15 加速する回転
その日の業務を終えたベストは、執務室へと鍵をかけてから自分の手元のカバンを持ち直した。
大量の書類の詰め込まれたカバンと、さらに紐でくくられたファイルの束を抱えている。先にホテルへと帰ったヨストもめぼしい書類は持参して帰途についた。
はっきり言ってベストはカール・フランクなどを信用していない。元々、フランクを大して評価していなかったというところもあったが、ずさんな記録管理にますますベストの悪印象は強くなった。とりあえず、プラハに到着したその日に記録の全てにタグをつけるところから作業は始まったのだが、それでも自分に都合の悪いと思われる記録や文書を提出しないというフランクの対応のお粗末さだ。
なにぶん、ヒムラーがハイドリヒ暗殺事件の捜査記録の徹底的な検分と、ベーメン・メーレン保護領の施政とその民心管理について、国家保安本部に在籍した名だたる法律家でもあるヴェルナー・ベスト親衛隊中将と、ハインツ・ヨスト親衛隊少将を擁するヒムラーの私設警察部隊を投入するという提案――という名の命令――は突然発令されたものだったから、余りの唐突さに証拠の隠匿が間に合わなかったといったところだろう。
いずれにしたところで、対応の悪さと、記録管理、及び証拠物件のずさんさはベストもヨストも眉をひそめるところだった。
書類の一切にタグをつけ、さらにその中から必要と思われる書類はコピーをとり、不審な箇所を洗い出す。そうして、一から文書の全てにタグを打つことによって持ち出しがされた場合の保険をかけた。
仮にカール・フランクが提出した文書がやはり自分にとって不都合だと持ち出したとしても、時はすでに遅いとも言える。とはいえいくらでも事実をねじ曲げることができるのは、ベスト自身が知っていることだった。
特別保安諜報部の親衛隊員が運転する車で宿泊するホテルに戻ったベストだが、無論、かつてのハイドリヒのように高をくくってオープンカーに乗ることはない。どんな可能性も否定できはしないのだ。
特に、ラインハルト・ハイドリヒが暗殺されて、その後に行われたふたつの村の殲滅作戦はベーメン・メーレン保護領の民意を一気に反独的なものへと陥れた。
ナチス親衛隊であるというだけで、嫌悪を向けられること。
「……――こんなところでなにをしているんだ?」
「あ、ベスト博士ー! 待っていたの!」
ホテルのエントランスのソファに座って隣の制服姿の中年男の肩にもたれかかるようにしてうつらうつらと船を漕いでいた少女は、隣に腰を掛けている男に揺り起こされて目を擦りながらベストを見上げた。
屈託のない笑顔で片手を振る。
白いハイウェストのスカートに、ちらちらと覗くドロワーズのレース。大きな丸い襟のベージュのブラウスは品が良くて、生成りの手編みのレースが襟の縁に施されていた。襟なしのジャケットにブラウスの丸い襟が愛らしくて目を引くが、ベストはちらりと視線を一瞬だけ天井に上げてから自分の腕時計の針を確認した。
時刻は夜の十時に近い。
ホテルに戻ったらさっさと寝なさいと言ったはずなのに、どうしてホテルのエントランスでヨーゼフ・マイジンガーの肩に寄りかかってうたた寝をしているのか。
「だって、ベスト博士、真面目だから執務室で軽食なんて取らないでしょ? きっと戻ってきてから食事をするからひとりじゃ寂しいと思って……」
「……君が一緒にデザートを食べたかっただけなのではないかね?」
思わずヴェルナー・ベストが突っ込むと、マリーは眠そうに笑ってからもう一度ごしごしと両手で目を擦った。
「そんなに目をこするんじゃない。ばい菌が入ったらどうするんだ」
これでは完全に父親の娘に対する心配ではないかと、ベストは内心で思うがそれは口に出さずに溜め息混じりにマイジンガーを見やった。
「マイジンガー」
「なにか?」
「寝るようにとマリーには言いつけてあったはずだが?」
ベストが大人の顔に戻る。
