10 揺らぐ世界
ドイツ国内の指導部にまつわる一部の混乱はともかくとして、一方でスイス連邦ベルンで活動するアメリカ合衆国戦略情報局欧州支部の責任者、アレン・ダレスはパイプをくわえたままで「ジャネット」から提供された写真を眺めて片目を細めた。
若い男と共に写りこむマントを身につけた華奢な少女。その傍らには、彼女とは数倍ほどの体格差があるだろう親衛隊員の姿がある。
それなりに美少女だが、栄養失調を感じさせるほど線が細い。
いわゆるゲルマン系なのだろうが、それにしては華奢すぎのような気もした。
「ふぅむ……」
数枚の写真を眺めてダレスは思考を巡らせた。
いったい彼女の正体は何者だろう。そう考えると同時に、わき上がるのはもうひとつの疑念。
なぜ、何のために「彼ら」はストックホルムを訪ねたのかということだ。
彼らの目的がわからない。
現状、スウェーデンは先の欧州大戦の時と同様に立場的には中立を宣言している。もっとも、スウェーデンの兄弟国とも言えるフィンランド共和国はドイツの同盟国であり、それゆえにフィンランドに対して義勇兵を送るなどの「支援」は提供しているため、絶対的な中立といえるわけでもないのだが。
どちらにしろ、弱小国はヨーロッパ大陸の微妙なパワーバランスの間で、自分たちの立ち位置をいかに有利な方向へと導くために日夜活動していることは、スイスにもスウェーデンにも大した違いはない。
そして、そうした小国のいくつかは忌々しいドイツと結託して東の大国――ソビエト連邦と剣を交えた。
「失礼します」
声が聞こえてアレン・ダレスは顔を上げた。ゆっくりとした動作で執務机の上に広げられていた写真を集めると、端を揃えて引き出しにしまい込んだ。
「あぁ、なにか動きがあったらしいな」
「はい。報告いたします」
部下がドイツ国内に動きがあった情報を掴んで報告に来る予定になっていた。
さっと数枚の書類をダレスに差しだした。
「ドイツの保護領――ボヘミア・モラヴィアに関する指導者の情報が入りました」
ボヘミア・モラヴィア、と言われてダレスはそれほど遠くはない記憶を探ってすぐに目的の情報へとたどり着いた。
ドイツ語ではベーメン・メーレン保護領。
かつて、世界各国から恐怖の代名詞とも呼ばれ、恐れられた冷徹な処刑人。その政治手腕は天性のもので、その地位はそれほど高くないにもかかわらず、イギリスやフランスの指導部から危険視されていた四十代手前だった男だ。
名前はラインハルト・トリスタン・オイゲン・ハイドリヒ。
「それがどうした、今は確か別の人間がその地位に就いているとは聞いたが」
「はっ、それに関してですが、後任のクルト・ダリューゲ親衛隊上級大将が交通事故で死亡したとのことです。加えて、親衛隊及び警察高級指導者のカール・ヘルマン・フランク親衛隊中将がなにかしらの失態を犯して更迭された線が濃厚になったとのことです」
「……情報元は?」
「チェコスロバキアのパルチザンからの電信です」
「そうか」
情報が真実であれば、すでにその情報源となったパルチザンはドイツ側の掃討作戦の標的とされている可能性が高い。
「しかし、いきなりふたりの高官の席が空いたとなるとドイツ国内の権力争いが激化しそうだな」
「ですがドイツ国内に潜入させた連合側の諜報部隊は壊滅的な打撃を受けております。この状況を覆すためには相応の時間が必要かと思われます。現状、ドイツ外務省に潜り込ませたスパイからも連絡が途絶えており……」
「わかった」
部下の言葉を遮るようにダレスは応じて軽く挙手をした。
目の前の状況は悪化するばかりで、改善の糸口は見えてこない。ただ諜報部員として鍛え抜かれた嗅覚を持つダレスにわかるのは、ドイツ国内の諜報機関が変質しつつあることだ。彼の計算をなにかが狂わせる。
「……わかった、報告書には目を通しておく」
「長官閣下……」
「大丈夫だ、我々は負けるわけにはいかんのだ」
負けてはならない。
偉大なる祖国――アメリカ合衆国は負けてはならない。
「たとえ、同盟国を犠牲にしてでも、負けることなどあってはならぬ」
それが覚悟だ。
執務室から出て行った部下の背中を見送ってから、ダレスはもう一度机のひきだしを引いてそこにしまい込まれた写真を見つめた。
朗らかに笑っているひどく線の細い少女を記憶に焼き付ける。
必ずどこかに抜け道があるはずだ。
必ずどこかに状況の打開策があるはずだ。
