12 思惑と対決
一九四二年の末。
十二月に入ってヒトラー政権中枢に激震が走った。
曰く――、国防軍に国家転覆の兆しあり。この情報が耳に届いたヒトラーは当然の如く激怒した。
陸軍参謀本部総長のフランツ・ハルダーと、反ヒトラー派の前陸軍参謀総長のルートヴィヒ・ベックが頻繁に接触しているらしい。その触れ込みに、ヒトラーは国防軍最高司令部総長のヴィルヘルム・カイテルを呼び出した。
もちろん、その情報に動揺したのは政府首脳部だけではない。陸軍参謀本部も後ろ暗い部分があるとは言え、そうした言いがかりに対してはまさに青天の霹靂であったし、ナチス親衛隊も国防軍の反ヒトラー派の動きなど掴んでいなかったから、情報の出所に対して不信感を抱いた。
「いったい”それ”はどういうことだろう」
もちろん国防軍の不穏な動き。
「……というわけで」
カイテルが深々と溜め息をついた。
頬杖をついて考え込んでいるヴィルヘルム・カイテルに、白ウサギのようなマントを身につけた少女は寄りかかって青い空を見上げている。黒いブーツを履いた足でプラプラと地面を蹴り飛ばした彼女は、自分の隣で仏頂面をしているカイテルを横目で流し見る。
「誰かが君のための勉強会を国防軍による国家転覆の謀議であると告発したようだ」
「告発ですか」
のんびりと応じながら白い手袋をはめた指先で金色の長い髪をつまみ上げて小首を傾げる。白いロシアンハットに白い手袋。白いマントを身につけたマリーが大柄な男の隣にいる構図はなんとも微妙だ。
「でも別に国家転覆のための”相談”なんてしてないですよ?」
「そう。それはわたしも知っている。君の勉強会に参加した全ての将校が告発の対象だと言うなら、わたしも同じように裏切り者だし、マンシュタイン元帥やグデーリアン上級大将も同じだ。今は戦争中だから優秀な指揮官が処罰的に更迭されるのは我が軍としても大いに困る」
しかめ面のままでそう告げたカイテルに、マリーは神妙な面持ちのまましばらく黙っていたが、おもむろに口を開いてこう言った。
「難しいこと言われてもよくわかりません」
考え込むカイテルに置いてきぼりにされたマリーは退屈そうにあくびをかみ殺してから、国防軍最高司令部総長に膝を進めると青い瞳をまたたかせてから睫毛を揺らした。
「あぁ、君にはまだ難しいことだったかもしれんな」
「つまりハルダー上級大将のお勉強会にベックさんが来てたことが問題なんですか?」
「以前から参謀本部は反ヒトラー派として目をつけられているからな。どこの誰が何の目的で総統閣下に謀議ありなどと吹き込んだのかは知らんが、たぶん国防軍の存在が邪魔な”連中”の仕業だろう」
「カイテル元帥はそう考えてるんですか?」
「……――」
率直なマリーの返答にカイテルは再び黙り込むと、口元に手を当てたきり眉をひそめると自分の体に寄りかかっている少女の体重に視線をさまよわせる。
「軍のトップが謀略を画策しているという言いがかりに動揺しているのは、国防軍だけじゃない」
「そうですね」
マリーが相づちを打つと、罪悪感も感じさせずに唇に指先で触れてクスクスと笑った。
「情報の把握をできなかった親衛隊の責任と、ハルダー上級大将のところで開かれていたお勉強会のことを知っていたのに、政府首脳部に報告しなかったレーダー元帥とゲーリング元帥の責任」
問題は国防軍の中だけにとどまらない。
責任問題は多岐にわたる。いずれかの人間の陰謀によって国防軍による国家転覆説をでっちあげられたのだとしても、それに関係するだろう多くの不穏分子が処罰されることになるかもしれない。
どちらにしたところで危険な事態であることには変わらないのだ。
「君の首だって危なくなるかもしれない」
首――つまるところ、命そのもの。
「君は怖くないのか?」
「どうしてですか?」
「……わたしは怖い」
ヒトラーの怒りを受けるだろうことが恐ろしくてたまらない。なぜならカイテルは見てきたのだ。今まで、過去に多くの将校が彼の怒りを受けて更迭され、あるいは左遷され、あるいは不名誉な汚名を着せられた。
それが恐ろしくないわけがない。
自分が今まで築き上げてきた一切の名誉が剥奪される。
「大変ですね」
