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神々の黄昏 ― Vaterland ―  作者: sakura
IV 神の炎
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2 無垢の憧憬

 政府首脳部が情報戦に対しての理解があるかどうかはともかくとして、現在、ドイツ諜報部の部員たちは総力を挙げて事態を好転させるべく、まさしく日夜問わず東奔西走している。

 ラインハルト・ハイドリヒ亡き今、諜報部員たちを束ねるのは第三局国内諜報局長オットー・オーレンドルフ親衛隊少将と、第六局国外諜報局長ヴァルター・シェレンベルク親衛隊大佐である。

 ヨアヒム・フォン・リッベントロップ外務大臣の夜会での一件以来、徐々にマリーは周囲へ対する牙を剥き始めたようにシェレンベルクには思えた。

 知っているわけがないことを知っている。

 他者が知られたくないことを知っている。

 もしくは当人以上に、「彼ら」のアキレス腱を()っているのだ。

 国家保安本部(RSHA)のオフィスを訪れたハインリヒ・ヒムラーに呼び出されたのは、マリーだった。

 青白い顔をして副官であるカール・ヴォルフを連れていた。基本的に不安定なところが多いヒムラーだが、今日はいつにも増して不安定であるような気がする。

「……――」

 沈黙したシェレンベルクは、口元を片手で覆って片目をすがめた。

 一体何の話しをしているのだろう。さしずめ、午前中早くにヒムラーの元に送った「書類」の一件だろうか?

 確かに一介の少尉――下級士官が出す書類にしてはふてぶてしいにも程があるが、それにしたところで危機感のかけらも感じさせないマリーの頬はバラ色で、逆にヒムラーは血色を失った真っ白な顔だったのが印象深い。

「どうだ?」

 ヒムラーの執務室に続く扉を見つめるシェレンベルクに声をかけたのは、親衛隊司令部長官カール・ヴォルフ中将だ。

「これは中将閣下」

 素早く敬礼したシェレンベルクに、ヴォルフが顎をしゃくる。

「……どう、とおっしゃいますと?」

「しらばっくれるな、例の小娘の件だ」

 カール・ヴォルフはこの年、四二歳。

 彼にしてみれば、マリーは年齢的に自分の娘と大差ない。

「難しい問題です」

 それだけ告げてシェレンベルクは、長身の男を横目に見やる。

 ナチス親衛隊と言うだけあって、カール・ヴォルフも文句のない長身の上に美男子だ。

「ただの少女のようにも見えることがあるのは事実です」

 しかし、シェレンベルクが知っていることの全てをこのヒムラーの側近に話して良いことなのかが判断できない。

 ヴァルター・シェレンベルクは、かつてのラインハルト・ハイドリヒ同様に自分の上官たちを信頼などしていなかった。

 ――自分は、魔物の巣に棲んでいるのだ。

 ほんのわずかな隙さえ見せれば命取りになるだろう。

「わたしをそんな言葉で言いくるめられると思うなよ、シェレンベルク」

「ご安心ください。そんなことは露ほども思っておりませんので」

 相変わらず飄々とした腕利きの諜報部員の言葉に、カール・ヴォルフは軽く肩をすくめてみせるだけだった。

「……ふん」

 わずかに忌々しげな表情を覗かせたヴォルフだったが、結局すぐに表情を改めるとヒムラーとマリーが話しをしているだろう部屋の扉を凝視した。

「つまり、ただの少女ではないということか」

 親衛隊司令部長官の言葉に言葉を返すこともなく小首を傾げたシェレンベルクは、それからしばらく考え込んでから頷いた。

戦略情報局(OSS)のスパイと接触したようです」

 長くもなければ短くもない沈黙の後に告げた国外諜報局長の言葉に、ヴォルフは深くソファに腰を下ろしながらシェレンベルクの表情の変化を見逃すまいとでもするかのように鋭く光を閃かせた。

