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神々の黄昏 ― Vaterland ―  作者: sakura
XX ゆりかご
263/410

6 死の歌

 マリーが宿泊先のホテルに帰った後も執務室に残って書類の点検をしなければならないのはヴェルナー・ベストの日常だ。

 窓の外が暗くなったことに気がついて、彼は改めて自分の手元にあるファイルを指先でくった。

 署名を確認する。

 ――親衛隊少佐、マリア・ハイドリヒ。

 赤いインクで丸印のつけられた連番を確かめてからむっつりと黙り込む。

「”ハイドリヒ親衛隊大将の暗殺犯捜索に関連する指令書”」

 ヴェルナー・ベストは単語の羅列を口に出してから記憶の糸をたぐった。

 カール・フランクとクルト・ダリューゲのふたりが主導権の取り合いしてきたことはベストとヨストのふたりが資料を目にした時点で容易に推察できた。問題となるのは、せっかく亡きラインハルト・ハイドリヒが様々な手段を駆使してベーメン・メーレン保護領の地ならしをしたというのに、それらの行動を無意味なものにするようなリディツェ村、及びレジャーキ村の殲滅作戦などを含めた強硬手段を発動できると見立てたのか、ということだ。

 ラインハルト・ハイドリヒの労働者階級に対する懐柔政策による親独感情は、プラハ市民に対する無差別的な粛正によって急転直下したと言ってもいい。

 ダリューゲとフランクの政策は、文字通りベーメン・メーレン保護領を震え上がらせて、統治に影響を与えかねない禍根を残した。

 現在のベーメン・メーレン保護領で実権を握るふたりが喉から手が出るほど欲していたのはハイドリヒが故人で握る強大な権力で、誰もが彼を羨み後釜を狙っていた。

 それにしたところで、調べようと思えばいくらでも調べられる問題から目を背けさせようとすることなど所詮は愚か者のやることだ。

 突撃隊上がりの乱暴者――クルト・ダリューゲはともかくとして、カール・フランクは国家元首アドルフ・ヒトラーの下した命令を自分の手柄にしようとしていた疑惑が持ち上がった。

「……わざとらしい」

 ぼそりとベストは呟いた。

 一応、フランクも大学で学んではいたが、ベストにしてみればせいぜい学のない無教養者と言った感が否めない。そして身の程をわきまえないから彼は生前のラインハルト・ハイドリヒと対立し、その後に媚びへつらった。もっとも、そう考えればとりあえず自分とは異なる権力者の他者との力関係はわきまえていたようだ。

 卑屈で、度量の狭い男。

 いかに自分を大きく見せることができるかと計算してばかりいる無能者。そしてそれが成功したからこそ今の地位にあるのだろうが、少なくともベストの目をごまかすことは不可能だ。

「……フン」

 鼻を鳴らした。

 丁度そのとき、執務室の電話が鳴ってベストはベルが鳴るとほぼ同時に受話器を上げる。

「ベストだ」

 電話の主は特別保安諜報部でも、一応ベストと同階級となっている親衛隊医師のカール・ゲープハルトだった。

「……ダリューゲ上級大将が?」

 曰く、ホテルに突然訪れたダリューゲが、少しマイジンガーが目を離した隙にマリーを「拉致」していったらしい。

 いや、正確には拉致ではないことはわかっているが、なんとも後味が悪い。

 まさか突撃隊にも所属していた古参の親衛隊高級指導者と知られるクルト・ダリューゲが発育の悪い十代の少女をベッドに連れ込むなどということはあるまいが、なにせマリーは一応年頃の少女だ。

 未婚の女性が男とふたりきりとなれば、気を揉んでも仕方ないだろう。

「マイジンガーが目を離したのか?」

 咎めるような口調になるベストにゲープハルトは電話の向こうで「なにも四六時中はりついているわけにもいくまいし、相手はダリューゲ上級大将だから問題なかろう」という言葉を放った。

「しかし、マリーはまだ十六歳だぞ」

 ホテルの従業員の話では、マリーを食事に誘っていたらしいということだったが、男と女がふたりきり――語弊はありそうだが――というのはなんともいかがわしい。

「とにかく、マリーとダリューゲが向かった先を大至急捜索しろ」

 心配いらないだろうというゲープハルトに、ベストはそう指示を下すと左腕を伸ばすようにして腕時計を確認した。

 ダリューゲがマリーを連れ去ったのは三十分ほど前のことらしい。

 憮然としてから息を吐き出すと、大股に闊歩してコート掛けのコートを手に取った。ベルトを締めて襟元を正す。そうして制帽をかぶったベストは待機していた特別保安諜報部の下士官に命じてホテルへと引き返した。

