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神々の黄昏 ― Vaterland ―  作者: sakura
XX ゆりかご
262/410

5 不穏の予兆

 カール・ゲープハルト親衛隊中将はくるくると巻き取るようにして少女の手首から包帯を外してやりながらじっと眼鏡の奥から片目を細めて見せた。

「もう痛くはないだろうね?」

 問いかけられてマリーは首を縦に振った。

「はい」

「ならば良い」

 それにしても問題は陸軍参謀総長のフランツ・ハルダー上級大将だ。

 一般的な同年齢の少女と比べても華奢な骨格の彼女の手首を、高齢とはいえ生粋の職業軍人の男が力任せに掴み締めるなど、ハルダーの不注意にも程がある。

「ゲープハルト中将、心配してくれるの?」

 小首を傾げて問いかけられて、ヒムラーと幼なじみの高名な医師は固まった。

 ――大変愛らしい。

「……ハ、ハルダー上級大将もハルダー上級大将だ。年頃の女の子にこのような乱暴はもってのほかだ」

 その場の動揺を取り繕うように眉間にしわを寄せたゲープハルトに、マリーは朗らかに笑った。

ありがとう(ダンケ)

 まるで天使のような笑顔に目を奪われる。

 もちろんゲープハルトもこれまでの人生の中で、かわいらしい少女たちなどいくらでも見てきたし、別に動揺するようなことでもないということはわかっている。

 けれども彼女の青い瞳に見つめられてしまうと、なぜだか心臓を鷲掴みにされたような錯覚に陥った。

「仕事のうちだ」

 わざとらしく憮然としたゲープハルトは、唐突にマリーと出会ったばかりの頃の会話を思い出した。

「……マリー、わたしの記録が国家保安本部(RSHA)の中央記録所にあるというのかね?」

「当然じゃないですか」

 けろりとして彼女は言う。

 なにも後ろめたいことはしていないはずだが、国家保安本部とゲシュタポと聞くとラインハルト・ハイドリヒの強硬な手腕を思い出してドキリとした。

「わたしは、ハイニー……――ヒムラー長官に必ず前国家保安本部長官のハイドリヒ親衛隊大将をお救いするようにと命じられていたのだ」

 後ろめたいことなどあるわけもないから言い訳などする必要もないのだが、ゲープハルトはナチス親衛隊に逆らった者の末路を知っていればこそ、恐れを抱かずにいられない。特に党首のアドルフ・ヒトラーは、旧知の間柄であった突撃隊幕僚長であるエルンスト・レームすらも粛正の刃をおろした。

 アドルフ・ヒトラーとナチス親衛隊に逆らえば、次に死ぬのは自分には関係のない他者ではなく、自分自身かもしれないのだ。

 その恐れがゲープハルトを凍り付かせた。

「わたしは本当に、ハイドリヒ大将の命を救いたかったのだ」

「知ってますよ」

 弁明を重ねるゲープハルトに、マリーは口元に片手を添えるとクスクスと笑ってからテーブルの上に拳を固めている中年の医師を覗き込む。

「しかし君はわたしの命などいつでも追い詰めることができるのだと言ったではないか」

「……でも、だって、そうでも言わなきゃゲープハルト中将、わたしのところに来てくれないじゃないですか」

 言ってしまえば後の祭りだが、悪びれもなくゲープハルトに応じたマリーの台詞に男は絶句した。

 この数ヶ月の間、いつ粛正されるのではないかと生きた心地がしなかったというのに、執務室で脅迫めいた言葉を放った本人は罪悪感も感じてはいないようでけろりとしている。

「……――なんだって?」

 素っ頓狂なゲープハルトの声にマリーは右手の人差し指で唇に触れると、そうして意味深にほほえんだ。

 そんな笑顔さえかわいいと思ってしまうのは中年のサガだろう。

「……つまり、君はわたしを嵌めたのかね?」

 しばらく絶句した後にそう言うとマリーはクスクスと笑ってから腫れはひいたものの、まだ青い出血斑の残る細い腕を伸ばしてゲープハルトの頬にキスをするとにこりと笑う。

「でもゲープハルト中将は、わたしのこと沢山心配してくれるじゃないですか」

 ……ね?

