2 ゼロの境目
アイヒマンが欲したのは命令だ。
自分の頭で考え、最善の策を思索し、選択する権限ではなく。
彼はただ命令を欲した。
「愚図の役立たず」
ブーツの踵を高く鳴らしてプリンツ・アルブレヒト・シュトラッセに戻ってきたアドルフ・アイヒマンの耳に聞こえてきた冷ややかな嘲弄に、顔を上げてから表情をこわばらせた。
「シェレンベルク上級大佐殿」
「”少しばかり”計画が滞った程度で取り乱すとは頭の程度がたかが知れる」
ボン大学出身の法学博士。
国家保安本部でも切ってのエリート。
「……しかし、上級大佐殿はそのように言われますが、命令が変更されない以上本官の判断すべきところではありません」
口ごもりつつそう行ったアイヒマンの内心など、シェレンベルクはお見通しだとでも言いたげな眼差しを投げかけた。
まるで天の高みから見下ろされてでもいるかのような居心地の悪さを感じて、自分よりも年下の青年にアイヒマンは肩を縮めた。
「命令がなければ物事の判断も下せないようだからお里が知れる、と言っているのだ」
ヴァルター・シェレンベルクは当初からアイヒマンを低学歴であると侮蔑の対象にしてきた。
「……――ですが」
シェレンベルクはそう言うが、ではいったい一介の課長クラスの部署長になにができるというのだろう。
アイヒマンは床に視線を落とした。シェレンベルクの物言いが悔しくて、誰も見ていないところでひっそりと泣くこともあった。
「貴様は自分で気がついていないようだから教えてやるが、貴様がほしがっている以上の権力は与えられている命令を淡々と遂行しているだけでは手に入らんぞ。アイヒマン中佐には、自分で判断する能力が欠如している。貴様がそれ以上の地位に上り詰めたいのであれば、もう少し自分の頭で考えることだ」
もっとも。
シェレンベルクはそう続ける。
「もっとも、考えるだけの”おつむ”があれば、の話しだがな」
とっくの昔にシェレンベルクはアイヒマンの資質を見抜いていた。
上官からの命令がなければ彼はなにもできはしない。そんな男が分不相応の身分を望んでいるのだ。
もっとも頭が足りないのか、何度シェレンベルクが彼の高くなった鼻をへしおっても懲りない辺り、やはり自分の程度をわきまえていないのだろう。
アイヒマンがそれ以上の地位の望むなら、相応の能力が必要だ。
偏執的なまでの任務への忠誠心と権力への執着が、彼をその地位まで押し上げたがそれだけのことでしかない。
親衛隊中佐のアドルフ・アイヒマンには、親衛隊上級大佐のシェレンベルクに対して意見する権力などない。
立場で言うならば一課長でしかないアイヒマンでは、局長を務めるシェレンベルクに異論を唱えられるわけはない。なによりも、ヴァルター・シェレンベルクという男は、国家保安本部で一番の切れ者だ。
ぐっと言いたい言葉を飲み込んだアイヒマンの気配を背中に受けてシェレンベルクは悠々と廊下の向こうに歩き去っていった。
しばらくの間、そこに立ち尽くしていたアイヒマンは、やがて大きく溜め息を吐き出すと肩を落とした。
――大学など出ていなくても、仕事ができるのだと周囲に知らしめたかった。
同僚のほとんどは彼よりも高学歴で、劣等感に苦しみ続けていたこと。
「自分で考えること……」
アイヒマンは独白する。
与えられた命令を遂行するだけなら誰にでもできる。しかし、自分などが仮に上官の意に沿わぬ行動をとったとして、それを弁解する能力があると思えない。
シェレンベルクであれば柔軟に上官の追及も躱すだろうが、アイヒマンには彼のようなしなやかさはなかった。
おまえは馬鹿だ。
言外にそう言われたような気がしてアイヒマンは肩を落としたままとぼとぼと自分の執務室へと歩きだした。
「わかっているさ……」