「……話せ」

「詳細はわかりかねますが、彼女、おそらくアメリカとつながりのある地下組織の一派を丸ごとたたきつぶす気かもしれません」

「ほう?」

 もっとも諜報部には逮捕権はない。

 仮に地下組織を丸ごとたたきつぶすのだとしても、その際に動員されるのは四局の国家秘密警察(ゲシュタポ)と五局の刑事警察(クリポ)だ。

「興味深いな」

「まだ仮定の話です。彼女がなにを狙ってアメリカ戦略情報局のスパイとつながりを持ったのかは不明です」

 そう。

 もしかしたら、彼女自身が国家の敵となる可能性だとてないわけではない。だから、今のところシェレンベルクは注意深く彼女を監視している。

「ハイドリヒ少尉が、本当にドイツ第三帝国のために動いているのであれば、彼女の目的はただひとつと考えられますが、逆だとしたら恐ろしいことです」

 静かに淡々と言葉を続けるシェレンベルクにヴォルフは視線だけを滑らせて窓の外を見やった。

「だが、かつてのミュラーの時のような可能性もあるだろう」

「そうです」

 しかし、それすらも罠であるとしたら……?

 昨年、大日本帝国で逮捕されたリヒャルト・ゾルゲのように、連合国側のスパイであるという可能性も捨てられない。

 今のところ、誰が敵で誰が味方なのかすらわからない。

「諜報員というのは、ややこしい思考回路をしているものだな」

「そうでなければ務まりませんので」

 カール・ヴォルフの前で朗らかに笑っているこの青年こそ、多くの特殊作戦に従事してきた生粋の諜報部員である。

 腹の内が見えない、とでも言えばいいのか。

 この目の前の若い諜報部の”ベンジャミン”はなにを考えているのだろう。

 そんな会話をシェレンベルクとヴォルフが話しているうちに、ヒムラーの執務室から相変わらずの笑顔でマリーが退室してきた。

 胸の前でマリンハットを抱えている彼女は、鷲章もつけていなければ親衛隊情報部に属することを示す腕章をつけているわけでもない。

 外見は完全にその辺の子供と一緒だ。

 それがカール・ヴォルフには我慢ならなかったのだろう。

「親衛隊に所属するのであれば、それと相応しい外見に気を遣うべきだろう……っ!」

 一喝したヴォルフに驚いたのはどちらかと言うとシェレンベルクのほうだ。もっとも、上官が部下を怒鳴りつけることなど軍隊では日常茶飯事であるし、それそのものに驚いたわけではない。

 シェレンベルクが驚いたのは、怒鳴りつけられたときのマリーの表情だ。

 青い瞳が一瞬の揺れすらも見せずに、長身のヴォルフを見上げる。

「初めてお目にかかります」

 にっこりと笑った。

「やめたまえ、中将……」

 扉が開く音がしてハインリヒ・ヒムラーの声が響いたのはそのときだった。

 相変わらず青い顔のままでヒムラーがヴォルフの言葉を制止する。

「しかし、長官!」

 怒鳴りつけられていることに対しても、顔色一つ変えない少女はにこにこと笑いながらスカートの裾を軽く持ち上げると会釈をした。

 これはきれいさっぱり敬礼を忘れているな、とシェレンベルクは思った。

 せっかく突撃隊のヴィクトール・ルッツェから、ナチス党の敬礼を教えてもらっただろうに。

「いいんだ、彼女は、それで」

 途切れがちになる声は掠れている。

「シェレンベルク大佐、先刻の書類の件だが本日付で認可する。今後、彼女の下に特別保安諜報部を組織するものとする」

「はぁ」

 間の抜けた返事を返しながらシェレンベルクはちらと考えた。

 これは相当痛いなにかを掴まれたのだろうか。

 それとも……――。

 国家保安本部を統轄しているはずのハインリヒ・ヒムラーがひどくオカルト的な考え方を知ってはいるが、彼の怯えている様子はそれだけでもないような気がする。

「尚、これに伴ってハイドリヒ親衛隊少尉は本日付けで親衛隊大尉に任命する」

 これはなにかあったな。

 それがヒムラーの決定に対するシェレンベルクの感想だ。

 ヒムラーの機嫌ひとつで階級が一足飛びに駆け上がっていくことなどナチス親衛隊という組織ではそれほど珍しいことではない。なぜなら、ナチス親衛隊とは決して軍隊ではなくただの独裁組織なのだ。

