13 判定
ベーメン・メーレン保護領、プラハから戻った国家保安本部のカール・ゲープハルト親衛隊中将のもとにひとりの若き医学博士が訪れた。武装親衛隊の制服に身を包んだハンサムな青年だ。
三一歳のヨーゼフ・メンゲレ親衛隊中尉。その姿を認めて、ゲープハルトは書類に走らせていたペンを止めて片手でブロッターを取ると、書いたばかりの書類の余分なインクを吸水紙に押し当てる。
「あぁ、よく来てくれた。メンゲレ”博士”」
わざとそう言ってやるのは、権力欲に熱心な若い医学博士の自尊心を満たしてやるためだ。そうやって相手を持ち上げておいて、自分の思った方向へと話しを誘導する。
「ヒトラー万歳」と敬礼をした相手に返礼して、ゲープハルトは表向きは気さくな風でメンゲレにソファを薦める。
男というものは大概、名誉欲や権力欲に取り憑かれているところがあるものだ。
才能がある者――と自ら思い込んでいる者――で、権力にも金儲けにも興味がないという者がいるとすれば、よほどの奇人変人だろう。
得てして才能を発揮するためには資金が必要なのだ。
学者とて霞みを食って生きているわけではないし、研究を続けるためには資金が必要だ。自分の興味を持つ分野の研究をするためには、面白くないことも選択しなければならないこともある。
一方で、ドイツ国内でも有数の医学博士の召喚を受けて、メンゲレは内心で意気揚々と心を躍らせて背筋を伸ばした。
彼が見てきたものはドイツの絶望だ。
そして多くの知識人たちがそうであったように、彼は幼い頃に絶望的な現実を突きつけられた。先の欧州大戦でのドイツの敗北と、輝かしい未来の喪失。そして、国内の飢餓と、子供のメンゲレにはどうすることもできない経済恐慌。
子供時代の小さな彼の世界を、時代の荒波が津波のように瞬く間に押しつぶした。
「東部戦線では負傷したと報告書にはあったが」
「……はっ、大変意気地のないことで面目もありません」
歯切れ良く応じたメンゲレにゲープハルトは内心で肩をすくめると、丸い眼鏡の奥からじっと美青年を見つめてその内側にあるものを見透かそうとする。
「わたしは戦場に出向くことはないからな。前線の任務で負傷したことが肩身が狭いことだとは思わんが、……そうだな。前線から軍医がひとりでも欠けるのは、作戦遂行に大きな支障を来すだろうし、残念なことだと思う」
静かにゲープハルトにそう告げられて、メンゲレは訝しげな光を瞳に瞬かせた。
そんな青年医師の不審げな眼差しに気がついたのか、ゲープハルトは小さく声を上げると笑ってから顔の前で軽く片手を振って見せる。
「そんなに緊張しなくても良い。別段、貴官の負傷を咎めるためにここに呼び出したわけではないのだからな」
「……はい」
親衛隊全国指導者ハインリヒ・ヒムラーの側近とも呼ばれるカール・ゲープハルトに取り入ることができれば自分にも出世の道が開かれるはずだ。そうした打算的な考えをメンゲレは巡らせながら、じっと目の前にいる眼鏡をかけた男の様子を窺った。
「武装親衛隊での前線勤務については今後は不適格とあるが、医師として一般親衛隊で任務に従事する気はあるかね?」
一般親衛隊、という単語をことさらに強調したゲープハルトに、メンゲレは眉をひそめる。
それは選択肢がある上での問いかけなのだろうか。
「中将閣下、ひとつお聞かせください」
「なにかね?」
「本官に選択する権利は許されているのでしょうか?」
メンゲレにそう問いかけられて、ゲープハルトは胸の前で腕を組み合わせてから瞼をおろす。
「別にわたしの命令を聞かなかったからといって左遷するつもりはないし、そんな人事権などない」
「ではどのようなお話でしょう」
「そうだな、簡単に言えばわたしはわたしの部下を捜している。忠実に、わたしの命令を遂行する”優秀な”部下が望ましい」
もちろん、出世が約束できるとは限らないが。
淡々とゲープハルトは言ってメンゲレを観察する。
一挙一動の全てを見逃すまいと鋭い視線を送った。
「国家保安本部での仕事は、警察に協力するだけの日陰の仕事であるというわけではなさそうですが」
言葉を探しながらゆっくりと口から吐き出すヨーゼフ・メンゲレに、ゲープハルトは唇の端をつり上げてかすかに笑う。
「随分と警戒しているようだが」
「相手が国家保安本部となれば警戒しなくてなんだというのですか」