 それから車を飛ばして宿泊先のホテルのエントランスホールに戻ると、ものものしい空気をまとったゲープハルトが医療キットを抱えてホールを行ったり来たりしながら、ベストを待っていた。

「マリーは……?」

 できる限り冷静にヴェルナー・ベストが優秀な親衛隊医師に問いかけると、ゲープハルトは「そんなことよりも」と言いながら歩きだすと、ベストが乗ってきた車に乗り込んで運転手に鋭く指示を飛ばす。

「事故が起きた」

 ゲープハルトが指示した場所の地名にベストは耳を疑った。

「アルマーディ通りへ急げ」

承知しました(ヤヴォール)!」

「ベスト中将、来るのか来ないのかはっきりしたまえ」

 ゲープハルトに急かすように声を掛けられて、ベストは我に返った。後部座席のゲープハルトの隣に乗り込んで、彼は身を乗り出すように自分よりも少しばかり年上の医師に問いかける。

「マリーの行く先をあちこちに尋ね回ったらアルマーディ通りでダリューゲ上級大将の車が事故を起こしたらしいという情報が入った」

「テロではないのか?」

 間髪入れずヴェルナー・ベストが問いかければ、ダリューゲはちらと視線を上げてからフロントガラスの向こうに視線を戻して眉間を寄せる。

「わからん」

 アルマーディ通り。

 それはかつてラインハルト・ハイドリヒが、チェコスロバキア亡命政府の暗殺犯たちによって殺された場所でもある。

 同じ場所で事故が起きたというのは一体どういう偶然だろう。

「わからんが、車同士で正面衝突だそうだ」


  *

 夜のとばりが落ちた時刻にその事故は起こった。

 よろりとマリーはほぼ完全に潰れたダリューゲの公用車から這い出した。

 対向車の運転手と、その隣に座っていた夫人はぴくりとも動かない。

 息を吐き出すようにして、マリーは振り返ると後部座席から垂れ下がる男の手を引っ張った。

 ダリューゲの運転手も即死だった。

「……ダリューゲ上級大将」

 言いながら彼女はその手を引くが、ややしてから男の手が無反応であることにマリーは気がつくと溜め息をついた。

 「そこ」は夢で見た場所。

 何度も、何度も、「彼」が殺された場所。

 空が落ちてくる。木々が迫ってくる。

 重たい圧迫感に口を覆うとマリーはその場から逃れようとでもするように小走りに駆け出した。

 それでも夏以来弱ってしまった彼女の足では、大した距離も走ることはできずに歩道の段差につまずいた。

 前につんのめるように転んだマリーは、自分の力ではどうやっても克服することのできない恐怖を感じてうずくまったまま泣き出した。

 転んですりむいた膝が痛むことと、まるで景色そのものが圧迫してくるような恐怖と、そして夢で何度となく繰り返された暗殺者の幻影。

 聞き慣れた犬の鳴き声と、自転車のブレーキ。

 車のエンジンの音――。

 全てが彼女の耳に同時に聞こえた。それらにマリーはうずくまったまま瞠目する。そろそろと顔を上げて、辺りを見回した。行き交うのは車と、自転車、そして通行人が少しばかり。

 けれどもそれら全ては彼女に襲いかかる幻影だ。

 腰を抜かして後ずさったマリーは両腕で自分の上半身を抱きかかえるようにして、不審げな眼差しを向けてくるチェコスロバキアの人間たちを認めて全身でガタガタと震えだした。

「……こ、殺さないで」

 ――わたしを、殺さないで。

「助けて」

 ”敵は殺せ”。

 マリーの頭の中に声が聞こえた。

 腹の底から頭の先まで突き抜けるような絶叫が響いた。

「マリーだ……!」

 ロートが駆け寄った少女に車で追いついたゲープハルトは転げるように駆け出して、マリーを認めてから絶句した。

 赤いシェパードを追い払おうとして両腕を振り回している彼女に、ロートは体重をかけて彼女を押さえつけると抵抗を奪う。それが動物の本能なのかなんなのかはわからないが、見たところ「彼」はマリーに発情しているわけでもなければ、攻撃態勢になったわけでもなさそうだ。

 大柄な犬は体格を利用して暴れるマリーを押さえつけているだけだ。

 けれども、ゲープハルトが絶句したのはそればかりではない。

 少し離れたところに正面衝突したらしい車両が二台あった。そして、アルマーディ通りを抜けた大通りを走行していた車がひどい玉突き事故をおこしていた。歩道を走っていた自転車も、歩行者のチェコスロバキア人も巻き込まれた。

