8 秩序警察
「余計な詮索は無用」
クルト・ダリューゲ親衛隊上級大将に関係する交通事故に対して、ベーメン・メーレン保護領の親衛隊及び警察高級指導者であるカール・フランクに親衛隊全国指導者個人幕僚本部からの通達が届いたのは、ダリューゲの専用車が事故を起こした翌日の朝だった。
「しかし、ヴォルフ大将……」
電話口で言いつのるカール・フランクに、親衛隊全国指導者個人幕僚本部長官のカール・ヴォルフは電話の向こうで小さく舌打ちをしたようだ。
「……承知しました」
そんな相手の不機嫌な空気を敏感に感じ取ったフランクは、これ以上の追及をすれば自分の評価そのものに悪影響を与えることを懸念した。
渋々自分よりも階級が上になる相手の要求を飲み込んだカール・フランクは、受話器をおろしてからどっかりと椅子に座り込むと長い溜め息をもらした。
ヴォルフは余計な詮索は無用だと言うが、いったいなにが余計な詮索だと言うのだろう。不満そうに眉をひそめた彼は、もう一度大きく息を吸い込んだ。
ナチス親衛隊――武装親衛隊も含めて――にたった三人しかいない上級大将のひとりが死亡するような事故だ。その事故の真相を究明しようと、現場にいて唯一生存したという国家保安本部に所属する情報将校に対して訊問を執り行おうとヒムラーとカルテンブルンナーからの許可を取り付けようとしたのだが、それは提案するテレタイプの通信からたった数時間の内に電話によって否定された。
「事件は大変重大なものである。よって、この事件は国家保安本部――刑事警察の管轄とするものである。また、ダリューゲ上級大将が就いていた該当職の後任は後日選出するものとする」
それがヴォルフから通達されたヒムラーの命令だった。
――わたしは……!
思わずカール・フランクは声を上げかけた。
今は亡きハイドリヒの暗殺グループを追い詰めることに成功したのも自分だし、ダリューゲはもちろんハイドリヒの補佐をしてきた。だというのに、正当に評価されることがない。いつでもそうだ。自分を押しのけて強力な権力を握るのは、別の他人だ。
それがフランクには歯がゆくてならない。
どうして自分はこれほどまで不当な評価を受け続けるのか。
ぎりぎりと奥歯を噛みしめてから、フランクは眉間を寄せたままで壁にかけられた時計を睨み付ける。
こうなれば、独断で行動してダリューゲの死亡事故の現場にいたという情報将校の生き残りを少々強引な手段で訊問をすべきだろうか。
要は結果を出せばいいのだ。
今まではそのやり方で強引に乗り越えることができた。
それがたとえヒムラーの私設警察部隊の隊長格の親衛隊将校であろうとも、結果が伴えば気の弱いヒムラーのことだから、フランクが強気に出ればそれほど反論は出ないだろう。
そこまで考えてから、今度は執務机の片隅に載っている内線電話の受話器を上げた。
「ベルリンから来ている国家保安本部の特別保安諜報部の部長をしょっ引いてこい。指令書はすぐに出す」
部下に命じて指令書の制作に取りかかった。手早く命令を記してそれを秘書の女に渡してタイプライターで打ち込ませる。手慣れたものだ。
*
秩序警察――制服警官上がりでろくに捜査もできぬ。
そう蔑視されることがなによりも不愉快でならなかった。
親衛隊の男は状況をろくに把握していなさそうな武装親衛隊らしき下士官に狙いを定めると、フランクの命令を受けて貴官らの隊長に話しを伺いに来た、と告げた。もちろん、うまく言いくるめて確認は不用だと言って護衛の目をすり抜けて、するりと音も立てずにホテルの客室へと入り込む。
大きなトランクとハンドバッグ。
椅子に掛けられた女性用の衣類に目がいった。
どうせ部隊長が女をホテルに連れ込んでいるのかとも思った。
腰から銃を抜き、彼は革靴をならすこともせずにベッドに歩み寄る。そうして、枕に埋もれた金髪の頭を確認してから、撃鉄を起こした。
上掛けを左手で引きはがすと同時に視界に入った細い首を握りつぶす勢いで掴んむと、そのまま銃口を金色の頭に押しつける。流れるような動きで少女の身動きを封じてから、秩序警察に所属する男はハッとした。
