11 死に方
ドイツの諜報部門は大きくふたつに分けられる。それは国防軍によるそれと、ナチス親衛隊のそれだ。各々の機関がそれぞれに諜報部門を持ち、情報収拾にあたっていることはそれほど珍しいことではないし、ヨーロッパのみならず全世界で繰り広げられる戦争に関係する国の多くもドイツ同様に軍部と行政側で情報収拾部門を所有する。
アドルフ・ヒトラーの率いるナチス党政権の恐怖政治を縁の下から支えるのは、ハインリヒ・ヒムラーの指揮するドイツ警察とナチス親衛隊だ。もっとも、ドイツ国外から見ていると、実際のところヒムラーの指揮するドイツ警察がなにをしているのかは一見しただけでは把握しにくい。
気難しい顔で窓の外のテムズ川の流れを見つめているスチュワート・メンジーズは唇をへの字に曲げたまま右手につまんだ短くなったタバコを灰皿に押しつける。薄くなりつつある金髪をなでつけてから、メンジーズはそっと片目を細めるとデスクの上に山と積まれたファイルを肩越しに流し見る。
どうにもわけがわからない事態が起こりつつある。
部下からの報告では、ナチス親衛隊に潜り込ませていた諜報部員の一人がストックホルム行きの途中で連絡が取れなくなったらしい。なんでも連絡が取れなくなってからすでに半月以上が経過していることから、諜報部員であることが発覚して逮捕されたか、殺害されたかという想定が妥当であると言うことだった。
そして問題はもうひとつ。
イギリスが全ヨーロッパ、及びアメリカに対して握るドイツの暗号解析情報「ウルトラ」の解析情報が全く思わしくない。ドイツ軍がソビエト連邦に対する夏季攻勢を開始した頃からだろうか。
「おそらく、ドイツ側は我々が暗号を解読していることを想定しております」
エニグマの存在はドイツ海軍の潜水艦や、あちこちから現物を入手できているが、なにせその暗号機から打ち出される暗号が複雑すぎる。夏を境にさらに暗号は複雑さを増して、イギリスの諜報部を悩ませていた。
ラインハルト・ハイドリヒの後任として先頃、国家保安本部の長官の席におさまったというエルンスト・カルテンブルンナーという男がそれほど有能なのだろうか。根拠は特にナチス親衛隊の諜報部員たちの暗号が複雑さを増していることからそう考えられた。
「だが、ドイツ海軍では我がイギリス海軍を打ち負かすことはできん」
所詮、陸軍国のドイツは島国のイギリス海軍に勝つことなどできはしないし、一昨年前のドイツのイギリス攻撃のときもそうだった。
ただし、それでも問題は残る。
「我がイギリス海軍が、ドイツ海軍などに劣るとはつゆほども考えておりませんが、ゴドフリー提督」
そこで一旦、メンジーズは言葉を切って思索する。
イギリスは島国だ。
島国だからこそ、ドイツ海軍――カール・デーニッツ率いるドイツ潜水艦隊の脅威がどれほどの被害をもたらすことになるのか。それがわからないわけではない。戦時下でイギリス国内の食糧事情を含めた経済事情は日に日に悪化している。
「ソ連との戦争に目処がついたということを考慮すれば、連中は再び我々に眼を向けてくるでしょう。ただでさえ、アフリカ戦線では天然痘発生に関する混乱が収束していない。とはいえ、天然痘罹患の危険があるというのに突っ込んでくるほどドイツ軍も間抜けではないだろうでしょうから、そうなるとドイツの関心はイギリス本土に向けられるのではないかと懸念しています」
ただでさえ、ドイツ海軍のデーニッツの指揮する群狼作戦によって、イギリス国内はじわじわと真綿で首を絞められるような状況に陥りつつある。こうした状況下で、植民地のインドからの流通すら途絶えてしまうような事態になれば、午後の紅茶を楽しむどころではなくなってしまう。
「大変忌々しいことですが、今のイギリスの国力ではアメリカの支援なくしてドイツと戦い抜くことは困難に等しい」
「わかっている、メンジーズ少将」
海軍情報局の長官を務めるゴドフリーはメンジーズの言葉に苦々しく眉をひそめた。どうすればイギリスという国を救うことができるのか、そればかりを考えている。ドイツとの戦争ばかりではなく、インドの国内不安もある。さらに、アメリカの国内情勢の混乱と、ソビエト連邦のフルシチョフ率いる新政権にまつわる問題。