率直な彼の言葉にゲープハルトは「ふむ」と短く相づちを打ってから、一度組んでいた腕をほどいてから組み直す。
「そんなに警戒しなくても良い。わたしは、わたしの仕事のために必要な人材がいると言っているのだ。それとも、貴官は人類学の神秘を解明したいとでも言うのかね?」
金と権力がなければ好奇心を向ける研究もできはしないのだ。
「出世したくない、と言えば嘘になります」
「だろうな」
混乱のこの時代、男たちは出世のための糸口を探す。
その細い糸をつかみ取ろうとする。
「それで出世したいのか、それとも研究したいのかどちらなのだね?」
「……わたしは」
どうすればいいのか。
そんなことはわからない。
言いかけたメンゲレにゲープハルトは沈黙したままでじっと見据えて、ややしてからすっと目を細める。
「……わたしは、中将閣下のお力になれるのであれば光栄に思います」
光栄に思う。
それはメンゲレのひとつの本音だった。
医学の博士号を持つ知識人として期待をされること。それが彼の自尊心をくすぐった。
「医学的研究」にも関心はあった。
「金儲け」にも関心があった。
けれども、そんなことよりも権力のより近くへと上り詰めることこそがメンゲレの関心を惹きつけた。なによりもカール・ゲープハルトという男の地位と名誉は、メンゲレの若い欲を満たすには充分だッたのかもしれない。
「よろしい」
そう答えた彼にゲープハルトは大きく頷いてから、彼に言葉を返した。
「貴官を採用するかは後日連絡する」
ゲープハルトの言葉に、メンゲレは肩を落とした。
気難しい男だと、青年はヒムラーの側近を見返してから考える。
「帰ってよろしい」
*
「アイヒマン中佐ー」
「なんだ」
場違いに馴れ馴れしい少女の声に若い男が応じる声が聞こえる。
ゲープハルトとの面会の結果はどういうことになるのだろう、と考えながらメンゲレが長い廊下を歩いていると、中肉中背のそれほど背の高くない男の袖を引っ張って、彼の気を引こうとしているのか何度も軽く引っ張って「親衛隊中佐」と繰り返す。
「だからなんだと聞いているじゃないか」
「だって、アイヒマン中佐、わたしの話し聞いてないじゃない!」
地団駄を踏みながら怒っている少女を見下ろす一般親衛隊の青年は、メンゲレよりもいくつか年上だろうか。あまり知性の感じられる顔はしていないなどと冷静に考えながら興味深そうに少女と青年を不躾に観察していた。
「聞いているし、わたしはそんなに暇ではないのだ」
部下から手渡された書類に素早く目を通してサインをしながら、アイヒマン中佐と呼ばれた男は鬱陶しそうに嘆息してから自分の制服の袖を掴んで離さない金髪の少女の手を振り払う。
グレーのベレー帽を被った少女は、ひらひらとジャンパースカートの裾をひらめかせながらぴょこりと金色の三つ編みを跳ね上げた。
地団駄を踏むほどだから余程幼いのだろうか。
痩せ気味の体格のせいか年齢がいまひとつわからない。
「アイヒマン中佐ー!」
「あぁ、わかった。この間のケーキの件なら今度、店の名前を聞いてくるから」
「やったー!」
きゃっと喜んだ声を上げて金髪の少女は両手を高く頭上に上げて万歳をすると、屈託のない笑顔でうんざりした顔の親衛隊中佐の腕に自分の腕を巻き付ける。
どうやら少女は件の親衛隊中佐を同程度にしか認識していないようで、同じ年代の男してどこか情けなくも感じた。
――あんな小さな子供に振り回される者も、男としてどうなのか。
「だから、もういい加減にわたしに仕事をさせろ。だいたい君だって自分の仕事があるだろう。プラハから帰ってこのかた、そんなに暇ではないという噂を聞いているぞ」
苛立ちながらも親切に言葉を返している男と、どこからどう見ても幼い子供の彼女。
ふたりはいったい何者だろう。
「あれ?」
金髪の少女が素っ頓狂な声を上げた。
彼女と親衛隊中佐をあきれながら見つめているメンゲレに気がついたようだ。
「あなた誰?」
少女がメンゲレに問いかけた。
「ハ、ハイル・ヒトラー!」
そこでようやくメンゲレは我に返った。
頭の悪そうな男とは言え、親衛隊中尉のメンゲレよりも相手のほうが階級が上になる。目の前の男に敬礼をした親衛隊医師に少女は目を丸くしてから、睫毛をしばたたかせて自分が腕を巻き付けている警察将校を見上げる。