アレン・ダレスはそれに一縷の望みを掛ける。
「君は何者だ……」
いよいよ冬の本番を迎えるヨーロッパ大陸で、ダレスは思考の淵に沈み込んだ。しかしまだ打つ手がなくなったわけではない。問題は「ナチス親衛隊」だけではなく、あくまでも「それ」はそうした問題のうちのひとつでしかない。
そうであるならば、大目標を優先し小目標は切り捨てて然るべきだ。
椅子から立ち上がったダレスは、窓の外に広がる冬のベルン市街に片目を細めると、じっと考え込んでから踵を返す。
それはそう。
アレン・ダレスにはまだやらなければならないことが残されている。こんなところで小さな石につまずいているわけにも、そして立ち止まっているわけにはいかない。祖国アメリカのために、自分はどんなに汚い手段を使っても前を見つめ続けなければならないのだ。
それが彼に課された使命なのだ。
ローズヴェルトが死に、ウォレスが死んだ。
「厄介払いをしたか……」
ぼそりとダレスは口の中でつぶやいてから、小さく舌打ちを鳴らした。今は、ドイツを中心とした枢軸同盟国との戦争中である故に、国内で政争にうつつを抜かしているような世情ではない。
しかし、有色人種にも白人のアメリカ人と同じ権利が与えられて然るべきと謳うウォレスが邪魔者であると考える政治家も多くいた。
少なくともアメリカ連邦捜査局の長官を務めるジョン・エドガー・フーヴァーにとって、ウォレスは目の上のたんこぶに他ならない。おそらく、ウォレスを戦時下の混乱において暗殺の指示を出したのはフーヴァーだろう、とダレスは憶測した。
ローズヴェルトが推進した日本系アメリカ人強制収容所の開放政策についても、フーヴァーは良い顔をしていなかった。ローズヴェルトの暗殺は有色人種人権問題活動団体のいずれかによるものだとして、ウォレスの暗殺は違う。
ローズヴェルトとウォレスの主義主張が全く異なることを考えれば、当然の推論だった。
「国内の鉄槌はいずれ”下される”だろうとして……」
いずれにしろ枢軸同盟国との大々的な戦争中に政治の空白が生じることは好ましくない。このため、ローズヴェルト、ウォレスの死に直面し、史上初のアメリカ合衆国下院議長が繰り上がりで大統領を務めることになった。
彼の名前はサム・レイバーン。テネシー州出身の政治家で、アメリカ合衆国下院に絶大な影響力を持つ影の支配者だ。次の大統領選挙まで残すところ三年。その長い期間を仮の大統領で戦い続けなければならないことを考えればぞっとする。
とにかく自分にできることをやるだけのことだ。
しばらく物思いに沈んでいたダレスだったが、ふと腕時計を見やってから壁際にあるコート掛けにかけられた上質のコートを腕に掛けた。
踵を鳴らして扉を開けた。
それから車を運転して、ダレスはホテルの一室を訪れた。
「……わたしは暇ではないのだが、君の上官はなにを考えているのだ」
苛立つままに言葉をぶつける男の声に、アレン・ダレスはコートを身につけたままで神経質に時計を眺めた。
全ては演技だ。
相手も、味方も、敵も。
全てを騙しきらなければ諜報は成り立たない。
「お待ちいただいて申し訳ありません、博士」
「……わたしにとって、君たち白人の評価など取るに足りないものだが、”君たち”がいったいなにを考えているのか説明していただきたいものだ」
「ふむ」
堅物の法律家の言葉に、ダレスは内心で満足げにうなずいた。
アメリカ人――しかも白人の自分をそう簡単に信用するような男では話にならない。なによりも面白いとか面白くない以前の問題で、そう簡単に他者を信用する人間ではたかが知れているというものだ。
「わたしはインドに帰らなければならないのだ、君たちが思う以上にインドとイギリスの間は緊張状態にある。今は、我が父の存在だけでは、インド政府を押さえ続けるのも限界がある」
「えぇ、インドの状況はわたしもよく理解しております。そのために、わたしは同盟国の諜報部の人間として、あなたがたに協力させていただきたいと考えている次第です」
「協力だと?」
イギリスの同盟国――アメリカ合衆国の諜報員として。
そう言ったダレスの言葉に、インド法曹界のエリートと呼ばれるラダビノド・パルを含めた彼ら――インド人たちが西洋人に強い疑念を抱いていることは知っている。そして、ダレスは自分の国がイギリス政府を介してインドになにをしたのかも知っている。
