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神々の黄昏 ― Vaterland ―  作者: sakura
XIX 審判
251/410

9 交錯する顛末

「白い将軍、と呼ばれたフィンランド将校をご存じですか?」

 国家保安本部長官の執務室を訪れたヴァルター・シェレンベルクが、エルンスト・カルテンブルンナーにそう問いかけた。

 ――白い将軍。

 かつて、大日本帝国とロシアでの戦いに身を投じ、その後に起こったフィンランド内戦では、白衛軍を率いて戦った将軍だ。

 しがない法律家でしかないカルテンブルンナーも、さすがにその程度の一般常識はわきまえている。

「白い将軍……」

 繰り返して、カルテンブルンナーが視線を下げた。

「フィンランド国防軍総司令官のカール・グスタフ・エミール・マンネルヘイム元帥だな」

「そうです」

 シェレンベルクの言葉使いはいつもそうだが確信に満ちていてよどみがない。彼はナチス親衛隊知識人の中でも聡明で頭の回転が誰よりも速い。かつて今は亡きラインハルト・ハイドリヒの片腕として働き、今は国外諜報局を率いる大きな権力を握る青年。

 人当たりが良く、一見しただけでは好青年にも見えるところが親衛隊全国指導者ハインリヒ・ヒムラーの高評価を得ている所以(ゆえん)なのだろう。

「外務省の捜査はゲシュタポがやっているが、なにか気がかりな点でもあるのか?」

「別にマンネルヘイム元帥に特にそれらしいところはありません。彼は”立派な軍人”です」

 少数精鋭のフィンランド国防軍を束ねる辣腕の将軍。

 ドイツとはあらゆる意味で大きく異なる。もしくは、たったひとりの元帥のもとに国民、及び小規模とは言え陸海空の三軍がひとつの意志のもとに動けると言うことはそれだけで、全体の作戦行動にも影響してくるところだ。そして、さらにそれらを把握、指揮するだけの高い能力がマンネルヘイムは持っているということに他ならない。

 そんな限定的なところでさえ、ドイツとフィンランドを比較しても大きな差異があった。

「彼らは、我が国の”重要な”同盟国だ。冷遇するわけにもいくまい」

 ヒトラーの感情を察してカルテンブルンナーが短くそう告げると、シェレンベルクは長い睫毛をまたたかせてからじっと目の前の執務机についている男を見つめた。

「マンネルヘイム元帥閣下は、大変見事な戦略家であり戦術家です。人心をまとめるすべにも長けている。なによりも、政治家たちに効果的、効率的な助言もすることができるのは、年長者として多くの事件を目の当たりにしてきたからでしょう」

 意味深長なシェレンベルクの言葉に、カルテンブルンナーは執務机の端に置かれたマリーの写真を一瞥してから、青年の言葉の続きを待った。

「フィンランド共和国は、見事なものです。彼らとは今後も”これまでと同じように”つきあいを続けていくべきと、本官は考えます」

「なるほど、それで、貴官が判断した理由とは?」

「……我が国の外務大臣閣下は、彼らに踊らされました。しかし、それを突きつけて彼らの逃げ場を奪うのは戦友を敵側へ追いやる事態になりかねません。そう考えれば、責任を追及すべきはフィンランド共和国ではありません」

 四百万人にも満たないフィンランド共和国の知能を奪うことについてシェレンベルクは賛成ではなかった。責任を問われるとすれば、一億人近い人間を抱えるドイツならばいくらでも「代わり」がきく。

「マンネルヘイムが、シャンパン商人を手の内で踊らせていた、と?」

「結果的にはそうなります」

「ふむ」

 フィンランドの逃げ場を奪ってはならない。

 彼らに余力を残すべきだと言外に告げるヴァルター・シェレンベルクに、エルンスト・カルテンブルンナーは考え込んだ。

「ご存じかと思いますが、フィンランドの異民族排斥政策が進んでおりません。これについては、”例の整体師”が独自に動いている様子ですが、これは放置してもよろしいかと」

 今のところ、国家保安本部が注視しなければならないことはそんなことではない。

「我らがハイニーも、自分が最も心を許しているはずの相手が裏切りをしていたと知ったらどうするのだろうな」

 そんな人間すら強制収容所に放り込むだろうか。

 カルテンブルンナーの吐き捨てるような言葉にシェレンベルクは応えるわけでもなく首を傾げると、国家保安本部長官はさらに言葉を続けた。

「つまり、フィンランド側の工作活動の記録が出てくるかもしれないが、それは見て見ぬふりをしろと?」

「はい。たった三五〇万人程度の人口しか抱えていないフィンランドの責任を追及することは大国のするべきことではありません。なによりも、彼らに寛容にしておけば諸外国へのポーズにもなります」

 英仏連合国のプロパガンダではドイツは悪辣極まりない政策を実施していると繰り返されている。戦時のプロパガンダを覆すことは容易ではない。だからこそ、中立国や同盟国の存在は大切にしなければならないのだ。