どこか他人事めいた口調の彼女に、カイテルは重い溜め息をつくと所在なさそうに片手を伸ばして少女の肩を抱き寄せた。
場所はプリンツ・アルブレヒト・シュトラッセの中庭。
マリーのベンチに腰掛けた彼は沈黙して状況を打開するための方法を探した。
どうすればいいのかわからない。もし、仮にカイテルがヒトラーに素直に、参謀本部のハルダーのところで行われていたのは世間知らずの親衛隊員のための勉強会だなどと言ったところでヒトラーは信用するわけもないし、勉強会が開催されていることを知ったところで、どうして親衛隊員が反ヒトラー陣営として有名な参謀本部に出入りしているのかと、それはそれで問題になる。
「君も他人事のように言っているが、自分の身にも危険が及ぶかもしれないんだぞ」
「だって、その噂って、別に総統閣下が勝手に真に受けて怒ってるだけじゃないですか。どうしてわたしが、よく知らない人のために気を遣わなければいけないんですか?」
そもそもナチス親衛隊――武装親衛隊に親国防軍派の存在があること自体、周知の事実だ。武装親衛隊の親衛隊装甲軍団司令官であるパウル・ハウサー親衛隊大将も、国防軍将校らと同様にプロイセン軍人の出身だった。
国家元首アドルフ・ヒトラーを、「わたしがよく知らない人」と一蹴したマリーに、驚いたような顔つきになったヴィルヘルム・カイテルだったが、結局辺りを見回してから足元に視線を落として神妙な顔つきになる。
少し離れたところに立っている親衛隊少尉のアルフレート・ナウヨックスは少女の言葉を聞いてない振りをしてあからさまに視線をそらした。
「もしも君が国家保安本部の人間じゃなければ、すぐにでも逮捕されるかもしれない危険な発言をしているという自覚はあるのか?」
「カルテンブルンナー博士が、わたしを?」
「君の発言はそれくらい危険だということだ」
ヒトラーを否定することは危険なことだった。
権力もない一介の親衛隊少佐が国家首脳部を批判することなど本来あってはならない。もっとも、批判とは言ったところで、彼女の台詞はせいぜい稚拙なものでしかない。カルテンブルンナーやミュラー、ネーベに対して心の底から信頼を寄せているようにも見える彼女の物言いにカイテルは続く言葉を飲み込んだ。
「だってわたし、総統閣下とは一回しか会ったことないですし、どんな人なのかほとんど知らないんですよ? どうしてそんな人にわたしが遠慮なんてしないといけないんです?」
「……君はどう見る?」
「今回の”言いがかり”ですか?」
「そうだ」
「うーん……」
真剣なカイテルの眼差しを受けてマリーは大きく首を傾げてから空を見上げて考え込むと、それからややして人差し指で唇をたどりながら呟くように言葉を吐きだした。そのピンクの唇から吐き出される白い息に見とれてしまってから、カイテルははっと我に返った。
マリーの青い瞳が。
金色の睫毛が。
そしてピンク色の唇が。
全てが”彼ら”を魅惑する。
「誰かがカイテル元帥やハルダー上級大将を邪魔だって考えているんだとしたら、参謀本部の動きを逐一観察して陥れるために画策するかもしれませんけど……」
「わたしは、ヒトラー総統に忠誠を誓っている!」
どうして邪魔と思われなければならないのか。
そう言いたげな彼に、マリーはにこりと笑った。
「だって軍の偉い人たちは、総統と直接話しをできるじゃないですか。誰かが自分に都合良く情報を操作しようとしているなら、それが邪魔じゃなくてなんだっていうんですか?」
まるでヒトラーと軍首脳部の関係は、カイテルとマリーの関係でもあるようだ。絶対的な権力を持つ相手に、率直な物言いをする。マリーはカイテルを恐れてもいないし、ゲーリングやレーダーの存在にも気後れしない。
彼女はカイテルに言っているのだ。
――彼らを陥れた人間にとってカイテルが邪魔なのだ、と。
「わたしは……」
茫然自失としたカイテルにマリーは手袋をはめた手を、彼の手に重ねてからわずかにほほえんで睫毛を揺らした。
「でも、わたしはあなたが好きよ?」
マリーの言葉がカイテルの深い霧に包まれていたような意識を鮮明なものにする。
そう。
