1 抜かれたナイフ
ひらひらとマリーは肩の上に手を挙げて、手にしているファイルをシェレンベルクの目の前で振って見せた。
紙の束が挟み込まれたそれに、ヴァルター・シェレンベルクは目を細めた。
「これ、なんだと思います?」
「……中央記録所のファイルだな」
中央記録所――。
国家の敵、あるいは敵と見なされる者、不穏分子。数多くの分類に分けられた国内外の敵性分子に対するありとあらゆる情報がそこに集積されている。もちろん、そればかりではない。
かつてのラインハルト・ハイドリヒは、敵性分子のみならず多くの高官たちの情報をも握っていた。
その一部をシェレンベルクは業務の合間に少しずつ把握して言っているのだが、正直なところなかなか追いつかないというのが現状だった。
なにぶん、その量が膨大すぎる。
「……それで、それは?」
「スイスのベルンにアメリカが戦略情報局の支部局が置いてあるのは知ってます?」
有名な話だ。
国外諜報局を統括するシェレンベルクが知らないわけがない。
まっすぐな金色の髪をなびかせながら、マリーはゆっくりと歩いてくるとマホガニーの執務机についているシェレンベルクの前に指をそろえてそっとファイルを置いた。
「アレン・ダレス……、か」
アメリカ合衆国に籍を置く弁護士で、外交官として働いた経歴を持つ。
一九四〇年に戦略情報局に入局した切れ者の工作官だ。
ファイルを指先でめくったシェレンベルクがそこにタイプされた名前を確認してつぶやくと、マリーは青い瞳でじっと彼を見つめた。
大きなその瞳はまるで深淵へといざなう沼の入り口のようにも思わせる。
スイス連邦は一八一五年のウィーン会議で国家としての永世中立国が認められた。
この永世中立国であるスイス連邦国内には多くの国際機関が設置され、その首都である”ベルン”市には、数多くの諜報機関員が跋扈している。
このアメリカの戦略情報局も、ベルン市に支部局を設置して欧州戦線の成り行きを事細かに調査報告し、本国へと連絡している。この、戦略情報局がポーランド、及びフランス、チェコスロバキアなどのパルチザンを含む地下組織を支援しているという情報もすでにシェレンベルクは掴んでおり、いずれアメリカ合衆国が物資の支援だけではなく、武力介入を目論んでいるだろうことも視野にいれていた。
どちらにしても、アメリカ合衆国が介入してくるという事態だけはできるならば避けたいところだ。
とんとんと指先でファイルの端をたたいて問いかける。
「それで、これが?」
「お友達ができたんです」
そう言ってにっこりと笑ったマリーの本心がつかめない。
「それは良かったな」
目の前のアレン・ダレスのファイルとマリーの告げるお友達とやらの話の関連性を考えようとしていたシェレンベルクに、少女はマリンハットを頭から外しながら言った。
今の彼女は腕章もしていなければ、鷲章のスカーフピンもしていない。
要するに彼女が国家保安本部の職員であるとは、知らない者にはわからないのだ。
さすがに戦略情報局の支部局長であるアレン・ダレスがドイツ入りしたなどという馬鹿げた話しも聞かないから、その「お友達」とやらがアレン・ダレスであるというわけでもないわけで、彼女の発言には別の思惑があるはずだ。
少女らしく本当の意味で「お友達」であれば喜ばしいことなのだが、おそらくそうではないだろう。
「……アルバート・デニー」
そっと声をひそめてつぶやいた彼女に、シェレンベルクは目を細めた。
「ふむ」
シェレンベルクもマリーもほとんど表情を変えない。
アルバート・デニーという名前はシェレンベルクの記憶にあった。
彼は生まれはドイツだが、現在はアメリカ人だ。もっともドイツ第三帝国は、ドイツで生まれた人間に対してドイツ国籍離脱を認めていなかったのでドイツ側から見れば、ドイツで生まれた人間であるという以上は「ドイツ人」という認識の方が正しい。
ようするにドイツ人である以上は、ドイツの法律で裁くことができるということだった。
はっきりとした確証はないものの、ほぼ九割ほどの確率でアルバート・デニーが戦略情報局の諜報員であるという見立てが強く、その身柄は中央記録書の検索カードの左端には赤いタブが取り付けられゲシュタポの「A1」グループとして分類されている。
A1グループというのは、いわゆる反体制分子でその偽装した行動準備の徴候を見つけ次第ただちに逮捕すべき、とされていた。
「彼、いい人ね」
「そりゃ、諜報員は普段は大概人畜無害ないい人を装っている場合が多いからな」
目立たず、人の記憶にも残さない。
「そうかしら?」
意味深長な彼女の言葉にシェレンベルクは、息を長く吐きだしてから深く椅子に背中を預けて胸の前で指を組む。
脚を組んで彼女の言葉を待った。
「アメリカ国内で暴動が起こったでしょう? 彼が言うには、戦略情報局欧州支局の方でも随分と動揺が広がっているらしいの」
それにしても、彼女はどこでアルバート・デニーと接触したのだろうか。
そんなことをシェレンベルクが考えているとマリーはにっこりと笑ってみせる。
そういえば、とシェレンベルクはラインハルト・ハイドリヒが表向きは礼儀正しい態度を崩すことなく、常に素晴らしいやり方で自分の方法を貫いていたことを思い出した。
諜報部員はどんな苦境に晒されたとしても冷静でいなければならない。
熱に飲み込まれては、正しい判断を見失うだろう。そうして、正しい判断を見失った諜報部員など不必要なものだ。