 そして大柄な犬に押さえ込まれたマリーは何度も「助けて」と繰り返しながら、やがて腕を振りかざす力も抜けたのか涙を何度も拭いながらすすり泣いていた。

 ぺろりとロートがマリーの頬を舐めた。

 パタパタとその尻尾はゆっくりと振られているのはまるで幼い子供をあやしてでもいるようにも見えた。

 そんなロートに待機を命じてベストはマリーを抱き起こした。

「なにがあったのだね?」

「……ベスト博士ー」

 親しい男の体温に安心したのか少女はやっとそれだけ言ってベストに縋り付くと、彼の胸に顔を押しつけるようにして強くしがみついた。指先が震えている。

「大丈夫、もう怖いことはない」

 ダリューゲの車を確認しに行っていたゲープハルトは、左右に首を振りながら戻ってくるとマリーの全身を上から下まで確認する。

 彼女の後ろ姿を見る限り傷らしい傷はないようだ。

 路面に血痕もない。

「事故のショックで混乱しているようだな」

 ダリューゲの治安警察が到着したことを受けて、ゲープハルトは手短に状況を説明すると特別保安諜報部の車に戻ってきた。とっくにベストによって車内に乗り込んでいたマリーは、首席補佐官の胸にすがって相変わらず震えている。

 ちゃっかり後部座席の床に寝そべっているロートは時折ぱたりと耳を動かして目を上げると車内の様子を観察していた。

「大事故だな」

「そのようだ。カーブがきついアルマーディ通りとのT字路だから”たまたま”スピードを出していた車が角を曲がりきれずに玉突き事故の原因になったんだろう」

 車内から事故の状況を確認したベストにゲープハルトが言葉を返す。

 自分の乗っていた車が衝突事故を起こし、さらに目の前で大事故が発生したとあっては年頃の少女がショックを受けてもやむを得ない。

 事実、事故だけを見ればアルマーディ通りを抜けた車両が直線道路にさしかかったときに、左右を走る車に突っ込むような形になっていて、道路を遮断した侵入車に対して何台もの車が激突するような形となっている。さらにこれを避けようとした車両の幾台かが歩道に乗り上げて次々と自転車と歩行者をはね飛ばした。

「ところで、ダリューゲ上級大将の”容態”は?」

「マリーは痩せていて体重が軽くて、体が柔らかかったことが幸いしたんだろう」

「……なるほど」

 ゲープハルトの言葉にベストが相づちを打った。

 子供は体が軽く、大人のそれよりも柔軟だ。

「貴官が”そう”言うところをみると、マリーには大した怪我はなさそうだな」

「膝小僧の擦り傷くらいだ。転んだ時にできたんだろう」

「全く、怪我が良くなったと思ったらまたこれか」

 医師として憮然としたゲープハルトは、助手席へと座るとホテルへ戻るように指示を出した。

「フランクからダリューゲ上級大将の”容態”については連絡をいれるよう指示してある。我々は一度ホテルへ戻るとしよう」

 「無関係の人間」が事故現場にいたところで意味はないし、必要ならカール・フランクから招集があるだろう。

 この事故でクルト・ダリューゲを含めた親衛隊員が三人。ベーメン・メーレン保護領の民間人の三十人ほどが死ぬこととなった。

 現場にいて生き残ったのはマリーだけだったが、ヒムラーの命令でマリーに対する詮索は一切が禁じられることになる。

 不可解なのはクルト・ダリューゲを含めた一連の事故による犠牲者の死因の一部は心筋梗塞だったことでもあるが、「そういうこともあるだろう」と無知蒙昧なヒムラーに黙殺された。



 ――敵は殺せ。

 殺し尽くせ……。



 マリーが事故にあったその夜半過ぎ、ブロフカ市立病院と聖ヴィート大聖堂は一晩にして灰になったのは余談だ。

 この二件の火災とアルマーディ通りの交通事故は、プラハの人々に恐怖の記憶と共にこう囁かれる。

 ――あの事件はラインハルト・ハイドリヒの呪いだ、と。

「今日はもう寝なさい。疲れただろう」

 ベッドに丸まっているマリーの手がしっかりとマイジンガーの手を握っていた。

「……ここにいて」

「しかし、君の部屋にわたしがいるとベスト中将に怒られる」

「ここにいてっ!」

 怒ったように叫んだマリーの声が嗚咽に滲む。

 ひどい事故を目の当たりにしてショックでも受けたのか、マリーはホテルにつくなり部屋のベッドに丸くなった。

「……ここにいて、マイジンガー大佐」

 白い指が震えていた。そんな彼女の華奢な指にマイジンガーが肩を落とす。

 どうかここにいてほしいと少女が訴える。

「……――わかった、ここにいるから休みなさい」

「うん」

 死には死を。

 血には血を。

 呪いをも灼き尽くす煉獄を。

 ハイドリヒの呪いの花が開く。 

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