3 帝国の騎士たち
ドイツの占領地の拡大に伴い、当初、それほど大きくなかった異民族問題は、想像以上に拡大の一途を辿っていた。特に、ドイツよりも東の国家にはユダヤ人の人口は多い。この東欧のユダヤ人の膨大な人口こそが、アドルフ・ヒトラーの掲げる東方生存圏構想の大きな障害となっていた。そして、そこに大きな障害が存在していると言うことは、そうした事業を推進する組織にとっての負担が大きくなるということだった。
――”異民族”は、我々アーリア人の生存圏外に”追放”しなければならない!
声高に。
もっともらしく主張するヨーゼフ・ゲッベルスの演説まがいの論調を思い出して、アルベルト・シュペーアは眉間を寄せた。
ヒトラーの信頼する宣伝大臣。
力強いゲッベルスの言葉を重々しい様子で聞き入っているヒトラーと、一同の様子を窺っていたヒムラー。
「それで、”ヒムラー長官”」
ヒトラーが機嫌悪そうに口火を切った。
東部での軍事行動は一通り、ドイツ側にとってある程度好ましい形で集結を迎えたとは言え、問題の全てが解決したわけではなく、いまだにスターリンらの行方はようとして知れない。
そして、尻尾を巻いて逃げ帰る形となったスターリンから政権を奪取したフルシチョフにも問題はあった。
「我々が東方へ入植するにあたり、異民族共の追放は進んでいるのかね?」
問いかけられてナチス親衛隊全国指導者のハインリヒ・ヒムラーはさっと青ざめた。
「そ、その件についてですが、実は……、総統閣下……」
気の弱いヒムラーは激情家のヒトラーを恐れている。確かに大の大人が衆目の面前でこれ見よがしに怒鳴りつけられるのは面白いものではないだろう。
しかし、それとこれとは話しが別だ。
彼らが持つのはそのための権力なのではないか。
シュペーアはそう思った。
「各収容所も問題につきましては、休みなく対応しておりますが、目標の達成には今少し時間がかかるかと思われます」
どもりがちの声でヒムラーはなんとかそれだけ言うと、まるで周囲に助けを求めるように視線をうろうろと彷徨わせた。
ヒムラーの頭脳であり、暴力装置の執行人とも言えたナチス親衛隊のナンバー・ツー。ラインハルト・ハイドリヒは、半年ほど前にチェコスロバキアとイギリス政府の凶刃の前に倒れた。
人とはこれほどあっけなく死ぬものなのかと思わせた。
語尾が弱くなるヒムラーの物言いに、ヒトラーは不愉快げに舌打ちした。
「総統閣下、国防軍の軍需工場でも、製品の品質を維持するためにも”労働者”の質を維持することは必要不可欠であると考えます」
「ドイツ人で代用はきかんのかね?」
くちばしを突っ込んだのはボルマンだ。
「昨年の作戦の失敗が響き、ドイツ人の熟練工は一部戦場で被害を被っており、そのために占領地区の労働者で補っている。官房長殿は簡単にドイツ人でダメなのかと言うが、そのドイツ人の熟練工がいないではないか」
最近ではなにがあったのかすっかりやせ細ってしまったゲーリングがおとなしいのが気に掛かるが、シュペーアの「昨年の失敗」という言葉に、わずかに機嫌を悪化させたようだ。もっとも、なにやら思うところがあるのかゲッベルスのように口を出すことはしない。
熟練工たちの技術はなによりも変えがたい。
ドイツの技術、知識の礎となる者たちを、戦場で殺してはならない。
日和見なヒムラーにはイライラするが、ボルマンやゲッベルスに主導権を握られるよりははるかに”まし”だった。
そうした技術者たちに損失が出る前に東部戦線が二度目の冬を迎えずに終えられたことは幸運だった。
「無闇矢鱈と再定住を推し進めるのは軍需大臣として賛同致しかねます」
やんわりとシュペーアが同じような立場から発言すれば、ヒムラーは孤立無援ではないことにホッと安堵の息をついた。一方でヒトラーはよく知る友人の言葉に、どこか不満げな視線を投げかけただけで、神経質な空気をまとったまま考え込んだ。
「……解決の見込みはあるのかね?」
年の初めにヴァンゼーで行われた次官級会議の席でラインハルト・ハイドリヒは「解決の見通しがある」とゲーリングに回答した。