「いずれにしたところで、外務大臣閣下の失態は失態です。我が国の立場を考えれば、誰が責任を取らなければならないのかは明白です」

 シェレンベルクの言葉を聞きながら腕を組んで考え込んだカルテンブルンナーは、ややしてから長身に相応しい大きな手のひらで軽くデスクの面を叩いた。

「シェレンベルク上級大佐。貴官の意見は考慮しよう」

「ありがとうございます」

 それ以上のやりとりをせずに、踵を返したシェレンベルクはカルテンブルンナーの執務室を出た。

 廊下に出て、そっと扉を閉めてから、青年は視線を滑らせる。

 その部屋はかつてラインハルト・ハイドリヒの執務室として使われていたものだ。

 多くの機密事項が眠っていて、ハイドリヒの私的な文書もいくつか補完されていた。しかし、そんなハイドリヒの私物は彼の弟であるハインツ・ハイドリヒが遺品として持ち帰ったが、それはそれで大きな問題が生まれたのではないかとも懸念する。

 内容までは知らないが、おそらく生やさしいものではなかったはずだ。

 ハインツ・ジークフリート・ハイドリヒ――ラインハルト・オイゲン・トリスタンの一歳(ひとつ)下の弟で、シェレンベルク自身よりは五歳年上にあたる。

「ラインハルト・トリスタン・オイゲン・ハイドリヒ……、か」

 口の中だけでつぶやいてから、シェレンベルクはかすかに笑った。

 ラインハルト・ハイドリヒは確かに圧倒的なカリスマに溢れていたが、彼の実の弟だからといってそうした資質を持っているわけでもない。シェレンベルクの知るところ、ラインハルト・ハイドリヒ以外の彼の血縁者たちは、ひどく凡庸で、良くも悪くも「人間的」だった。

 ラインハルト・ハイドリヒの遺品を持ち帰ろうとしたハインツ・ハイドリヒが、それ以来、国家保安本部のもとに顔を出すこともしていない。もしも、彼が兄のラインハルトをそれまで通り若くして高い地位に上り詰めた素晴らしい人物だと思っていたのならば、彼の部下たちともそれなりの親交を持っただろう。

 そうではなく、それっきり音信不通であるということは、そういうことだ。

 とりとめもないことを考えながら、シェレンベルクは自分の執務室へと足を向ける。外務省の摘発はただでさえ多忙な彼にさらに多くの仕事を突きつける羽目になったが、確かに外務省の書類ではゲシュタポだけでは手に余るだろう。

「……滅相もない」

 シェレンベルクは自分の執務机につくと、外線に通じる電話の受話器に対してよく響く声でそう告げた。

「別に博士にゲシュタポのまねごとをしていただこうなどとは微塵も思っておりません」

 諜報部員や、ゲシュタポの真似事など素人がするだけ時間の無駄だ。

「博士にはそれまで通り、ウラン・クラブの一員として名前を連ねていただいて結構です。それに、国家保安本部の後ろ盾があったほうが、博士も”なにかと”動きやすいのではないかとも思いますが……」

 ナチス親衛隊国家保安本部の権力は飾りではない。

「博士の身の安全と、国境の移動について、我が国家保安本部で完璧な安全を保障いたしますし、なによりも博士につけさせていただく護衛はゲシュタポではありません」

 自分の直接の部下たちだ。

 そう告げたシェレンベルクに、電話の向こうで化学者のオットー・ハーンは緊張感を隠せないどもりがちの声で「わかった」と言った。

 ――わたしが、向こうでなにをするのも自由で、それは君の感知下にはあるがそれ以上ではないと理解して構わんのだね?

「はい、そういうことになります。博士は、冬のスカンジナビア半島に休暇のため小旅行に行っていただこうかと」

 後ろめたさも感じさせないシェレンベルクの物言いに、オットー・ハーンは彼の意図が読み切れずに沈黙した。

 冬のスカンジナビア半島の小旅行に行かれてはどうか、というヴァルター・シェレンベルクの突然の提案に、オットー・ハーンが言葉を失ってもやむを得ないだろう。

「博士が個人的に動いてくださると、わたしも大変助かります」

 シェレンベルクの言葉に一言二言返事をしたハーンに「えぇ、お願いします」と告げてから電話を切った。

 同時に、扉のノックの音が響いて秘書を務める女が顔を出す。

「武装親衛隊のオットー・スコルツェニー中尉がお見えです」

「通せ」

 シェレンベルクのスケジュールは分単位で詰まっている。間で事務的な仕事をこなしながら、会議や情報収拾などの仕事をこなす。

「失礼します、上級大佐殿(オーバーヒューラー)

「どうした?」

 プリンツ・アルブレヒト・シュトラッセのオフィスに出勤してすぐに、特殊部隊の隊長を務めるオットー・スコルツェニーからストックホルムでのテロリズムに対する捜査報告があると連絡を受けた。

