリューゲとラインハルト・ハイドリヒの対立は、秩序警察と国家秘密警察の両組織の不和として修復不可能なほど深刻化していた。加えて、ラインハルト・ハイドリヒ亡き後に後任と指名されたのが、反ユダヤ主義の強烈なエルンスト・カルテンブルンナーとあっては、正直、その関係の修復のための余地がない。

 国家保安本部はゲシュタポと刑事警察を擁して、犯罪摘発の専門家であると自負しており制服警察たちを見下すところもあり、そんな国家保安本部の捜査官たちの態度が秩序警察の警官たちには癪に障った。

 ――ドイツ国民の安全が真に守られているのはいったい誰のおかげか!

「……よろしく頼むと言われたが」

 秩序警察長官の椅子に座ったアルフレート・ヴェンネンベルクは小首を傾げたままで国家保安本部から届けられた分厚いファイルを指でめくった。

 組織内の感情もある。

 もちろんそんなものは考慮すべき必要もないが、カルテンブルンナーの苛ついた顔が思い出される度におもしろくなくて、肩肘で執務机に頬杖をつくとファイルの中に挟み込まれた数枚の写真をつまみ上げた。

 余り発達していない薄い胸の、少女が肩を組紐で吊った柔らかな布のワンピースドレスを身につけている。季節は夏なのか、ツバの大きな麦わら帽子を被って片手で帽子を押さえてファインダーに視線を向けて笑っていた。

「マリア・ハイドリヒ、十六歳?」

 十六歳の少女のナチス親衛隊員など前代未聞だ。

 そもそも婦人補助員ならともかく、親衛隊員に元来女性は存在しない。

 まさか、親衛隊選抜の時に少年たちのように素っ裸にして全身をくまなく改めたわけでもなかろう。

 愛称はマリーだと、閣僚級の会合の中でヴェンネンベルクは初めて聞かされた。

 訊問の準備をすると請け負ったのは良い物の、いかんせんヴェンネンベルク自身が問題の訊問対象のことを全く知らない。

 閣僚による査問の心得もない人間に訊問をさせる事に対しては全く賛成しないヴェンネンベルクだったが、それにしたところで相手が国家保安本部に所属しているとなると多少の気構えも生じるというものだ。

 それほどまで、第三帝国の首切り役人と呼ばれた男――ラインハルト・ハイドリヒは強烈だった。

 薄い胸、華奢な手足。

 長い金髪と大きな青い瞳。

 そんな頼りない体格の少女は、凍えるほど寒い独房に留置されている。嫌疑が晴れるまでの処置だが、相手が体力に有り余っている成人男性ではないと思うと、ヴェンネンベルクの胸も少しばかり痛む。

 自分は子供相手になにをやっているのだろうか、と。



  *

 コホコホと小さな咳が独房内から聞こえてくる。

 白いマントを身につけた少女は両手をすりあわせるようにして口元で組み合わせたまま、小さなベッドに丸くなっている。

 寒さに震える肩は見るに堪えなくて、独房内を覗き込んだ警官の青年は思わず目をそらした。

 自分の立場はわきまえているのか、それとも、国家保安本部の大人たちに諭されたからか、彼女は文句ひとつ言わない。

「いいかい、必ず君を助けにくるから、待っていなさい」

 ヴェルナー・ベスト親衛隊中将は、彼女との別れ際にそう告げた。

 しかし、そんな少女の体調が悪化したのは独房にいれられてから丸一日たった頃だった。

 連続的に咳がとまらず、ベッドに横になってほとんど動かないでいる。時折動いていると思えば排泄の時と食事の時くらいだ。その食事もほとんど受け付けないのか、半分以上残している。

 出してとも、助けてとも言わない少女がかろうじて許可された白いマントにくるまってガタガタと震えている。

「おい、大丈夫か」

 たった二日ほどですっかりやつれてしまった金髪の少女に、独房の見張りについていた青年が問いかけても彼女はうんともすんとも言わない。警棒で押すようにして少女の肩をひっくり返すと、脱力しきってベッドの上に仰向けに転がった。

 顔がひどく紅潮している。

 言葉にならないうめき声をあげて、瞼をおろしたきりだ。

 青年は思わず少女の頬と額に触れるとぎょっとした。

「医師を呼べ!」

 高熱を出して意識を失った少女は青年の腕の中でぐったりと力を失って細い首を仰向ける。

 初冬のベルリンはひどく寒い。

 そんな季節柄のなか、ウールのマント一枚で暖房設備もない独房に放り込まれていたのだから体力のない少女としては当然の結果だった。

 うわごとのように「寒い寒い」と何度も繰り返す彼女の唇はかさつき、その弱々しさは哀れみすら誘う。そんな留置所の騒々しさに何事かと集まった屈強な警官たちを愕然とさせた。

