10 家畜
リスト・ヘイッキ・リュティ――。
人口三五〇万人程度の小国、フィンランド。その歴史は浅く、しかし決して彼らを侮るべきではないとヴァルター・シェレンベルクは考える。
「どうも、コルヘル博士」
「やぁ、君か」
「相変わらずヒムラー長官閣下からは親衛隊入りの打診が忙しないとお聞きしておりますが」
「うむ……」
静かに入室してきた若い国外諜報局長の青年に、机の上から視線をあげた統計学者のリヒャルト・コルヘルはずり落ちる眼鏡を人差し指の先で押し上げながら、大きな溜め息をつく。
「お断りは再三再四しているが、なかなかものわかりが悪いな」
「なにぶんヒムラー長官のことですから……、ご不快にさせているようで申し訳ありません」
社交辞令のように言ったシェレンベルクに対して、フンと鼻を鳴らしたコルヘルは、それから手にしていたペンにキャップをすると背筋を伸ばしてから椅子に座り直して執務机の前で物珍しそうに彼の書類を見つめている国外諜報局長を見つめ直した。
「それで、こんな数字と格闘しているようなところに、優秀な君がどんな用事かね?」
ナチス親衛隊への入隊の誘いを頑として拒絶し続けているリヒャルト・コルヘル博士から、率直に「何の用だ」と問いかけられて、シェレンベルクは口元に穏やかな笑みをたたえた。
コルヘルは用心深いタチだから、彼を警戒させてはならない。恩と信用はあちこちに振りまいておくに限る。
上流階級の社交界から政財界、庶民階層のさらに下に根を張る地下。ありとあらゆる階層に渡って張り巡らされた情報網こそが、シェレンベルクの目であり手足。
帝国を築き、玉座に座る力を自ら持ちながら、彼はひたすらに感情を持たぬ機械の歯車たらんとしている。
リヒャルト・コルヘルは自分よりも若いヴァルター・シェレンベルクを”そう”評価した。そしてそんな人柄のシェレンベルクだからこそあのラインハルト・ハイドリヒの片腕と呼ばれていたこと。
――若く天才的で誰よりも冷徹で、非人間的な。
「博士にとっては専門外の話しとなるかもしれませんが……」
そう言いながらシェレンベルクは一冊のファイルをコルヘルに差しだした。
これ以上、ナチス親衛隊との関係性が深みにはまるのはまっぴらご免だと思っているリヒャルト・コルヘルは、差しだされたファイルを一瞥してからぴくりと眉尻をつり上げた。シェレンベルクの穏やかな瞳と、ファイルを交互に見やる。
「こちらをご覧くだされば……」
「”それ”はヒムラー長官閣下の差し金かなにかか?」
自分を親衛隊に引き入れるために、ヒムラーは親衛隊の階級を用意するとまで言っていた。はっきり言ってそんなものにコルヘルは興味も好奇心も示すことはない。
「とんでもない」
シェレンベルクはコルヘルの言葉を即座に否定して、やや大袈裟に首をすくめてみせる。
「わたし個人が、個人的に業務に必要な分析を行うための情報収拾の一環です」
悪びれもせずに青年はそう告げる。
「ふん」
鼻を鳴らして差しだされたファイルを受け取ったコルヘルは、素早くざっと視線を走らせてから、いたく馬鹿馬鹿しそうに眉間を寄せた。
「少なくとも”我が国の政府首脳部”の人間よりは、まともな政治家がそろっていそうだ」
対して面白くもなさそうにリヒャルト・コルヘルはそう告げてから、自分で書いた書類のインクが渇いたことを確認してから、その上で両手の指を組み合わせた。
「”それで”、仮にフィンランド政府が我が国の外相を陥れようと企んでいたことが真実として、だったら君は何をどうするのだ? ”シェレンベルク博士”」
皮肉混じりのコルヘルの言葉に、シェレンベルクは左右にかぶりを振って見せる。
「わたしには決定権などありません」
政治家ではなく、官僚だ。
「ふむ」
太い指でもう一度ファイルをめくってから、彼はじっと考え込む素振りを見せるとかすかに目を細めてから口を開いた。
「まぁ、良かろう。決定権がないのはわたしも同じだからな」
一介の学者でしかないコルヘルと、一介の官僚でしかないシェレンベルク。どちらも共に国家権力の下で生きていることには変わりがない。
「誰がまとめたのかは知らんが、この資料にまとめられていることが真実だとすればフィンランド政府は明らかに我が国の外相が間抜けであることを良いことに、ドイツをたばかろうとしていたことは明白なのだろうな」