わかりきっていたことだ。突撃隊を邪魔者としたナチス党首脳部にとって、ナチス党になびかない陸軍参謀本部という反ヒトラー派の巣窟は邪魔以外の何者でもなかった。そして、ことあるごとに彼らの地位の失墜と、発言権の喪失を目論んでいた。
「まだ釈明の機会はあると思うか?」
「……どうかしら?」
事実上の前任者であるブロンベルク国防大臣とフリッチュ陸軍総司令官の失脚を目の当たりにしたカイテルは、自分もいつか邪魔者扱いされるのではないかと恐れてもいた。その危機が、今や目の前に迫ろうとしている。
「言い訳なんてしても信じてくれると思えないけど」
「ではどうすれば……!」
「わたしが知るわけないじゃないですか」
でも。
マリーは続けた。
「……切り札は、”残って”るわ」
「マリー?」
ニコニコと笑ったマリーにヴィルヘルム・カイテルは言葉もなく立ち上がった。
「”君が切り札か”……」
*
「反対だ……」
エルンスト・カルテンブルンナーは、国家保安本部の豪華な執務室でいきりたつようにうなり声を上げてから立ち上がった。
「万が一の場合、マリーを危険にさらすかもしれんのだろう……!」
年長者であるカイテルに気後れもせずに激昂したカルテンブルンナーは、両手で執務机を叩くようにしながら打ち付けて腰を浮かせると国防軍最高司令部総長を威嚇する。
本来であれば、国家保安本部長官などが相対するには余りにも絶対的な存在だ。
だけれども、カルテンブルンナーは一歩もひかない。
「仮に誰も彼女の加勢に加わらなかったとしたらどうするつもりだ! またブロンベルク元帥の時のように自分に都合が悪くなったら見捨てるつもりではないだろうな」
マリーを見捨てるつもりではないか。
カルテンブルンナーの危惧にカイテルは明確な言葉を見つけられないままで黙り込む。そして沈黙に沈みながら、カイテルは思った。
自分は黙ってばかりだ。
自分に答えられないことを、誰かの責任にして。
自分に見つけられない真実を、自分には見えないのだと諦めて。
いつも目を背けてばかりだった。
奥歯を噛みしめたヴィルヘルム・カイテルが顔を上げて、カルテンブルンナーを見つめ返す。
「……――わたしが、必ず守る」
だからどうかマリーを助けると思って力を貸してもらいたい。
カイテルの訴えに、カルテンブルンナーは厳つく眉をつり上げると唇をへの字に曲げる。
「それに、このままではマリーに危険が及ぶのも時間の問題だ。カルテンブルンナー大将もわからぬわけではあるまい。彼女がハルダー上級大将とベック上級大将と同じ席にいたということはいずれ発覚する。ならば先手を打つべきだとわたしは考える」
いずれ彼女が政府首脳部に矛先を向けられる。
先手を打つべきだと言うカイテルにカルテンブルンナーは腕を組んだ。なにかしらの弱みを握ろうとしてくるだろう。非力なマリーはその標的とされるのは間違いない。
「つまり国家保安本部に国防軍の企てに協力しろと言うのか」
「我々に国家転覆の意図はないと言っているのだ」
「……なるほど」
カルテンブルンナーはしばらくじっと考え込んでから小さく頷いてカイテルに視線をくれると自分の椅子に腰をおろした。
「今は戦争中だ。ハルダー上級大将が失脚するようなことになってはドイツを敗北に導くようなものだ」
そのためには国防軍の被害はごく小さなものにとどめなければならない。カイテルの説明を無言のまま聞き入っていたカルテンブルンナーは、ややしてから鋭い眼差しを上げた。
「マリーに傷のひとつでもつけてみろ。関係者共々抹殺してやる」
うなるようにカルテンブルンナーが独白した。
誰に向かって告げた言葉なのか、それすらも曖昧なままカルテンブルンナーはカイテルの提案を渋々承諾した。
「敵」が国家保安本部に攻撃を加えてくるのであれば、それすらも叩きつぶすまで。
「国家保安本部を敵に回したことを、後悔させてやる」
こうしてマリーは国家転覆の謀議に関わった一件で取り調べを受けることになった。
ちなみにこれらの動向を受けてゲーリングは卒倒しかけてこう言ったらしい。
「マリーを訊問にかけるなど狂気の沙汰だ……!」
あれは人間の姿をした違う生き物。
化け物――もしくは精霊。
冷徹な炎にも似ている。
ゲーリングは傍目には冷静な表情のまま、電話の受話器を上げた。