「それでも彼女が、閣下をお待ちになると言ったのですし、危険が排除されていればどこにいても問題ないのでは?」
マイジンガーは、ヴェルナー・ベストとの階級差に顔色を変えることもなく応じた。
「あくまでも部署長はマリーですからな」
「――……」
いかつい禿げ頭の親衛隊員の傍にいる少女に寄ってくる命知らずなどいるわけもない。ある意味では、マイジンガーの存在は確かにプラハ市民を牽制する材料にもなった。彼ら――プラハの人間たちはダリューゲやカール・フランクらの強硬措置に憤りながら、尚、ナチス親衛隊の隊員たちにおいそれと手を出すことを恐れていた。
恐怖と圧力。
それらは怒りと不満をも凌駕する。
それだけの権力を、ナチス親衛隊は有していたこと。
「しかし、今は勤務外だろう」
「親衛隊員が親衛隊の制服を身につけている以上、”勤務外”などというものは存在しません。中将閣下」
ナチス親衛隊というだけで、パルチザンたちによるテロリズムの対象とされる。マイジンガーが言う言葉はもっともだが、実のところナチス親衛隊員が、制服を着ていようが着ていまいが、地下組織の人間たちにとってどうでもいいことだった。
「ねー、ベスト博士」
そんなやりとりをベストとマイジンガーがしていると、チンと音をたてた小さなエレベーターからハインツ・ヨストが現れた。
「あぁ、マリー。やっとベスト中将が戻ってきたようだね」
わたしは早く寝なさいと言ったぞ、と付け加えるように言ってから、ヨストはベストの肩を軽くたたいた。
「お疲れだろう、夕食をとって休まなければ明日の仕事に差し支える」
「ベスト博士ー、ヨスト博士ー……」
生真面目な男たちの言葉をマリーの不満げな声が遮った。
「……ずっと待ってたのに」
いつまでたっても勝手に話している彼らにしびれを切らしてマリーが不平を鳴らす。そんな彼女の気配に気がついて視線をおろせば、すっかりふくれっ面になって眉をつり上げた少女が唇を尖らせて横を向いてしまった。
ベストがホテルに戻ったら、彼の夕食にかこつけて一緒にケーキを食べようなどと画策していたらしい子供らしい発想に、特別保安諜報部首席補佐官の親衛隊中将は声を上げて笑うと、怒って膨らんでいる少女をエスコートするようにその目線の前に手のひらを指しだした。
なににせよ、彼女にはかなわない。
「お待たせしたようで申し訳なく。姫君」
「……さっきね! 夕食の時に、シェフがケーキを焼いてくれるって言ってたの!」
一瞬で機嫌の直った彼女の言葉にベストは小首を傾げる。
確かにケーキが一時間で出てくるとは思えない。
そうすると、今の時刻から逆算するにマリーはすでにその計算をしていたに違いない。
「ホテルで一番のケーキ作りの腕前なんですって! だけどね、ひとりじゃ食べきれないから……」
「なるほど、それで肝心の食事はきちんとしたのかね?」
マリーは小食だ。
しかもかなりの偏食で、脂ぎったものを受け付けない上、菜食主義の傾向があるわけでもないのだろうが、時折、水と油があわないらしく体調を崩すことがままあった。
「……う」
手厳しいベストの追及にマリーは言葉を詰まらせた。
そこで素直に言葉に詰まるのではなく、「食べた」とでも言っておけばいいのに、どうやら彼女はたいそう嘘が苦手なようだ。
あばたもえくぼとはよく言ったもので、そうした嘘がつけないかわいらしいところも職場を離れれば可愛らしくも感じる。
「冗談だ」
いつものようにマリーに片腕を貸しながら隣を歩くベストは穏やかに笑って、肩越しに背後を振り返るとぱちりと指を鳴らした。
「ヨスト少将、マイジンガー大佐。行くぞ」
レストランの入り口にはウェイターと、コックが立っていた。
「あのね、四人分ある?」
マリーがコックに問いかける。
「もちろん」
「ありがとう!」
ぱっと青い瞳を輝かせた少女は、白い服を身につけたコックに抱きついて触れるだけのキスをした。
ベストの食事と共にマリーの前に運ばれた白いケーキは生クリームで覆われていて、一目でそれが特別なものだとわかった。
