15 権力の濫用
マリーはいつものように差しだされたヴェルナー・ベスト親衛隊中将の腕にエスコートされて、ヨーゼフ・ゲッベルスの城――国民啓蒙・宣伝省に設けられることになった訊問室を訪れた。
別室で親衛隊員のふたりを待機させて、ゲッベルスは自分の執務室で苦虫を噛みつぶしたような顔になっている。
どこのどいつの画策かは知らないが、「誰か」が自分を利用しようとしていることがなによりも気に入らなくて、忌々しげに眉をひそめたままちらりとソファに腰を下ろして落ち着かなそうに視線を彷徨わせている親衛隊全国指導者を見やった。
別になにも自分が訊問されるわけでもないのだから、もっと落ち着き払っていればいいのに、とゲッベルスは考える。
数人の国防軍幹部に対する訊問はゲシュタポ――要するにプリンツ・アルブレヒト・シュトラッセのほうで行われるのだから、「彼女」に対する訊問もそちらでやればいいのではないか。
過去に何例もあったはずだ。
内部の人間を訊問することなどお手のものだろうに、今回に限ってどうしてマリーを宣伝省で訊問する必要があるのかさっぱりわからない。
そわそわと体を揺らしているヒムラーにゲッベルスはあきれかえって鼻から息を抜いた。
「ヒムラー長官、もう少し落ち着きたまえ。別に長官が訊問されるわけでもなかろう」
「わかってはいるのだが……」
口ごもるヒムラーに、ゲッベルスはちらりと頭の片隅で「彼はなにかを隠している」と感じた。
ドイツ国家元首、アドルフ・ヒトラーの側近のひとりとも呼ばれるハインリヒ・ヒムラーが、かつての側近のひとりでもあった総統代理ルドルフ・ヘスと同じように、どこかおかしな奇行癖を持っていることは結構広く知られていることだ。
今さらヒムラーがそう言った意味で傍目にはおかしな行動をとったところで、別に物珍しいわけもない。
その手の内に握っている権力の割りに、気が小さく器の小さな男だ、というのがゲッベルスのヒムラーに対する印象だ。なによりも、学歴も大した事がない。それがゲッベルスがヒムラーを軽蔑する理由だった。
それからしばらくして、ゲッベルスの執務室を訪れたのは数人の政府要人たちだった。国防軍最高司令部総長ヴィルヘルム・カイテル、国家元帥ヘルマン・ゲーリング、官房長マルティン・ボルマン、国家保安本部長官エルンスト・カルテンブルンナー親衛隊大将、国家秘密警察局長官ハインリヒ・ミュラー、そして急遽秩序警察長官に指名されることになった第四SS警察師団に所属したアルフレート・ヴェンネンベルク親衛隊中将である。
アルフレート・ヴェンネンベルク中将については、近くその地位に相応しい階級とするためという名目で大将への昇進があると囁かれている。
国家秘密警察のミュラーと、国家保安本部のカルテンブルンナーの姿を見つけて、武装親衛隊所属のヴェンネンベルクはかすかに眉をつり上げただけで、「ハイル・ヒトラー」と儀礼的に言ったきり口を閉ざしている。
彼は一八九一年生まれの五一歳で先の欧州大戦も経験したれっきとした警察官僚だが、時代の流れには逆らえず戦後フライコールに参加して今に至る。
ちなみに彼は、宣伝省の外につながれている大型の赤い毛並みのシェパードに対して「良い犬だ」と思ったのは余談だ。
そんなヴェンネンベルクは、自分が秩序警察長官代理として呼び出されたことはわかっていたし、ミュラーとカルテンブルンナーの手前、秩序警察所属の警察官僚として堅い表情を浮かべたまま余分なことで口を滑らせないまいと口元を引き締めるだけだ。
ハイドリヒの国家保安本部と、ダリューゲの秩序警察。
ふたつの機関はふたりの高官の対立さながらに関係を悪化させていたのだ。