こらえしょうがなく、頭の回転も遅い自分は決して国家保安本部に名だたる知識人たちのように振る舞うことなどできはしない。それでも、男としてのプライドか。周囲に認められたいという欲求が強く彼の中に渦巻いていた。
*
「”また”あのくだらない男をあおり立てただろう」
「おや、これはオーレンドルフ中将」
同じ日の昼、オットー・オーレンドルフがヴァルター・シェレンベルクの執務室を訪れてそう言った。
任務にひたすら忠実な官僚。
思考することを放棄した機械の歯車。
「余りあの男をあおり立てるなよ。ああいった手合いがあの手の部門の責任者だということは我々にとっては都合が良いのだからな」
「そうですね、それはわかっておりますが現状、これ以上拡大する異民族の移送計画について放置することもままならないでしょう。国防軍は”我が総統”の唱える例の計画についてはそれほど乗り気ではありません。シュペーアとザウケルの労働者配置に関する政策を見ても彼らは慎重さを隠していません。そうなれば、再定住計画に関してヒトラーとヒムラー……――政府首脳部は我々ナチス親衛隊に政策の強行を命令してくるでしょう。そうなった場合、あの男が自ら考えず、鳥の雛のように命令を待っているだけでは話しがにっちもさっちも進みません」
ばっさりと切り捨てるようにシェレンベルクは言い放った。
アドルフ・アイヒマンが命令が上から降ってくるのを、口を開けて待っているだけではいけないのだ。
ありとあらゆる意味で。
「……アイヒマンをだしにするつもりか?」
「”結果的”に彼をスケープゴートにすることにはなるかもしれませんが、そもそも”そのため”の責任者なのではありませんか?」
「確かに現状、命令が混乱しているのは否めないが」
ソファに腰掛けたオーレンドルフは、じっと目の前の中空を睨み付けるようにして呟いた。
国家保安本部には異民族の絶滅を命じ、経済管理本部には死亡率の低下を指示している。もちろん、経済管理本部に出している「死亡率の低下」とは、病弱な者や、子供を保護しろと言っているわけではないことはオーレンドルフもシェレンベルクもわかっている。
経済管理本部にとって必要なのは、労働可能な健康な大人だ。
だが、国家保安本部が受ける命令は異なった。容赦なく、全ての者を絶滅せよという命令を受けた。その方向性は年の初めに行われたヴァンゼーでの会議以来、修正されていない。
ラインハルト・ハイドリヒが反ユダヤ主義であったかどうかはともかくとして、二代目の国家保安本部長官のエルンスト・カルテンブルンナーはまごう事なき反ユダヤ主義思想の持ち主だ。
「結局、ヒムラーがどうしたいのかがわからん」
古参のナチス党員はそう言ってから小首を傾げる。
シェレンベルクなどから見ればオットー・オーレンドルフという男は、強い信念を持った頑固者にも見えた。そして頑固故に、時にラインハルト・ハイドリヒやヒムラーとも対立した。
いつもの調子で一刀両断してオーレンドルフはちらりとデスクに腰掛けるシェレンベルクに視線をくれた。
「彼が党内の幹部の顔色を窺って右往左往しているのはいつものことではありませんか?」
「……確かに」
フンと不機嫌そうに鼻を鳴らしてからオットー・オーレンドルフは眉をしかめた。
「俺がやりたいのは”こんな仕事”じゃない」
苦々しげに呟いてから舌打ちを鳴らす。
国家保安本部は汚れ仕事ばかりだ。
今さらそれが不満なわけではないが、常識的に考えれば汚れ仕事を引き受けた組織の末路など知れている。
万が一、戦争に負ければ人生の全てがおしまいだ。
その危機感に、オーレンドルフは渋面を隠せない。
「ところで、オーレンドルフ中将。ひとつ質問させてください」
シェレンベルクが小さく挙手をして質問の許可を求めた。