特に感情的になるわけでもないコルヘルが、やはり面白くもなさそうに淡々と告げると、シェレンベルクは興味深そうな眼差しを彼に返してからひとつ頷いた。
「博士もやはりそのように思われますか」
「うむ、しかし、君が確信めいたものを持っているということは、それなりに独自に調査もしてのことなのだろうが、わたしの意見はともかく君はどう思っているのだね?」
そこまで言ってから、コルヘルは「しまった」とでも言いたげに不機嫌な顔になると、舌打ちをしてからシェレンベルクの発言を制止するように軽く手を挙げた。
「いや、君の意見はどうでもいい。わたしには関係ないことだし、わたしの業務にも関係はない」
「……――ご意見、感謝します」
シェレンベルクはぺこりと頭を下げると、余計なことは言わずにコルヘルの前から退室した。
リヒャルト・コルヘルは神経質で頑固だ。
おそらく、彼からはこれ以上のことは引き出せないだろう。なにやら彼はひどくナチス親衛隊に対して警戒心を抱いているし、今回のハインリヒ・ヒムラーからの依頼についてもようよう協力の要請を受け付けたらしいと聞く。
だから今は彼に深入りすべきではない。
廊下に出たシェレンベルクはカッとブーツの踵を高く鳴らして、自分の執務室へと戻りながら思考を巡らせた。
とりあえず、東部での戦争は一段落ついたわけだし、ドイツとソビエト連邦の戦況の悪化に伴って諸同盟国が各々単独講和の道を模索していたことについては、追及すべき時でもなければ、外交上のカードを切るべき時でもない。
今のところは、フィンランドもかろうじてドイツの影響圏の下にとどまっていた。
ヨーロッパの戦線は、長い冬の膠着期を通じて春から夏へと再始動するだろう。戦線の動きのない今こそが、国内を立て直し国外における諜報活動を活発化させる時期だと青年は睨む。
諜報活動のための種を蒔く。
それが重要なことだった。
「ベルン入りしたイギリスの判事の件について、ご報告です」
執務室へと戻ったシェレンベルクは部下のひとりからそう言われて顔を上げた。
――イギリスの判事。
ヨーロッパ社会というものが、公明正大に人道主義的なものをあげつらって戦争行為を行っていることは笑止千万だが、それにしたところでドイツに非難の声を上げながらもイギリスやフランス、アメリカ合衆国やソビエト連邦といった国々の有色人種に対する風当たりは特に厳しい。
無論、ドイツもそうしたヨーロッパ社会の一端を担っているが、シェレンベルクなどからしてみればそうした国々がドイツの政策に異論を唱える資格などあるわけがない。
同盟国の大日本帝国は、アジアのためのアジア、という「アジア解放」を唱えて長大な戦線を戦い続けているが、状況はおそらく冬がないヨーロッパ戦線よりも厳しいところにあるだろう。
「イギリスの判事……、というと例のあれか。インド人の」
「はい、正確にはベンガル人ということになります。インド政府、独立派の法律家ガーンディーの弟子だそうです」
非暴力と不服従を唱え、インド独立のために日夜イギリス政府と戦い続ける。
法律家であり、宗教家であり、政治的指導者でもある。
「世界は不穏に満ちているものだ」
部下の報告を聞きながらシェレンベルクはそう評した。
インド独立派の中核的存在のモーハンダース・カラムチャンド・ガーンディー。人々からは敬愛の念から父親と呼ばれる。
ガーンディーの行ったイギリス政府に対する抗議運動のひとつ、一九三〇年に行われた「塩の行進」は記憶に新しい。
最初は七八人からはじまった行進はやがてその数は目的地であるダンディー海岸に到着するまでの二三日で数千に膨れあがった。
堅い信念の元に戦うガーンディーを、シェレンベルクは立派な人物だと思う。なによりもガーンディーは、一般庶民ではなく、法律家であるからこそ世界との戦い方を熟知している。
いかにアジア・アフリカ地域が搾取されているのか。それを世界に訴え続ける。
「ラダビノド・パル……。その男がどうした?」
イギリスの手先、と言うだけなら簡単だが、インド独立派のガーンディーの弟子であり自らも穏健派ながら独立派であるという男ならば話しは別だ。
「どうやらいろいろとかぎ回っているようです」
「……なるほど」