「国家保安本部の情報将校がなにをしたと言うんです」
不愉快そうな表情を浮かべて隠しもしないのはエルンスト・カルテンブルンナーだ。
「そもそも彼女が陸軍参謀本部に出入りしていたことは、カイテル元帥閣下もご存じではあるまいか」
真っ向から言い放つカルテンブルンナーに、ヴィルヘルム・カイテルは複雑そうな表情をしてからしばらくなにかを言い出そうとして何度か口を開けたり閉じたりを繰り返すと、やがておもむろに言葉を吐きだした。
「もちろん、今回の件については彼女は大事な証言者だ。我々、国防軍の命運を握っていると言ってもいい。だからこそ、彼女の所属する国家保安本部での訊問ではなく宣伝省で行われることになった」
もっともらしくカイテルが告げるが、そんな言葉にカルテンブルンナーは騙されない。
「……失礼します、国家保安本部での訊問が行えないとなれば、秩序警察でもよろしかったのではありませんかな?」
ふたりの高官のやりとりに横槍をいれたヴェンネンベルクに、カルテンブルンナーはちらと冷たい眼差しを投げかけると忌々しそうに「犬飼い風情に警察のなにがわかる」と言い捨てた。
無礼なカルテンブルンナー物言いに、しかしヴェンネンベルクは表面的には顔色をぴくりとも動かさない。
カルテンブルンナーの言う犬飼いという言葉はあたらずとも遠からずといったところだ。彼は軍を退役してからエッセンの警察学校で警察犬の指導員となり、さらにその四年後には警察犬部隊の指揮官も拝命している。
誰よりも警察犬を知り尽くしているという自負があった。
警察業務を遂行するためにはなくてはならない存在。
アルフレート・ヴェンネンベルクにとって、警察犬とはそういう存在だった。
「お言葉ですが、ゲシュタポでも警察犬は訓練されているのではありませんか?」
余り抑揚を感じさせない声で、ヴェンネンベルクが冷静に指摘すればカルテンブルンナーのほうは理性的な新秩序警察長官が面白くなかったのか盛大な舌打ちを鳴らした。
「とにかく、これは国家保安本部の問題だ」
今すぐマリーを連れて帰る、とでも言いたげな勢いのカルテンブルンナーの言葉に、今度は官房長のマルティン・ボルマンが皮肉げな言葉を漏らした。
「カルテンブルンナー大将はそう言うが、なにがなんでもあの娘を連れ帰ろうとするところを見ると、国家保安本部も後ろめたいことを隠しているのではないか?」
「彼女がなにをしたのかと言っているだけです」
しかしカルテンブルンナーもボルマンを相手に一歩もひきはしない。
「国家転覆の謀議の場に親衛隊員が居合わせたと言うことは大きな問題だ」
恣意的に言葉を選んでボルマンは悪意のこもった言葉を放つ。
「官房長、わたしは何度も言っているが国防軍には国家転覆の意図はないと言っている。仮に彼女がそこに居合わせたとしても、罪の有無は官房長の判断するところではない」
悪意のこもった眼差しで、言葉で軍と親衛隊の罪を追及するボルマンに食ってかかったのはカイテルだ。それをおろおろと見つめているのはヒムラーで、ざわざわと騒々しいゲッベルスの執務室で声を張り上げたのは長身の国家元帥だ。
「諸君、静粛に!」
ヘルマン・ゲーリング。
ナチス党員の古参党員で、巨大な権力を握る空軍総司令官だ。
最近ではすっかりやせこけて、かつてのハンサムな姿を取り戻しつつあった。鋭い眼差しは、ミュンヘン一揆以前の彼の強靱さを伺わせた。
「問題は、国家転覆の謀議が本当に行われたのかを調査することだ。その場に居合わせた将校が存在するのであれば、その上下を関わらず理性的に調査は行われるべきであるし、こと、これが陸軍参謀本部総長が関与しているとなればゆゆしき問題だ。ことの真偽はともかくとして、事態を明らかにして身に覚えがないのであればその潔白を証明すべきことが先決なのではないかね?」