「……なんだ?」
「諜報とは無関係のことですが、中将ほどの知性を持たれた方がどうして博士号を取得されなかったのです?」
シェレンベルクに問いかけられて、オーレンドルフは質問の内容の意外さに眉間を寄せた。
「……別に、興味がなかったわけじゃない。ただ、機会を逃しただけだ」
彼は信念の人だ。
シェレンベルクは内心で苦笑した。
十代半ばから政治に関心を抱き、なるべくして官僚としての道を進んだ。大学を卒業する間際まで政治になど無関心だったシェレンベルクとは大きく異なる。
無愛想に言ってから、オーレンドルフは肘掛けに手をつくと身を乗り出すようにしてシェレンベルクに切り返した。
「ところで今、プラハの一件を再調査しているそうじゃないか」
「夕飯のデザートがおいしかったとマリーからテレタイプで通信がありました」
「それは良かったな」
マリーから暢気な通信が入る程度には平和だということなのだろうが、なにぶん、プラハに行く直前に手首にひどい内出血斑を作った。
大人の目から見ても痛々しいその皮下出血に、さすがのゲープハルトもプラハ行きに同行することになった。そんなマリーから怪我の便りではなく、夕飯の報告が来るのであれば問題は今のところ発生していないということになるだろう。
「プラハは問題が山積みです」
ややしてからシェレンベルクが告げる。
ベーメン・メーレン保護領副総督だったラインハルト・ハイドリヒは、飴と鞭をうまく使い分けて民心への懐柔に成功した。それが、ハイドリヒの暗殺と、その暗殺を受けて強硬な捜査を行ったクルト・ダリューゲとカール・フランクによって全てが水泡に帰したのである。
フランクとダリューゲはかろうじて暗殺の首謀者たちを突き止め、八つ裂きにしたことによって面目は保ったが、それにしたところで失態が多すぎた。
これがハイドリヒだったら、事態の思わぬ展開に眉をひそめただろう。
「そうだろうな」
リディツェ村とレジャーキ村の殲滅作戦は、文字通りプラハの市民たちを縮み上がらせてしまった。
そうして後に残されるのは、不信感と不条理に対する怒りだ。
「フランク中将とダリューゲ上級大将の政策は、失点が多い」
オーレンドルフは右手の人差し指を顔の前に立てて告げれば、シェレンベルクもそれに同意するように頷いた。
「どちらがより主導権を握っていたかはさておくとして、ベーメン・メーレンに不審の種を蒔いてきたようなものだからな」
静かに声なき声は拡大するだろう。
声なき多数派。
その恐ろしさを、他でもなく諜報部門の長官たちはよく知っていた。
「できるだけ早く怒りの矛先を変えないと、ろくなことにならんぞ」
「……承知しています」
得てしてほころびの始まりというものは小さなものだ。
だからこそ、その始まりとなりそうなものは早めに芽を摘んでおく必要がある。
「そのためにマリーが派遣されたのです」
正確には、マリーとその補佐官たちだが。
ヴェルナー・ベストとハインツ・ヨスト。
彼らは優秀な法律家だ。
特にヴェルナー・ベストの手にかかれば、ベーメン・メーレン保護領の民意を思う方向へ誘導することなどたやすいだろう。
「腐っても鯛、か」
「ベスト中将もヨスト少将も辣腕の法律家です」
「そんなことはわかっている」
元人事局長と元国外諜報局長。その地位に上り詰めた知性も、能力も伊達ではない。
「……ベスト中将とヨスト少将のことは心配ないが、プラハに行っているとなるとマリーが心配だ」
「大丈夫でしょう、強面のマイジンガーが四六時中マリーにくっついていますから」
自分に心当たりのない悪意に晒されることになるだろうマリーをオーレンドルフは気遣った。
「それに、彼女は見かけはあれでもなかなか強い子です」