 「ね」と言われても、彼女の言葉に茫然自失のゲープハルトは自分が抱えていた恐怖と悩みの行き着いた先にやがてがっくりと肩を落とすのだった。

 出会いの理由などなんでも良い。

 彼女が脅したつもりはそもそもなかったのかもしれない。

 彼女がなにを考えているのかわからずに、その笑顔の裏にあるものを勘ぐって勝手に怯えていたのはゲープハルト自身にほかならない。

 軽い脱力感を感じながら、馬鹿みたいににこにこと笑っている彼女の鼻の頭に、メントールの液体を塗りつけて意趣返しとする。

 メントールの刺激臭に「キャン」と悲鳴を上げたマリーが、ゲープハルトの目の前でおろおろしているのを眺めやりながら少女に皮肉を返した。

「それくらいで勘弁しておいてやろう、余り大人をからかうものじゃないぞ」

「ゲープハルト中将ー、目が痛いー」

 ぼろぼろと涙をこぼす彼女にゲープハルトはゲラゲラと声を上げて笑ってから、タオルを差しだして室内の流し場を指で差した。

「顔を洗ってきなさい。それで少しはよくなるはずだ」

 所詮はただのメントールだ。

 こっくりと頷いてゲープハルトの手の中からタオルを受け取ると、パタパタと走っていく少女の後ろ姿に、ややして笑いを納めた彼は何度も顔を洗っているマリーを見やってテーブルに肘をついた。

 自分がこれほど悩んでいたというのに、当の本人はけろりとしている。

 なんと腹が立つことか。

「メントールのついた手で目は擦らないようにしなさい」

「……あい」

 弱々しい彼女の返事に、ゲープハルトは苦笑して吐息をついた。

 確かにヒムラーの侍医として彼に付き従っていれば、マリーと関わり合うこともなかったし、国家保安本部と関わりを持つこともなかっただろう。そして中央記録所にあるという自分の記録が開示され、ヒトラーがいつかゲープハルトの粛正を命令するのではないかと恐れてもいた。

 けれども彼女の特別保安諜報部で仕事を共にするようになってから、もっと自分に笑いかけてもらいたいとも思うようになってしまっていた。

 父親面しているカルテンブルンナーや、ベストやヨストなどと同じように。

 自分にも彼女に笑いかけてもらいたいと思っていたことを。

 目を真っ赤にして戻ってきたマリーの泣き顔に、ゲープハルトは穏やかにほほえむと額にはりついた金髪を指先で払いのけてやる。

「君を泣かしたとベスト中将や、ヨスト少将に怒られてしまうな」

「泣かされたわけじゃないですけど……、目が痛かったです」

 なんとも素直な子供だ。

 こんなに素直で好感の持てる子供は見たことがない。

 大概、彼女と同じくらいの年頃の少女というのはませて、大人の世界を知ったような口を利く。

 少なくともマリーにはそれがない。

「すまんすまん、ちょっと君にむかっ腹がたっただけだ」

「……怒ってます?」

 恐る恐ると言った様子で問いかける彼女に、ゲープハルトは金色の髪をかき回してやってからテーブルの上に乗っかったままの包帯をゴミ箱に放り込んだ。

「君がわたしを必要としてくれているのは、よくわかったから、今さら騙されたことがわかったとはいえ、怒ったりするものか」

 彼女のおかげで世界が広がった。

 だから、カール・ゲープハルトはそのことをマリーに感謝こそしていた。

 数ヶ月前の自分では、きっと国家保安本部にまともな手順を踏んで異動を打診されても拒絶していただろうと考える。

 だから、彼女はあるいは正しいやり方を選択したのかもしれない。

「君はおもしろい子だな、マリー」

「わたし普通ですよ」

「あぁ、そういう意味じゃない。でも、君が普通だと自分のことを思っていても、君がおもしろい子であることには変わりがないし、わたしにとって君は不思議なんだ。別に理解などせんでもいいがね」

「……はぁ」

「とにかく、もう手首の包帯はなくてもいい。ベスト中将やヨスト少将が出血斑が気になるようなら包帯をしてもいいが、それ以上出血することもないし腫れもひいている。だから心配ない」