清廉潔白であれば、それを証明すべき。
ゲーリングの言葉にヒムラーはごくりと喉を上下させた。
「し、しかし……、ラ……、彼女はまだ子供だ」
まだ彼女はたった十六歳だ。賢明な大人たちのようになにかを計算しているわけでもない。
言葉に詰まりがちなヒムラーに怪訝な視線を投げかけたゲッベルスだったが、結局、彼を追及したところでまた非現実的な発言が飛び出してきそうで素知らぬふりを決め込む事にした。
そんなことよりも気に入らないのは官房長のボルマンの存在だ。
彼はかつて総統代理のルドルフ・ヘスがいた頃こそ目立つことはあまりなかったが――もちろん、それでも尚目立ってはいたが――、このところ目に余るほど権力を拡大しつつあった。
「彼女の証言が国防軍に潜む裏切り者を暴くことになるのであれば、親衛隊にも箔が付くのではありませんかな?」
ボルマンのねちっこい言葉にヒムラーは余り同意の気配が感じられない。
「わたしはそんなものは望んでいないと言っているのだ」
親衛隊が党本部の好きにされるというのは、ヒムラーにしてみればたまったものではない。彼らはいつナチス親衛隊の権力を我が物にしようかと企んでいる連中ばかりだ。そんな不道徳な男たちに権力を渡してはならない。
ナチス親衛隊の権力の弱体化は、そのまま突撃隊や国防軍の権力強化につながることを、なによりもヒムラー自身がわきまえている。
権力とは常に拮抗していなければならないのだ。
「しかし」
それまで沈黙を保っていたゲシュタポの長官、ハインリヒ・ミュラーが静かに口を開いた。
「しかし、ヴェンネンベルク中将の言われることもまた事実ではあるまいか」
「どういうことかね?」
カルテンブルンナーが重々しくミュラーの言葉の先を促した。
「警察機関以外の情報局、あるいは”諜報部門”に訊問の心得があるとは思えませんが。誤った訊問の方法をとれば真実が自ずと遠のくのは皆様もご理解のほどと思われますが」
言葉を選ぶようにしてミュラーが告げれば、かつてゲシュタポの頂点にいたゲーリングはソファにどっかりと腰を下ろしたまま腕を組むと「ふむ」と相づちを打った。
「だが、国家保安本部所属の親衛隊員を国家保安本部で訊問するというのは、身内に対するなれ合いも出てくるのでは?」
「官房長閣下、我々は国家の敵を追い詰めることが仕事です」
努めて冷静を装って、ミュラーは丁寧にそう告げた。
日頃からマリーのことは目に入れても痛くないと思える程かわいがっているハインリヒ・ミュラーだが、その感情をマルティン・ボルマン相手に気取られてはならない。それはカルテンブルンナーにしても同様のようで、鋭い眼差しを一同に向けたまま機嫌悪そうに眉間にしわを寄せていた。
直感で誰が敵であるのかを、カルテンブルンナーは感じ取っているようだった。
誰が敵で、誰が味方なのか。
それを見極めなければならない。
そもそもカルテンブルンナーにしろ、ミュラーにしろ、マリーが国家転覆の謀議に関わっていたことなど青天の霹靂にも等しい。陸軍参謀本部で「お勉強会」が開かれていたのは知っていたが、主にマリーの言葉使いや一般常識に対してお説教が主な内容らしいのだから当然だ。
「フン」
国家保安本部の警察官僚にそう言われて、マルティン・ボルマンは鼻を鳴らす。
「どうだろうな、レームの時と同じだ。敵は案外身内に潜んでいるのはままあることだ」
見下したようなボルマンの言葉にミュラーはぴくりと眉を引き上げる。
敵が身内に潜んでいることは確かによくあることだが。
それがよりによってマリーを対象にしているなどあり得て良いわけがない!