フランスやチェコスロバキア、オランダなどの亡命政府が次々とイギリスに拠点を構えているとは言え、それでも尚、イギリスは島国である故に大西洋の真ん中で孤立していると言ってもいいだろう。
「とにかく、全力で”ボッシュ”共の弱点を探れ」
「はい、承知しております」
ゴドフリーもメンジーズも同じだ。イギリスという同じ船に乗っている。
「ところで、提督」
メンジーズが話題を切り替えた。
「アメリカ国内に不穏な動きがあるのはご存じですか?」
「……あれだろう、大統領のヘンリー・ウォレスの暗殺事件」
二人の大統領が相次いで暗殺されるなど本来ならあり得ないことだ。
ローズヴェルトに続いて、その後任であるウォレスが殺された。そして、そのさらに後任として指名されたのは下院議長を務めたサム・レイバーンだが、これに対してアメリカ国内に一切の戒厳令を敷いて徹底的な情報統制を行っている。
国家元首が暗殺されたというのに、アメリカの諜報機関が異様な静寂に包まれていることは不信感を抱いて余りある。
「フーヴァーもなにか隠しているな」
アメリカ国内で起きたことを、アメリカ国内諜報部の責任者であるジョン・エドガー・フーヴァーがなにも知らないわけはない。
「そちらも探りをいれろ」
ゴドフリーの命令にメンジーズは無言で頷いた。
*
「お肉ばっかり……」
ベックとハルダーとの勉強会の後に食事の席に着いたマリーは、目の前に並ぶ肉料理の数々に唇を尖らせて不満を漏らした。
「いつもあまり食べないからそんなに貧弱なのだ」
マリーはベックに告げられてぶぅと頬を膨らませてから横を向いて怒った様子で自分の胃の辺りを押さえる。
「だって、こんなにお肉ばっかりじゃ胃にもたれちゃうもの」
かろうじてスープをスプーンですくいながら、上目遣いで自分の食事の様子を見守っている男ふたりを見上げて結局それ以上はなにも言えずに眼をそらしてしまった。
「パンもあるぞ、マリー」
「ベックさんもハルダー上級大将もこんなに食べれるんですか?」
ソーセージを小さくナイフで切り分けてからフォークで刺すと口に運ぶ。
国家保安本部で昼食をとっているときも、周りからは食べろ食べろと強要されるものの、胃が小さいせいか食べ過ぎると腹痛を起こす。
申し訳程度に食事をとる彼女の皿にパンをおいてやってから、陸軍参謀総長のフランツ・ハルダーは控えめな少女の食べ方に眉尻を引き上げた。
戦時下で物資はなにからなにまで少ない。
そう考えれば食べられるうちに食べておくべきだ。
ハルダーもベックもそう考えるが、どうにも偏食で小食な彼女は男たちが考えるよりもずっと食が細い。やがてふたりの陸軍の重鎮の会話を流し聞きながら、マリーは満腹になったのかテーブルに手をついたままで船を漕ぎ出した。
「大丈夫かね?」
問いかけられてなんとか首を縦に振った。けれども、それからものの数分もしないうちに椅子の背もたれに寄りかかった彼女は本格的に眠り込む。
「マリー」
ルートヴィヒ・ベックに名前を呼ばれた。
「……はい」
「マリー、こんなところで眠るんじゃない」
「はい、ベックさん」
だけれども睡魔には抗いがたくてマリーは、差し伸べられたベックの腕に縋り付いたままでその胸に顔を押しつけて本格的に睫毛をおろした。静かに寝息を立てる少女の寝顔にベックは困った様子で苦笑してから小首を傾げる。
まるで必死になってベックに捕まっているような彼女の華奢な手が愛おしく感じる。だからつかまる手をそのままにして、ベックはハルダーに無言でほほえむと少女の膝裏に腕を差し入れて抱き上げる。
思った以上に軽い体は簡単に抱え上げることができて、逆にその頼りなさにベックは彼女の身を気遣った。こんなにも軽い体でマリーは国家保安本部で若い男たちと同じように情報将校として働いている。
「ベックさん……」
ムニャムニャと寝言のような声で呼ばれてベックは彼女の体に振動を与えないように細心の注意を払いながら歩きだした。
「元陸軍参謀総長のベック上級大将が眠り込んだ若い女性をベッドに連れ込んだと噂されないように気をつけたまえ」