残酷な決定にも流されず、冷徹にいなければ自分自身を見失いかねない場所で生きている。
「アレン・ダレスもそうだ、と君は言いたいのか?」
「そういうわけじゃないけど……」
シェレンベルクには、他の者に対するときよりもずっと砕けた口調になる。
まるで親しい「おじさん」と会話を交わす少女ででもあるかのように。
「でもきっと、そこに付け入る隙があると思うの。デニーがね、これからも”いろいろ”教えてくれるって」
つまりそれはアメリカ国内に放った諜報部員たちとも連絡を簡単に取れるようになるということだ。
「あと、ヒムラー長官に進言していることがあるのだけど、そのうちになにか決定があるかもしれないわ」
紆余曲折を経て、エニグマの暗号コードが刷新された。これで海軍や陸軍の情報網が立ち直ることができれば幸いなのだが、今のところその結果は見えていない。
一方、その頃、ヒムラーはデスクに着いたままで青い顔からさらに血の気をひかせて、白くなった顔で口を半開きにして呆然としたまま、シェレンベルクの元から送られてきた書類を凝視して固まっている。
タイプライターで打たれたアルファベットの中身も問題だが、サインも問題だ。
M,Heydrich――。
そのサインは確かにかつてのラインハルト・ハイドリヒと同じ筆跡でヒムラーを戦慄させる。
「……ヴォルフ大将」
副官でもあるカール・ヴォルフを呼んだヒムラーの声が震えた。
「はっ……」
「君は、マリア・ハイドリヒ嬢のことをどのように思うかね?」
「……長官」
ヴォルフは、ヒムラーがなにを思ってマリア・ハイドリヒに親衛隊少尉の階級を与えたのかがわからない。それゆえに、なんと言葉を返して良いのかわからずに、言いかけて黙り込んだ。
「わたしは、正直なところ、恐ろしくてたまらないのだ」
なにが恐ろしいのか、とはヒムラーは言わない。
どうしてそんなことを思うのだろう?
カール・ヴォルフが見たのは、彼女に対するヒムラーの命令書とナチス親衛隊に所属するための書類につけられた写真だけだ。マリア・ハイドリヒが親衛隊全国指導者個人幕僚本部に名前を連ねているものの、未だに顔を合わせたことすらないのだから。
机に両肘を付いて、その組み合わせた手に顔を埋めたヒムラーの長い沈黙が室内を満たした。
彼がなにかに怯えているのはすぐにわかった。
けれどもたかが副官の自分になにができるのだろう。
「六時に国家保安本部へ向かう。車の手配を頼む」
「承知しました」
彼女――マリアは、ヒムラーの秘密を握っていたこと……。
「……長官はうまく隠していらっしゃるようだけど、ボルマンから提供された横領の件は存じ上げていますのよ?」
罪のかけらも感じさせない彼女の声色。
内容はヒムラーを失脚させかねない重大なものだった。
ハインリヒ・ヒムラーが、愛人に別荘を送った際、そのやりくりに困った彼はヒトラーの個人秘書でもあるマルティン・ボルマンに相談して金を借りている。
それが党の金だということは充分に知っていて、ヒムラーはボルマンから借りたのだ。
「ボルマン共々失脚させられたくなければ、賢く振る舞う方がよろしいんではなくて?」
優しげな声に、どこか不穏な冷徹さすら滲ませながら告げた彼女の瞳の奥に、かつてのラインハルト・ハイドリヒの面影が重なったように見えたこと。
決して核心を衝かない暗喩めいた物言いはラインハルト・ハイドリヒそのものだった。今は亡き国家保安本部長官は、そうして多くの高官たちのアキレス腱を知っていたのである。
それはヒムラーのみならず、総統アドルフ・ヒトラーのことすらも。
ハイドリヒが何を握っていて、なにを把握していなかったのか。それは今では推察することしかできないが、それゆえに、彼の生存当時、ハイドリヒの名前は恐怖の代名詞だったのだった。
マリーには今のところ権力はない。
しかし、彼女がなにもかもを知っている、と知ってしまったハインリヒ・ヒムラーの恐怖が彼の判断から冷静さを失わせた。
彼女の周りにいる人間のひとりが切れ者のシェレンベルクであったこと。
そうして味方とも言うわけではないが、問題は国内諜報局長のオットー・オーレンドルフの存在。
「閣下、ひとつよろしいですか?」
カール・ヴォルフの声が響いた。
「どうした?」
「……親衛隊司令部の”新米士官”のことについてです」
「続けろ」
「パリの民生本部長ヴェルナー・ベスト中将に接触したようです」
「そうか」
ヴォルフの言葉に短く応じて、ヒムラーはもう一度深い溜め息をついた。カール・ヴォルフの見るところ、ハインリヒ・ヒムラーはなにかにひどく怯えた様子だった。
人というのは、形のない不安を恐れる傾向がある。
それはどんな高級官僚であれ、そして年寄りであれ変わらない。
こと、小心者の親衛隊全国指導者はその傾向がひどく強かった。
「わかった」
ヒムラーはヴォルフが不審を感じるほど、任命されたばかりの新人の親衛隊将校を自由にさせている。
規律に縛られる親衛隊で、本来このようなことがあってはならないのだが、当の親衛隊長官がそれを「是」としてしまっているのだから、部下のヴォルフには口出しのしようがなかった。
おそらく、とヴォルフは内心で肩をすくめた。
また非科学的ないかがわしいなにかに取り憑かれて恐怖でも感じているのだろう、と。仮にも親衛隊全国指導者であるわけだから、もっと現実的に状況を分析してもらわなければ困るというものなのだが。
ヴォルフはヒムラーの執務室を出て行きながら、上官に気づかれないように小さく溜め息を吐き出すのだった。