しかし現実は、その五ヶ月後に国家保安本部長官のハイドリヒは暗殺され、問題はかろうじて進められているものの宙ぶらりんのままで今に至っている。
神経質に問いかけられて、ヒムラーは一瞬言葉に詰まった。
「も、もちろんです。閣下」
「”君”を信頼している」
短くそう言ってから、ヒトラーは一瞬震えた左手首を右手で握りしめてから、明らかに不機嫌そうだ。
戦争がはじまってから、事態はヒトラーの思うようにいかなくなっている。
失敗に次ぐ失敗。
物量大国を相手に、長期の戦いを戦うことができる体力がないことは、当初、国防軍内からも意見が交わされていた。
現実と、過去の面白くない問答と、将来への展望。なにもかもがヒトラーにとっては面白くなくて、それが彼の機嫌を日々悪化させていた。
極めつけは、ハイドリヒの死だ。
彼は死ぬべきではなかった。
彼は死んではならなかった。
それからしばらく閣僚らと会議をして、ヒトラーの遅い朝の会議は終わった。
「……――ウラン・クラブに対する英仏連合、及び英米連合の対抗措置の可能性、か」
シュペーアは低いうなり声を上げながら、鍵のかかるデスクのひきだしから一冊のファイルを取り出して紙のめくる音をたてた。
署名は国家保安本部、及びナチス親衛隊全国指導者個人幕僚本部所属の親衛隊少佐M・ハイドリヒ。連名で国家保安本部のヴェルナー・ベスト親衛隊中将と、ハインツ・ヨスト親衛隊少将が署名している。
シュペーアのもとにそのファイルが届いたのは、かなり前だ。
まだ夏の日差しも降り注いでいた頃で、ウラン・クラブに対して行動を起こしたのは、国家保安本部の国外諜報局長ヴァルター・シェレンベルク親衛隊上級大佐だ。彼は、急速にその地位を固めつつある。
それはさておくとして、ファイルの中にタイプライターで打ち込まれた書類が挟まれていて、それにはいくつかの重要な可能性が指摘されていた。
ひとつ、カイザー・ヴィルヘルム物理学研究所のアルベルト・アインシュタイン博士の亡命によって、それらの研究の情報がすでに漏洩しているだろう可能性。
ふたつ、ソビエト連邦とアメリカ合衆国の、ドイツとは比較にもならない物量をありとあらゆる意味で用意できる二カ国がおそらく研究に携わっているだろうこと。
三つ、ユダヤ人研究員の排斥が進んだことによって、ドイツ本国の知的水準が一様に悪化しているだろうころ。
そうした想像できる事態が少しばかり砕けた文体で書かれている。
この報告書をまとめたハイドリヒ親衛隊少佐というのはいったい何者だろうと思い、シュペーアが国家保安本部長官のエルンスト・カルテンブルンナーに電話をいれてみるも、少しばかり警戒した様子のカルテンブルンナーに「今はちょうどプラハに出張しているので、十二月になったらご連絡ください」とすげなくあしらわれた。
人間が本当の意味で独創的なことを考えられるのであれば、相当の天才か、いかれた狂人だ。つまるところ、シュペーアと報告書の親衛隊少佐が考えられる程度に平凡であるということは、とっくに連合側の研究機関も想定しているだろうことが予想された。
「まぁ、考えても仕方ないか」
とりあえず、東部戦線が一段落したことで北アフリカ方面との二正面攻勢は免れた。だが、それだけで事態が前進するわけでもない。
それでも頭痛の種は尽きないものだ。
やれやれと溜め息をついてから、シュペーアは引き出しにファイルを放り込んだ。
*
「お久しぶりですな、将軍」
電話の向こう側の相手にハンス・フランクはそう言った。
「あなたがそれほど”入れ込んで”いる少女なら、ぜひ今度ドイツに帰国した折りに顔を合わせてみたいものだ」
入れ込んでいる、というフランクの言葉に電話の相手である突撃隊のヴィクトール・ルッツェは抗議めいた声を発した。
「冗談です、ボルマンじゃあるまいし、まさかルッツェ大将が十代の女の子に手を出すとは思っておりません」
そう言って笑うフランクは、執務机の上に放り出された彼の手紙に同封された写真を指先でめくる。
「わたしはポーランドにいて仕事をしているので、そちらになかなか出向くことはできないし、わたしが動くとヒムラーや総統が余り良い顔はしないだろう。だから、ベルリンである程度自由な身動きができるあなたにお願いしたいことがある」