ハルダーに皮肉げにそう言われてベックは肩をすくめてみせた。
「ふむ、ブロンベルク元帥の二の舞になるのはご免だが、わたしはすでに退役した身の上だし、ヒトラーも付け入るにはそれなりの大義名分が必要だろうから、それほど心配はいらん」
「……ヒトラーは油断ならない男だ、奴がその気になれば”一般庶民”など一族郎党滅ぼすだろう」
「――……」
ハルダーの忠告めいた言葉にベックは苦々しく片目を細めてから歯ぎしりをした。
わかっている。
彼――ナチス党の党首、アドルフ・ヒトラーが政権を握ってから、彼の誇るべく世界に冠たるドイツ、そしてドイツの守護者でもある国防軍は内部からぼろぼろになるまで食い荒らされてしまった。
ヒトラーが世界に冠たるドイツを食い荒らした。
あの男の責任は重い。
「ヒトラーはなんでもかんでも自分の気に入らないものはまくし立てれば思い通りになるとでも思っている」
それが老将のベックには実に不愉快だ。
不愉快でならない。
たとえマリーに好意を抱いていたとしても、ナチス親衛隊はともかく、ヒトラーは容認してはならないのだ。かつて、国防軍において何度となく、反ヒトラー戦線が立案された。しかしその計画はことごとく時代の流れに阻まれた。
時代がヒトラーという暴力装置を必要としていたのか。
それはベックにはわからない。
時として、人とは激流の中にいる時に限って自分の目の前になにが存在しているのか正確に把握することができなくなるものだ。
それは市井の人々だけではなく、ヴェルナー・フォン・ブロンベルクと同じように、そしてフリッチュらと同じように。ベックも人々と同じく時代の激流に流されざるを得なかった。
「わたしは、もう少しあの男と戦うべきだったのかもしれん」
ヒトラーとの不仲が原因で、ルートヴィヒ・ベックは陸軍参謀総長の職を自ら辞した。そして、それから彼は軍に戻ることをせずにいる。
戦う力を持ちながら、ヒトラーと敵対することが馬鹿馬鹿しく感じて自ら舞台を下りてしまったことを悔やむ。
腕の中の体温の低い体を抱きしめながら、ベックは小さな溜め息をついた。
「わたしには未来が見えていなかった」
「……ベック上級大将」
「わたしはもう一度戦う機会を与えられたのやもしれん」
しばらく考えに沈んだ彼はそうしてぽつりと呟いた。
まるで独白のように。
「ドイツの未来のために、わたしは戦うべきだったのだ」
「ベック上級大将、あなたの力を我々はまだ必要としている」
「心得た」
ドイツの未来のための戦いはまだ終わってはいない。
ソビエト連邦との戦いは一息ついたとは言え、イギリスやフランス、そしてアメリカ諸国との戦いが続いている。
「ヒトラーと戦うには、若い連中だけでは力不足だろうからな」
ともすれば、邪魔者として若く優秀な将校が犠牲に晒されるかもしれない。それを考えると心が痛んだ。
「まだまだ若い連中には負けはせん」
マンシュタインやグデーリアン、ロンメルやシュトラハヴィッツ、ディートル。そうした多くの優秀な将校たちが命を賭けて戦っているというのに。
「年寄りには年寄りの”死に方”があるというものだ」
――若い連中は死んではならん。
栄えあるドイツ国防軍の将校として。
そして頑固でまっすぐな自分よりも年少の彼らを思い出して、ベックは苦笑した。
「年寄りは年寄りなりに死ぬが、若いもんが生きてなくては……」
身寄りのないマリーを守ってやれないだろうから。
後ろの半分の台詞をベックは口にはしない。その言葉は彼女に向けられたものでありながらそうではなく。ドイツの未来の子供たちの全てに向けられたもの。
そしてドイツの全ての子供たちの未来に向けられたものでありながら、マリーひとりに向けられた優しい言葉。
それが限りなく独りよがりな思いに感じられて、ベックは口を噤んだ。
だからこそ、彼女のためにもドイツの誇りを守らなければならない。
世界が崩壊の危機に瀕したのは、ヒトラーの責任でもなく、英仏連合の責任でもなく。そしてユダヤ人たちの責任でもない。
未来を思考することを放棄した「大人」たちの責任なのだ。
――”君”のために。