 ハインリヒ・ヒムラーをトップに据えた。

 その権力はドイツ第三帝国を覆ってしまうほど強大だ。

「シェレンベルク、話がある。ちょっといいかね?」

 告げられてシェレンベルクは小さく会釈した。ヒムラーの後に続いて執務室へと入っていく。

 豪華な執務机の前に立ったヒムラーは大きなため息をついてから、自分の背後に控えている若い国外諜報局長を見つめた。

 保安情報部という組織は決して大きなものではない。

 ハインリヒ・ミュラー親衛隊中将の統括する第四局、国家秘密警察と比較すればごくささやかな組織だった。

 もっともゲシュタポや刑事警察から保安情報部に派遣されている者も少なくなく、さらに任務を行ううちに諜報部員となった者も多い。

 要するにその境はひどく曖昧なものでしかなかった。

「君は彼女がアメリカの諜報部員に接触を持ったというのは聞いているか?」

 問いかけられたヒムラーの言葉に、シェレンベルクはただ「はい(ヤー)」とだけ答えた。

「彼女の情報によると、どうやら総統に対するテロが計画されているらしいのだ」

 もったいぶった言い方をしたヒムラーに、シェレンベルクは無言のままで視線を床に滑らせてから、改めて親衛隊長官を見つめる。

「初耳です」

「どうやらそのようだな。ハイドリヒ大尉もそう言っていた」

 マリーは確かに戦略情報局(OSS)の工作員と接触したと言っていたが、シェレンベルクにそれ以上のことは言っていなかった。

「……だが、ありえない話しではない」

 敵国の権力者を暗殺しようとする動きはどこにでもあるものだ。

 特にきな臭い今のような時代は。

「この春にも似たような計画は上がっていたそうだ」

 しかし、その計画はヒトラーが会談場所を変更したため、ヒトラーとムッソリーニの失明計画は失敗に終わったということだった。

 そうして、この再びヒトラーの政治的影響力をそぎ落とすための新たな計画が立ち上げられた。

「それが、彼女の言う次の総統へ対するテロ、というわけですか」

 素早く状況を理解したシェレンベルクは口元で薄く笑みをたたえる。

「しかし、どうやって総統の影響力を削ごうと言うのですか?」

 興味深くなる若い諜報部員の青年の言葉にハインリヒ・ヒムラーは、肩をすくめてから深刻な顔つきになった。

「総統に、女性ホルモンを投与する計画だそうだ」

「それはまた滑稽な話ですね」

「……しかし、病気の指導者に民衆はついていかんぞ」

 深刻な話しだった。

「ごもっともです」

 肉体が病むと言うことは、精神も病むということだ。

 病人に、政治と戦争の指揮をとらせていたのかと、ドイツ首脳陣の権威と、向けられる信頼は失墜することは目に見えていた。

「総統に対するテロを阻止するために、今回は彼女の特別保安諜報部に試金石として任せてみようかと思う」

「それであの人選ですか?」

「……わからん」

 ドイツ国家保安本部の指揮官たちは文武両道であるべきだ。

 それがラインハルト・ハイドリヒの思想だった。

「本当にそんなことで、総統閣下の権威を失墜させられるなどと戦略情報局(OSS)が考えているのだとしたら、茶番以外のなにものでもありませんね……」

 ごく真っ当な感想を述べたシェレンベルクに、しかしヒムラーは険しい顔をしたままで窓の外を見つめていた。

「だが、総統にそんなものを投与できるとしたら、奴らは直接総統を(ほふ)ることも可能だと言うことだろう」

 珍しくまともなことを言うヒムラーに、シェレンベルクは「あぁ、なるほど」と内心で相づちを打つ。

 彼は、アドルフ・ヒトラーに毒を盛られるのではないかと心配をしているのだ。

「正直なところ、彼女の実力をどこまで信頼していいのかまだわたしも計りかねている。だから、シェレンベルク。大佐は彼女に必要な支援をしてやってくれ」

「……承知いたしました」

 ヒムラーの言葉を本気半分で聞きながら、シェレンベルクはかすかに片目を細めただけだ。そうして執務室を出ながら、ふとラインハルト・ハイドリヒの印象を思い出した。

 彼は確かに、組織の頂点に立ちたがっていた。

 しかし決してドイツ第三帝国の頂点に君臨したがっていたわけではない。

 彼はただ、ドイツという国の中で権力に対する激しく狂おしいばかりの憧憬を感じていただけのことだった。

 まるで、無欲な印象しか受けないマリーだが、よく似ているではないか。

 他者の評価も、印象も顧みないところが。

 似ているのはその筆跡ばかりではなかった。

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