ベルリンでそれほど贅沢な食生活を送っているわけでもない彼女にとってみればまさによだれが出そうになるほど特別なものだ。
「食事代は経費で落とすから心配しなくていい、マリー」
「ベスト博士、大好き!」
こうして親衛隊の高級指導者ふたりと、中級指導者は幸せそうに生クリームのケーキをほおばっている少女を眺めながら他愛のない言葉を交わしながら食事と茶を楽しんだ。
ちなみに一見しただけでは世にも奇妙な集団だ。そのうえ、三人の男たちも一緒になってケーキをつついているわけだからさらに奇妙である。
結局、その日、マリーが自分の部屋に戻ったのは深夜近くだった。
「おやすみなさーい」
部屋の扉を閉じる前に、少女はそう言って手を振った。
「おやすみ」
それぞれに応じた男たちは、問題の少女の顔が見えなくなったことを確認してから表情を改めた。
「それで、マイジンガー。彼女はなんと?」
「大した事は話していません、中将」
ヴェルナー・ベストに問いかけられたヨーゼフ・マイジンガーはそう言ってから懐からタバコを取り出した。不遜な彼の態度にベストは眉尻をつり上げるが、廊下で不毛な論争をするつもりはなかったらしく、軽く手招くような動作をして首席補佐官を務める男は踵を返した。
「これはしがない警察官の憶測ですがね」
マイジンガーが静かに言葉を続けた。
「確かにあの子は体力もないし、あなた方ほど知性が優れているわけでもない。”それでも”あなた方にとって彼女の権限は重要だ。あなた方が自由に動き回れるのは彼女の力によるところでもあるのではありませんかね?」
特別保安諜報部が大きな判断を下す時に、それらの分析を行い法的根拠の土台を作り上げるのはいつだってベストとヨストの仕事だ。
ラインハルト・ハイドリヒとは違う意味で、オーバーワークを強いられる。
マイジンガーの冷静な言葉に、ベストは彼に背中を向けたままで黙り込んだ。
かつて、ヴェルナー・ベストが失った権力を取り戻すことができたのは誰のおかげだろう。いつでも無邪気に笑って、役にも立たない子供だと思う節もある。
国家保安本部の抱えていた優秀な人材は、ハイドリヒが気に入らないという理由だけで罷免されて役職を失った。共に仕事をしたヘルベルト・メールホルンも然り。そして、再びベストと共に仕事をすることになったハインツ・ヨスト然り。
彼らはドイツでもまれな頭脳の持ち主だ。
「……――わかっている」
彼女の存在が、組織と組織の連携を円滑にしている。
たとえば親衛隊とはウマの合わない突撃隊であったり、国防軍であったり。男たちが仕事をしやすい環境を無自覚なのか整えている。
「そういえば、最近、ある日本人と手紙のやりとりをしていますが、知っていますか?」
ふと思い出したようにマイジンガーが告げた。
「……日本人?」
「えぇ、元在リトアニア日本領事、杉原千畝氏です」
「確かゲシュタポが監視していたはずではなかったか?」
「はい」
マイジンガーの返事を受けて、ベストは黙り込んだ。
「本人曰く、文通だそうです」
「国家保安本部首脳部はどこまで内容を把握している?」
「そんなこと、たかが中間管理職のわたしが知るわけないでしょう」
素っ気ないマイジンガーに、ベストは腕を組み直した。
「……わかった」
「マリーのことですから、聞けば教えてくれると思いますよ」
なにせ自分にも話してくれたくらいですからね。
ベストを待っているときにホテルのエントランスでマリーは寝ぼけ眼でマイジンガーに告げた。
「最近ね、杉原さんが元気ないの」
「杉原?」
「日本……、大日本帝国の、リトアニアで領事やってた……」
聞けば大島浩と、スウェーデンの小野寺信とも「文通」しているらしい。
「今はこういう状況だからな、日本人で元気なのは大島くらいじゃないのか?」
「……難しいことよくわかんない」
うとうとと船を漕いでいるマリーとそんな話しをしていたらベストがホテルに戻ってきたとのことだった。