「武装親衛隊所属の医師、ヨーゼフ・メンゲレ親衛隊中尉であります」
カッと踵を鳴らして名乗ったメンゲレに、フィールドグレーの制服を身につけた親衛隊中佐は余り興味もなさそうに「あぁ」とだけ応じて、少女の腕を振り払う。
「マリー、君は自分の仕事に戻りなさい。たぶんベスト中将がやきもきしている」
そう言ってから姿勢を正したアイヒマンと呼ばれた男は、わざとらしく咳払いをしてから表情を取り繕った。そうして、メンゲレに敬礼を返すと交わす言葉もないのかそのまま彼の目の前を立ち去った。
結局、少女と「アイヒマン」とはどんな関係だったのか。
聞くに聞けない疑問を抱きつつもメンゲレは消化不良のままでプリンツ・アルブレヒト・シュトラッセのエントランスを立ち去った。
一介の親衛隊中尉などが聞ける立場もない。
「マリー? アイヒマン中佐?」
あのふたりはなんだったのだろう。
そして彼女がやっている「仕事」とは何なのだろう。
国家保安本部は言わば秘密警察だ。その中枢のプリンツ・アルブレヒト・シュトラッセの本拠地にどうして子供がスキップしているのだろう。そんな無責任なことを考えながらも、結局自分の疑問に対する答えを見つけられずに溜め息をついた。
そこにある事象だけでは答えは見つからない。
ヨーゼフ・メンゲレに与えられた情報は余りにも限られていたのだ。
一方で、執務室を訪れたふたりの高級指導者を相手にゲープハルトとはばっさりと切り捨てた。
「俗物だ」
そんなゲープハルトにヴェルナー・ベストとブルーノ・シュトレッケンバッハの両親衛隊中将は顔色ひとつ変えはしない。
「だが、俗物ほど使いやすいものはない。そうだろう? ゲープハルト中将」
ベストの返答に、シュトレッケンバッハは壁に寄りかかったままで窓の外を眺めて顎を撫でる。
「東部戦線上がりのならず者がマリーの指揮下に入ることは反対だ」
マリーは非力な少女だ。
そんな彼女を利用しようとする者もいるだろう。もしくは腕力で抵抗できないことを良いことに力任せに組み敷かれるかもしれない。そういう事態に陥ったとき、マリーの体がそうした男の乱暴に耐えられるとはゲープハルトは考えていなかった。
そんな危惧をするゲープハルトは、実のところ最もマリーの健康を気に掛けている親衛隊高級指導者のひとりだった。そして、だからこそ彼はマリーの傍らに若く精力旺盛な男が並ぶことを警戒した。
ベストやヨストはまだいい。
彼らは法律家だし、年齢は親と娘ほど離れている。
「なにかあってからでは遅い」
「だが、ゲープハルト中将も助手は必要だろう」
ベストに問いかけられて、ゲープハルトはフンと鼻を鳴らした。
「それとも自信がないのか?」
「なにが言いたい」
自信がないのか、と言ったのは現人事局長のシュトレッケンバッハだった。思わず剣のこもる声になったゲープハルトに、人事局長は挑戦的に笑うと唇の端をつり上げた。
「手綱を握るのが自信がないのかと聞いている」
「……わたしを誰だと思っているのだ、シュトレッケンバッハ中将」
「親衛隊長官の側近なら造作もなかろう?」
挑発するようなシュトレッケンバッハに、ベストが無言で頷いて追い打ちをかける。
「貴官の仕事の心配をしている。モレルのことを調べているのは知っているが、ひとりでは荷が重いのではないかと我々は心配しているのだ」
国家保安本部の思惑を外れて賢明な人間は厄介だが、相応に愚鈍な人間は使い勝手が良い。
ベストとシュトレッケンバッハのふたりの人事局長を前にして、ゲープハルトは鋭く舌打ちを鳴らした。
「”馬鹿”とはさみは使いよう、か」
そこで一度、ゲープハルトは言葉を切った。
「だが、もしもマリーに不埒な行動のひとつでもしたら、わたしの指揮下からたたき出す。それは心得ておけ」
ゲープハルトは言いながら不快な事件を思い出した。
まだたった十三歳の少女に乱暴を働いた男のことだ。そして、その男は今も牢獄の外にいて何食わぬ顔で武装親衛隊の部隊を率いている。
ゴットロープ・ベルガーの友人――オスカール・ディルレヴァンガー。
そもそもベルガーはそんな友人を持っていることに恥じるべきだ。
ヨーゼフ・メンゲレとは全く関係のない人物を思い浮かべてから、ゲープハルトは苛立つように強く自分の膝を叩いてから顔を上げた。
「貴官らの考えはよくわかった」