ベッドの中には彼が想像したような男はいない。
小さな華奢な少女が、呼吸の音をたててから重い衝撃に両目を見開いている。
俺と一緒に来い、そう言いかけてからまじまじと自分の体の下で身をすくめている少女を改めて確認した。
抜けるほど白い肌はどこか病弱にも見える。長い金色の髪と青い瞳。折れてしまいそうな細い四肢は、ナチス党が推奨する健康的な少女らからはほど遠い。肌触りの良い厚手のパジャマを着た少女は驚きに言葉もないのか、ただただ自分を押さえ込んで銃口を押しつけている相手を見上げている。
「……え?」
驚いたのは男も同じだ。
間抜けな声を上げて少女を見下ろすと、確かめるように握った喉から頬、そうしてやはりどこか頼りなくやせ気味の胴体に辿るように触れた。
「マリーの部屋に男をいれただと?」
怒号のような男の声が響いて、少女はやっと我に返ると突きつけられる銃口に両手を振り上げるようにして制服姿の男を押しのけた。そこに計算は存在しない。「やだ」とも「いや」ともつかない叫び声を上げて、ベッドから逃げだそうとしてもがく。
蹴り飛ばす勢いで開かれた扉に、金髪の少女は細い腕を伸ばして助けを求めた。
ヨーゼフ・マイジンガーに。
「秩序警察か……!」
一瞬でマイジンガーも男の正体を見て取った。
大股で駆け寄ると、少女を組み敷く男を殴り飛ばしてからさっとふたりの間に自分の体を割り込ませると、その背中に少女をかばう。
「ヒムラー長官からオルポは手出し無用という命令を受けているはずだ!」
激怒するマイジンガーの背中にぎゅっと縋り付いたマリーを片手でかばうようにしてから、ゲシュタポの刑事は目の前の制服姿の若い――少なくともマイジンガーよりは――秩序警察の青年警官をにらみつける。
「妙なことをされなかったか?」
「……――」
マイジンガーに問いかけられても、少女は震えてただすがりつくだけだ。冬用の厚手のパジャマとは言え、昼間に身につける衣服とは違ってやはり脱がせやすい。
乱暴をされていないかと気遣いをするマイジンガーに、マリーは答えもなくただ震えている。肩越しに少女のパジャマを確認すれば、脱がされたような気配はないが、もしかしたらその柔肌に直接触られたかも知れないと思うと言い知れない怒りがわき上がる。
「殺してやる……」
低く脅すように言いながら、マイジンガーが腰の拳銃を抜いた時だった。
「そこまでにしたまえ、マイジンガー大佐」
響いたのはヴェルナー・ベストの声だ。
「……ベスト中将」
「我々もオルポの動向が気になっていたところだ。先方から直々に出向いてくれたというのは、こちらとしてもありがたい。マリーに不埒なことを働いたかどうかは後でじっくり聞くとして、とりあえず、秩序警察とフランクに関する動きを教えてもらうとしようか」
「マリーが乱暴されたかどうかのほうが問題ではないか」
「見たところ暴力を受けた様子はないし、マリーが元々銃を向けられることに対して恐怖心を抱いていることは今に始まったことではない。ならば最善の手を打つべきではないか?」
私情に走ることこそ愚かな行為だ。
侮蔑するような勢いでベストに告げられて、マイジンガーは言いかけた言葉を飲み込んだ。
常日頃から他の誰よりもマリーの傍にいる法律家だ。そんな彼がマリーが乱暴をされたかされないかということが些事であると思っているなどとは考えがたい。しかし、彼はあえて私情を切り捨てて秩序警察の青年警官に対する訊問こそが優先事項だと言い放った。
「マリー、もう大丈夫。わたしとマイジンガーがいる」
そう優しく穏やかに言い聞かせるようにしながら、自分の上着を脱ぐとマリーの肩にかけてやった。
「ベスト博士……!」
時刻は十一月二十九日の午前九時。
すでにドイツ本国へ、帰国のためのユンカースJu52の手配をした後だった。
時間の猶予はない。
「マイジンガー大佐、殺すのは後にしろ。話しを聞いてからだ」
ベストの声が珍しく厳しく、そして冷徹に響いた。