インドの独立派でありながら、イギリス政府に連なる現インド政府のエリート判事。年齢はシェレンベルクよりもずっと上だが優秀な男であるらしいということは知っていた。
「インドの人間だと、長々とはベルンにはいないだろうな」
「おそらく」
そういえば、アメリカ合衆国の国内諜報部の長官が極秘でヨーロッパを訪ねたらしいという情報も耳にした。
つまるところ、アメリカの国外諜報部門と国内諜報部門がタッグを組んでなにかやろうとしているらしいが、そのやろうとしているだろうことが見えてこない。
数多くの情報がシェレンベルクの明晰な頭脳を混乱させた。
「報告ご苦労」
報告書を置いて出て行った部下を見送ってから、ヴァルター・シェレンベルクは腕組みをするとむっつりと考え込んだ。
やらなければならないことは山ほどある。
しかし、残念ながらシェレンベルクの体はひとつしかない。
*
「申し訳ないが、そちらのやり方にはとても賛同できませんな」
見事な英国英語でラダビノド・パルは、アメリカ合衆国の戦略情報局長官アレン・ダレスに対してそう言った。
「あなた方がやっていることは、テロと変わらないではないか」
批難するような口調になるパルの言葉を受けて、ダレスは静かに笑った。
「えぇ、テロと何ら変わりませんが。”それがなにか”?」
厚かましいとはこのこと。
さも当然と言った顔で応じたダレスは手元で鳴った電話に、「失礼」と言いながら受話器を上げた。
「そうか、”戻った”か。それは幸いだった」
それだけ言ってから「来客中だ」と電話を切って、穏やかに、しかしどこか凶悪な影すら残してアレン・ダレスは、タバコをパルに差しだした。
「どうです? 一本」
「いや、結構」
即答でタバコの誘いを拒絶したパルは、ダレスの表情の変化に心穏やかでいられないまま言葉を探した。
「ドイツに潜入していた工作員が戻りましてね」
なんでもないことのように言うとダレスは足を組み直した。
「現在、ドイツの治安維持部門の再編の情報をこちらでも裏付けを取っています。なにやら、一部、左遷されていた連中がベルリンに集められていると聞いておりますので」
情報を聞く限り侮りがたい人間たちがベルリンに招集されているらしいという噂。それにまつわる証拠写真。
確かに自由フランスの諜報員――ジャネットが見せた写真に写っていた男はナチス親衛隊の法律家ヴェルナー・ベストだった。そして、ベストと共に写っていた女性の存在。
性別はふたつしかなく、男と女が写っていることはそれほど変わった事ではない。しかし、結婚式などの行事でもなく、また、社交界のパーティーでもなく制服の男たちに囲まれるようにして女性が写っていたことは気にかかる。
そのジャネットはドイツに潜入して、ストックホルムでの任務を強行し、命からがらスイスまで戻ってきた。
「ミスター、わたしはこれでもアメリカの国外諜報部門の長官ですので、ドイツと戦争をしている以上、手段を選んではいられないのです」
悠然と告げたダレスに、嫌悪感を隠しきれずにパルがしかめ面をした。
「我々は、ドイツ人と茶飲み話をしているわけではありません。どんな手段を使ってでも、連中に勝たなければならんのです。その重要性を、イギリスの法律家であられるミスター・パルならご理解していらっしゃるでしょう」
「しかし、戦後を迎えて事件を追及されたらどうするのです。あなたの責任の追及は免れない」
苦々しげなパルの言葉は、なんとか自分のインド人という立場を殺して発言しているものだとダレスには手に取るようにわかった。これが白人至上主義的なところもある国内諜報部門のジョン・エドガー・フーヴァーであれば、ラダビノド・パルと顔を合わせることも嫌悪したに違いない。
「ならば、戦争に”必ず”勝てば良いだけのことです」
敗者に権利は存在しない。
それをアレン・ダレスもラダビノド・パルも知っている。
そして一度権利を失ったが最後、それを取り戻すためには大変な労力を必要とすることも。
その苦しみを、パルの祖国インドは味わっているのだ。
「……――それは」
ダレスの言葉に、パルの声が掠れた。
思い上がりだ……――。
続く言葉が言葉にならない。
イギリス、スペイン、フランス、アメリカ、ソビエト連邦、オランダ。
多くの植民地を持つ白人国家の居丈高な思い上がり。
パルは奥歯を噛みしめた。
――我々に同等の人間としての権利は認められないのか……っ!