「なにか?」
フランクの思わせぶりな言葉にルッツェが訝しげに問いかけた。
「なに、大したことじゃない。軍需大臣閣下が、わたしに相談……、というか、雑談で親衛隊にいるハイドリヒ親衛隊少佐のことを言ってきてな。報告書を上げた当人と話しをしてみたいと言っていたのだが、そういえば君が相当ハイドリヒ親衛隊少佐のことを買っていたことを思いだしてな」
物静かに、理知的に話すフランクにルッツェは機嫌良さそうに笑った。
親衛隊とは折り合いが悪い突撃隊の現幕僚長。ヴィクトール・ルッツェがフランクがポーランドに移り住むことを断ることになった写真の少女。
「あぁ、頼む」
電話越しに、いかに可愛らしい少女なのかと力説するルッツェに苦笑してから「ベルリンに行くことがあったらぜひ」と気のない返事をした。
電話を置いたルッツェは、ソファに腰掛けている参謀長のあきれたような視線を受けて大きく息を吐き出した。
「フランク博士と軍需大臣閣下がどうしたんだ? ルッツェ」
「……いや、ほらあの子が諜報部に所属しているだろう? その報告書を彼女が書いたらしいんだがヘル・シュペーアが見たらしくてな、それを書いた親衛隊少佐に興味を持ったそうだ」
「そういえば、妙に鋭いところもある子だったな」
まぁ、ともう一度溜め息をついてから、突撃隊参謀長のマックス・ユットナーはチェストに載っているルッツェの娘と金髪の少女とが一緒に写っている写真をしげしげと眺めた。
「今は、ヒムラーの命令でプラハに訪問中らしいが、ヒムラーもあんな小さな子に任務を命じるなどいかれているにも程がある」
吐き捨てるようなルッツェの言葉に、マックス・ユットナーは肩をすくめた。
「まぁ、親衛隊の名だたる知識人がついているというから問題はなかろう」
「……フン」
ルッツェは安心させるように告げたユットナーに、鼻を鳴らした。
親衛隊と突撃隊の確執は深い。
ルッツェとマリーの関係。あるいは、マックス・ユットナーとハンス・ユットナーの関係をもってしても埋められないほど、深いそれだった。
ナチス親衛隊が主導した、かつての事件。
それをルッツェは思い起こしているのかも知れない。
前突撃隊幕僚長、エルンスト・レームを含めた多くの突撃隊幹部が文字通り粛正された――長いナイフの夜。
ルッツェが忘れるわけもないし、マックス・ユットナーも忘れようがない。
「子供たちは、ドイツの希望なのだ……」
やがて、ルッツェはぽつりと言った。
「我々の世代は血にぬれて、粛正の恐怖に恐れおののく時代を生きねばならんのかもしれん。それは、突撃隊の暴力の代償だ。しかし、それでも、我々は希望に満ちたドイツの未来を、子供たちの未来のために残さねばならん」
長いナイフの夜、そしてナチス親衛隊の台頭とナチス党の政権奪取。そうしたものを見つめ続けてきて、やっとルッツェには本来守らなければならないものがなんだったのか気がつけたような気がする。
「子供たちに希望に満ちた明日を残すためには、我々はいがみあっていてはならん」
金色の長い髪の少女が、青い瞳を大きく開いてファインダーに向かって笑っている。
わかっているんだ。
そしてやはり長い時間をおいてから、ヴィクトール・ルッツェはぽつりとこぼした。
「なぁ、ユットナー。君は、どう思う?」
「あの子のことか?」
ルートヴィヒ・ベックのもとに預けられていた華奢なヤセギスの少女。彼が訪ねた時は、眠っていたから意識があるときに顔をあわせたことはない。
「天下の突撃隊幕僚長が入れ込む程度には魅力的なんだろう」
無邪気で、恐れを知らず。
そしてまっすぐで前向きだ。
天真爛漫に笑う少女の写真は、彼女を知らぬ大人たちの心さえも温かいものを感じさせるのだ。
「もしも俺が、あの子と年齢が変わらなければ彼女に恋をしていたのかもしれないな」
口元にほほえみを浮かべてルッツェは独白するようにそう言った。
恋心を感じるには年齢差がありすぎて、感じるものは庇護欲ばかりだ。
真綿でくるむようにして、全ての危険から守ってやりたくなる。
彼女の存在は、ドイツそのものだ。
それが真実……――。