 診察を締めくくるゲープハルトの言葉にマリーはもう一度「ありがとうございます」と言った。

 朝一番でゲープハルトの診察を受けたマリーは、それからカール・フランクに提供されたベストとヨストで共有する執務室に軽い足取りで向かった。

「なるほど、(あざ)にはなっているが問題はなしとゲープハルト中将の診断と判断していいのかね?」

「そう言ってました」

「痛くないのであればそれでいい。それに子供は傷の治りも早いものだからな」

 子供というところを協調したヴェルナー・ベストに対してふくれっ面をしたマリーだが、これといった反論も思いつかなかったようで何度か口を開けたり閉めたりしてから黙り込んだ。

「君が”馬鹿”で良かった」

「馬鹿じゃないです……」

 大人が言いくるめても安直に納得しているから、ベストとしてはこれほどやりやすい相手はいない。なによりも大人になりかけた子供たちの筋の通っていない理屈をこれみよがしに理屈っぽく言い立てられるのは好きではなかった。

 頬を膨らませているマリーの頭をぽんぽんと手のひらで軽くたたいてから数冊のファイルを突きつけた。

「目を通してくれ。捜査上必要な資料をベルリンに郵送するが、そのリストだ」

「はーい」

 さすがに膨大な資料をあたるのはプラハに滞在する短期間ではできようもない。両手を上げて返事をしたマリーはベストからそれらを受け取っておとなしくファイルに視線を落とした。

「ベスト博士はフランク中将のことどう思います?」

「……どう、と言われてもな」

 顎に手を当てたベストが天井を見上げながら考え込んでいると、マリーは盗聴の可能性も考えていないらしくのんきな顔で彼を見上げている。

 さすがに「敵地」で大胆な発言をするのは気を遣うらしく、革張りの椅子を引き寄せてからマリーの手元のファイルを覗き込んだ。

「典型的な親衛隊員だろう?」

「”そうですね”」

 典型的な親衛隊員。

 多くの親衛隊員たち――特に高官たちがそうであるように、彼らは権力欲と自己顕示欲の塊でしかない。

「ベスト博士はフランク中将のこと好き?」

 子供らしく率直に問いかけられて、ヴェルナー・ベストは考え込んだ。

「君はどうなんだね?」

 ベストとしては、男相手に好きだの嫌いだのという感情はない。しかも相手は中年男だ。

「……わたしは”嫌い”」

 静かに響いた声はぞっとするほど冷たく感じられて、首席補佐官のベストはぎょっとしたように少女の顔を見直した。

「しかし君はこれまで会ったこともないんじゃないか? まだほとんど相手のことを知らないというのに好きだの嫌いだの言うのは良識に欠ける」

 もっともらしく告げたベストにマリーは底の知れない笑顔をたたえると、自分の隣に座るベストの肩にもたれかかって「はーい(ヤー)」とだけ言った。

 いつものように。

「そうね、”そう”よね」

「それと君にはいろいろと聞きたいことがあるんだがね」

「文通のこととか?」

 前置きもなくマリーがベストの言葉の先をさらう。

 彼女のこうした物言いはいつものことだが心臓に余りよろしくない。

 マリーの弱みを握ろうとしてみても、彼女のペースに巻き込まれてうまく行ったためしがない。

「……――同盟国の人間だが、信頼できるのか?」

「自分が信じないと相手は信じてくれませんよ」

「諜報とはそういう話しではない」

 信じることができるのは自分だけ。

 それが諜報の世界で、彼女が現在生きている世界でもある。

 誰も信じてはならない。

「わたしと文通してくれる人たちは”生真面目”だから、わたしを騙すなんてことしませんよ」

「騙してはいない、と?」

「……わたしが?」

 マリーと話しをしていると、時に「のれんに腕押し糠に釘」と言ったものを感じざるを得ない。

「騙す? 誰が?」

「……まぁいい」

 深々と溜め息をついてから、ベストは眉間の間を人差し指で軽く押さえた。

「とにかくファイルを確認してくれればいい」

 話しはベルリンに戻ってから聞くとしよう。

 いずれにしろカール・フランクとクルト・ダリューゲの本拠地で、弱みを握られるというのは正直ぞっとしないというものである。

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