堅物の良識派。そう言われる彼も、国家保安本部の屋台骨を支えた知識人であり、ゲシュタポのやり方はよく心得ている。
そうした組織を切り盛りしたのは他でもなくベスト自身なのだから。
そしてだからこそ、ベストはマイジンガーの凶暴性を熟知していた。
ワルシャワの殺人鬼――ヨーゼフ・マイジンガー。
「入れ替わりでパウル・ヴェルナー大佐が刑事警察を率いてネーベ中将の代行としてベーメン・メーレン保護領に入る。それまでに、手段は問わん、多少の情報収拾を許可する」
「……了解した」
ヴェルナー・ベストの言葉にマイジンガーは唇の端でにたりと笑った。
ただし、とベストが付け加える。
「後々刑事警察の訊問も考えられる。手段は問わんがほどほどに加減したまえ」
遠回しなマリーの首席補佐官の言葉に、マイジンガーはわずかに眉尻を引き上げてから憮然とした。
それでも否やとは言わない。
なぜならベストがマイジンガーよりも階級が上であるためだ。
「マリーのトランクとカバンを持ってこい」
護衛の下士官に命じてから、ベストはいつものようにマリーをエスコートすると客室の外の廊下へと出て行った。
もっとも、カバンとトランク、と言われて椅子にかけられた少女の衣類をそのままにするわけにもいかず、わずかに戸惑いを見せてからそれらも腕にかけて下士官がベストとマリーを追いかける。
そんな国家保安本部の親衛隊員らを見送る形になった秩序警察の男は、銃の引き金においたままの指からややして力を抜いた。マイジンガーの様子を窺いながら、そっと床に銃を置く。そして両手を上げると肩の力を抜いた。
ぞっとするほど薄い少女の皮。
その胴体に滑らせた手のひらの感覚が、なぜか現実味がなくて男は少女の喉を握りつぶすことができなかった。
たとえるなら、なんだろう。
――強制収容所に収容されている、飢餓状態の人間の体か。
けれども肌はきめ細かくて、栄養状態は良いようだ。そんな理解できないアンバランスは、ガラス工芸の作品かなにかのようだ。
骨の上に張り付いた柔らかい肌の感触を。
「ひとつ聞かせてください」
自分よりも階級が上であることを承知で男は口を開いた。
「彼女は、あなた方のいずれかの性的な愛玩目的のなにかですか?」
ひどく即物的な物言いに、マイジンガーが怒鳴り声を上げた。
「ふざけるな!」
男たちの性的な慰めのために連れられた少女なのであれば、いったい一晩で何人の男の相手をしているのだろう。
まさにゲスの勘ぐりだが、そんな即物的な言葉にマイジンガーが激昂する。
「マリーがその辺の娼婦共と一緒などともう一度言ってみろ、ヴェルナーが到着する前におまえの口を二度ときけないようにさせることもできるんだぞ」
低く脅す様に、マイジンガーは言い放ってから銃身で秩序警察の男の顔を殴り飛ばした。
あれほど華奢な少女が男たちの愛玩のために夜な夜なベッドに組み敷かれているなど、想像もしたくないし、マイジンガーには想像もできない。万が一、男の腕の下で組み敷かれて喘がされても可愛らしいとは思うが、自分がそういったことをしようとは思いもよらない。
思いも寄らなかったから、マリーがベストやヨストらを含めた男たちの性処理のために連れてこられたという発言に怒りを抑えられなかった。
彼女がプラハに派遣されたのはあくまでもベーメン・メーレン保護領の内情を調査するためだ。だというのに、目の前の男はマリーが性処理目的で連れてこられた娼婦だと言っている。
それが我慢ならない。
「汚らわしい手でマリーに触った罰は受けてもらおう……」
銃声が響いた……――。
一方で、その銃声を耳にしたヴェルナー・ベストは小さく肩をすくめた。
マイジンガーは若干やり過ぎる嫌いがある。
「なにもされなかったか?」
護衛官の青年下士官だけしか聞いていないことを確認して、ようやくベストはマリーに優しく問いかけた。
銃を向けられることなど慣れているわけもないか弱い少女。
その彼女がベストの腕の中で震えている。
一刻も早くベルリンに戻らなければならない。
「もう大丈夫だ」