「寒い、寒いよ……」

 自分を抱き上げた青年に強くしがみついてその体温に体をすり寄せる少女は、燃えるような高熱を出していた。

 報告を受けたヴェンネンベルクは数秒の逡巡の後に、医務室へと運ぶように命じた。

 彼女――マリア・ハイドリヒは現状では犯罪者ではない。

「おそらく、今晩から明日の朝にかけて山になるでしょう」

 山になる。

 それは死の宣告と同じだ。

「突然心臓が止まることも考えられます」

 体温計の水銀を振っておろした医師は厳しい表情のままでベッドの中で高熱にのたうつ少女を見つめた。

 よほど苦しいのだろう。

「肺炎を起こしています」

 それがあるいはなにかしらの病原菌によって発症したものなのかはわからない。しかし、彼女は確かに熱を出して苦しんでいるし、なんとか救う手立てを考えなければならない。

 アルフレート・ヴェンネンベルクの連絡に、数人の国家保安本部首脳部の高官たちが姿を見せた。

 国家保安本部長官エルンスト・カルテンブルンナー、ゲシュタポ局長ハインリヒ・ミュラー、刑事警察局長アルトゥール・ネーベ、国内諜報局長オットー・オーレンドルフ。そして、彼女の補佐官を務めるヴェルナー・ベストとハインツ・ヨスト、同部署の医務官であるカール・ゲープハルトの七人だ。

 錚々たる顔ぶれにギョッとしたのは医師のほうで、ベッドに駆け寄ったカルテンブルンナーに思わず勢いよく壁際まで後ずさった。

「マリー!」

 ベッドで高熱に浮かされている少女の小さな手を握って、カルテンブルンナーは床に膝をついた。

「寒いよ……、寒い……」

「政府首脳部からの要請とはいえ、この時期に劣悪な環境の独房に放り込むなど、彼女に死ねと言っているようなものだ!」

 駆けつけた親衛隊医師のゲープハルトは、秩序警察長官代理のアルフレート・ヴェンネンベルクに鋭い物言いでそう厳しく叱責する。

「しかし命令は絶対です」

「マリーを殺す気か!」

 激昂したゲープハルトが吠えるように叫んでから、荒々しい動作でコートを脱ぎながら医療カバンを開けると聴診器を取り出した。

 手短にカルテンブルンナーに話しかけると、ベッドサイドにおかれた椅子に腰を下ろした。

「おそらく肺炎を起こしていると考えられます。ゲープハルト中将」

 蚊の泣くような声で秩序警察の医務官にそう言われ、ゲープハルトは馬鹿にするようにフンと鼻を鳴らしてから「見ればわかる」と言い放った。

「バイタルは?」

「熱が四一度、血圧が一〇三の六三です。脈拍は一二四」

「危険だな」

 マリーの状況を聞かされたゲープハルトは聴診器を少女の胸に当ててから、数秒考え込んで顔を上げた。

「こんなところでの医療設備では話しにならん。すぐに病院へ運ぶ」

「ですが、今の彼女は拘留中の身です。勝手な事をされては困る!」

 ヴェンネンベルクの形式的な言葉に、殺気立ったのは国家保安本部の高官たちだった。

「彼女は犯罪者ではない! それはヴェンネンベルク中将もわかっているはずだ! 万が一にも彼女が死ぬようなことになったら、国家保安本部は全力で秩序警察を叩きつぶす。それを覚悟しろ」

 殴りかからんばかりの鋭い目つきになったのは最も若いオーレンドルフだったが、さらに過激に言い放つのはマリーの父親を自称するカルテンブルンナーだ。

「ゲープハルト中将、然るべき病院にマリーを搬送の許可をする」

「承知した」

「訊問はマリーの体調が戻ってからだ」

 吐き捨てたカルテンブルンナーにヴェンネンベルクは、返す言葉もなく一歩だけ後ずさった。

 政府首脳部からの命令だったとは言え、彼女の体力のことも考えずにやりすぎた。

 それを自覚していたからだ。

 彼女は青年男性たちとは異なる。

「……申し訳ない」

 ぽつりとヴェンネンベルクはカルテンブルンナーらに告げると小さく頭を下げた。

 そんなヴェンネンベルクを一瞥してからマリーの小さな体を抱き上げたカルテンブルンナーは、ゲープハルトの先導で足早に部屋を出ると秩序警察本部前に待機していた公用の黒塗りのベンツに乗ると慌ただしく立ち去っていった。

「寒いよ……、寒いよ」

 カルテンブルンナーの腕の中で少女は何度も繰り返した。

「大丈夫だ、もう大丈夫だ……。マリー……」

 ちなみに秩序警察を走り去る四台の高級車と、護衛の車両、さらに護衛のバイクと言った壮大なナチス親衛隊の車列にベルリン市民が動揺したのは言うまでもない。

「寒い……、苦しい……」

 必死に国家保安本部長官に縋り付く少女を腕に抱えて、カルテンブルンナーは後部座席から運転手を厳しい指示を出した。

病院(クリニークム)まで飛ばせ!」

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