互いに腹の底を探り合っているが、アレン・ダレスはアメリカ合衆国対外諜報局長としてたかが判事如きに手玉に取られるつもりなど毛頭なかった。
常に騙す側であるのは自分たちであるべきだ。
支配者は、植民地の人間たちなどよりも優れているべきなのだ。
「……――”わたし”が、アメリカ人を信用するとでも思っているのか?」
「イギリスとアメリカは確かに同盟国だ。しかし、わたしは今の世界の状況が正しい姿であるとは思っていません」
「つまり、それは白人こそ支配者たるべきだと言いたいのですかな?」
「しかしあなた方の国にも支配階級は存在している」
ずばりと切り込むようにアレン・ダレスがインドに古来から存在しているカーストについて言及した。
「なにをおっしゃっているのか」
だがパルもそんなことで言い負かされることを是としない。真っ向からダレスに対峙してインドの法律家はそれでも尚一歩もひかない。
「それはあくまでもインドの国内問題で、為政者と統治される民が存在するのはどこの国にも変わりはない。問題は支配階級が存在していることではなく、他国の伝統と文化を無視して貶め、下等だと決めつけた上で侵略すること――そして、植民地支配することが問題ではあるまいか」
暗にヨーロッパ諸国の覇権主義と植民主義を批判するラダビノド・パルに対して、ダレスはくっと唇の端をつり上げた。
「判事はそうおっしゃるが、インド国内は民族争いで揺れている。異民族同士の争いが内戦に発展することを阻み、その”巨悪”の存在によりインド国内を団結させているのはいったい誰のおかげか」
なによりも。
そうダレスが続けた。
「イギリスが存在することによって、時代に乗り遅れつつあった判事の祖国の近代化が早まったのではないか」
表情ひとつ変えずに告げたダレスに、パルも一歩もひきはしない。それは国の名誉を賭けた対峙でもある。
古代文明の萌芽のその一角を担ったインド文明が、文化も伝統も全てがヨーロッパから伝えられ、新たに構築された新興国風情に及んでなるものか。それがインダス文明の末裔たるインド人としてのプライドだ。
「我が祖国はヨーロッパ大陸とは異なる秩序が存在すると言っているのだ。あなた方の提唱する”秩序”とは、他国の文化を卑下しているものに他ならぬ」
「しかし強さなき正義とは、ただ蹂躙されるだけではありませんか?」
平行線にも似た議論を交えながら、ダレスは相手の腹を探る。
「要するに、あなた方はヨーロッパ世界の利益のためならば、他文化は蹂躙しても構わないと考えているととってもよろしいか?」
「……さて」
パルの穏やかならざる言葉に、ダレスが含み笑う。
「判事が先の”テロリスト”掃討作戦を不愉快に思っているのは知っておりますが、だったらどうだと言うのです? 誰しも祖国の名誉のために今現在のこの戦いに身を投じているのです。それはあなたがたがそうであるように、我々も同じです」
ダレスはアメリカ合衆国のために。
そしてパルはインドという祖国のために戦っている。
「我々の情報網に、インド政府が反イギリス……――枢軸同盟に荷担しているという情報はすでにかかっています。仮に、反イギリス戦線の判事の同胞が”騒動”を起こしたとして、そのときに我々アメリカは違法な混乱を招いた”人々”に手を差し伸べることはできないと言いたいだけです」
「……世迷い言だ」
ぐっとパルは言葉を飲み込んだ。
その動揺を、ダレスは見逃さなかった。
インド国内における不安要素がひとつやふたつではないことを、ダレスは知っているし、反イギリス戦線を敷く多くの勢力が暗躍していることをパルも知っていた。それはインドの将来にとって諸刃の剣だ。
将来的にイギリス政府と真正面から対峙することになったとして、それらの勢力が吉と出るか凶と出るか。今のパルには判断できない。
「世界を業火に包む力は、”我々”が握っているのです。判事はそれを心しておくべきだ」
インドのためにも。
冷ややかにダレスは宣告した。
「パル判事が帰国される前にひとつだけ忠告させてもらいますが、ドイツを信用しすぎると大やけどをすることになりますよ」
皮肉げにダレスが言った。
「……こちらも言わせていただこう」
感情を抑えるようにしながら、ラダビノド・パルは静かに啖呵を切る。
「”真理”とはひとつではない」
「楽しみにさせていただきます」
ダレスが静かにほほえんだ。