思わず身を乗り出すようにしたミュラーを長い腕を伸ばして押しとどめたカルテンブルンナーは、ぎろりと強い瞳をボルマンに向けてから、一息おいて口を開いた。
「ひとつ申し上げておきますが、”我々”の訊問のやり方を閣下が真似るようなことは賛成いたしかねます」
男も女も裸にして拷問をする。
それが国家保安本部の、そしてゲシュタポのやり方だ。
そして、ゲシュタポは囚人に対してどんな”卑劣”な手段をも行使する権限を有している。
それこそが「夜と霧」。
「あなたにはその権限が存在しない」
女好きの、権力欲にまみれた自己顕示欲ばかりが目立つマルティン・ボルマン。
おそらく官房長がこの場に姿を現したのは、そうした理由もあるだろう。想像することも吐き気がする思い違いにまみれた思考の男だ。
「……ヒムラー長官」
そんなカルテンブルンナーの言葉を受けて、マルティン・ボルマンはハインリヒ・ヒムラーに顎をしゃくった。
ゲッベルスの執務室の隅にふたりで行った彼らは何事かを小声で話し込んでいる。
そしてボルマンの台詞に赤くなったり青くなったりを繰り返したヒムラーは、やがてヒステリックな勢いで叫び声を上げた。
「わ、わたしは……! わたしは! 官房長の”融資”を個人的に受けたことは否定できない! 全てわたしの情けないところに原因があった! しかし、わたしはハイドリヒ少佐に対するあなたの”性的な好奇心”を見過ごすわけにはいかない!」
息を切らせて血走った目でそう叫んだヒムラーに、ギョッとしたのはカルテンブルンナーとミュラーだ。
「彼女はまだ十六歳で、恋人もいない。健全な男女のつきあいもしたことのないハイドリヒ少佐をあなたのベッドに差しだすようなことなどわたしにはできない!」
愛人を持ったこともあるとは言え、ヒムラーは比較的男女の関係には潔癖だ。
「そ、それに、ゲープハルト中将も、彼女の体では、その男女の仲になるには体力も体格も足りないと診断している……」
健全な国の未来を担うための女性の体格としては、劣るところが甚だしい。
「……――」
異様な沈黙がゲッベルスの執務室を満たしてしばらくしてから、やがてヘルマン・ゲーリングが静かに口を開いた。
「官房長、訊問とは寝室でやるべきことではないが」
じろりとゲーリングが侮蔑するように言葉を吐き出す。
「それに、仮に官房長がヒムラー長官になにがしかの融資をしていたとして、それを盾に女性をベッドに連れ込もうとするのはいかがなものか」
まだ少女になったばかりのような体型でしかないマリーをベッドに連れ込む。
そんな禁断の想像に、カルテンブルンナーとミュラー、そしてカイテルが絶句している。ゲッベルスは冷たい眼差しをボルマンに向けただけで、フンと鼻を鳴らした。
マルティン・ボルマンが、マリーを?
「死んでしまう……」
カイテルが青白い顔のままで、ぽつりと独白した。
男たちの行為にあの華奢な体が晒されれば、マリーは死んでしまう。
「ヴェンネンベルク中将、マリーの訊問は秩序警察で依頼したい」
蝋人形のように真っ白な顔色になったエルンスト・カルテンブルンナーは、しばらくしてからそう告げた。
「承知しました、大将閣下」
「それでは、わたしは別件の仕事がありますので失礼ですがこれで」
早口にそう言ったカルテンブルンナーが執務室の床を蹴るような勢いで敬礼もそこそこに飛び出していく。
「国家保安本部を敵に回したことを後悔させてやる……」
大きな音をたてて扉をたたきつけたカルテンブルンナーは、歯ぎしりをしてから小さくそうつぶやいた。