 多忙な予定を調整してなんとか時間を作った合間を訪れたスコルツェニーからは、大胆ながら几帳面な性格を伺わせる。

「どうした、緊急の案件か?」

「先日、ストックホルムでハイドリヒ少佐殿が襲われた件です」

 鋭い眼差しのシェレンベルクにスコルツェニーはずばりと核心へ切り込んだ。彼の仕事はストックホルムでテロリストたちを確保した時点で終わっている。しかし、その後部隊を一週間ほど投入して尚、彼らを襲った一部の犯人たちは確保できずに今に至っている。

「おそらく連合国のスパイだとは思います」

「……主犯が見つからない、と?」

 一週間の捜索をしても、主犯格が逮捕できないことにシェレンベルクは早々と捜索を打ち切った。そもそも最初から彼は捜索の継続に乗り気ではない。

「まぁ、そんなところだろうな」

 椅子に深く背中を預けながらシェレンベルクが相づちを打つと、スコルツェニーは少しばかり考え込むような表情を見せてからまばたきをした。

「か弱い小さな女の子が、ドイツの官憲にいたとしてもそれは連合国にとって大きな問題になるわけでもない。”だから”放っておけ」

「……上級大佐殿。おそらく、連中は少佐殿の情報の正否の確認のために事件を起こしたのではなかろうかと思います」

 彼らの本命――。

 数人の工作員だけなんとかかろうじて脱出できればいい。

 そのために痛手を伴う大規模な作戦を実行した。

「そうだろうな」

 スコルツェニーに頷きながら、シェレンベルクは冷ややかに笑う。自分がオランダのフェンローでそうしたように、彼らも諜報部員として情報を握る人間の消去、あるいは確保を狙ってくるだろう。

 権力者とは、時に個人の感情を差し置いて大局を動かそうとする。

 そして、そのためのほころびを誰もが狙っているのだ。マリーという少女が、そうしたほころびであるのかはどうかはともかく、いずれにしろ彼女の存在が敵の手によって突き止められる日は遠くはない。

 ならば、それをどうやって自分たちの手によってコントロールするかということが大切なのだ。

 冷たい言い方をすれば、どこまでも「想定の範囲内」である。

「そういえば、モスクワのほうはどうなっている?」

「そちらのほうでしたら、ランゲ少佐とエーアリンガー中佐の安全は確保いたしました。これは噂ですが、現在、旧スターリン政権下の内務人民委員部(NKVD)の政治将校が極秘に活動していると思われます」

「……――スターリン、か」

 モスクワ入りしているルドルフ・ランゲとエーリッヒ・エーアリンガーがテロリズムの危険にさらされる可能性が存在した。両法学博士の安全の確保のためにシェレンベルクは、スコルツェニーに命じて護衛部隊を送り込んでいたのが十月。

 シェレンベルクの懸念は現実的なものとなった。

「ところで、スコルツェニー中尉」

「はっ」

「面倒ついでで悪いが、一週間後に化学者の先生がスカンジナビア半島のほうに旅行に行くのだが、その護衛部隊の編成を任せる」

「……――承知しました」

 有無を言わせないシェレンベルクの命令に、オットー・スコルツェニーはあからさまに理不尽そうな顔をするが、結局口で文句を告げることもなく了解すると踵を返した。

「報告は、詳細に頼む」

承知しました(ヤヴォール)上級大佐殿(オーバーヒューラー)

 自分のところに次々と舞い込んでくる仕事を逐一こなしながら、シェレンベルクは机の一番上の引き出しを静かに引いた。

 ルーン文字で「SS」と印刷された報告書の公式なファイル。

 それはマリーから受け取ったものだ。

 ――フィンランド大統領に関する報告。

 神経質な走り書きは、シェレンベルクのよく知る男を想起させる。けれども、彼を思い起こさせるようなそれも彼女の個性だと思えばそれはそれだ。

 筆跡が似ているのもたまたまだろう。

 悪魔のような、とも言われた男とマリーはよく似た字を書く。

「リュティとマンネルヘイム、か……」

 ぽつりとシェレンベルクは独白した。

「ねぇ、シェレンベルク」

 マリーの声がシェレンベルクの耳の中に蘇った。

「ハーン博士の大切な、マイトナー博士を返してあげましょうよ?」

「どういう意味だ?」

 マイトナーのアーリア化を指してそう言っているのかと思ったが、どうやらそうでもなかったらしい。

「だって、マイトナー博士は個人的なアーリア化なんて拒絶するに決まっているわ。だから、そういうことじゃなくて、ハーン博士にマイトナー博士を返してあげましょう? ドイツの未来にとって邪魔なものは……」

 ”消してしまえ”。

 ノルウェー、スウェーデン、フィンランド、デンマーク。

 そしてバルト三国やハンガリー、ブルガリアなどの同盟国。

 「鍵」は北欧、東欧にこそある。

「ひとつひとつは小さくて頼りない力でも、集まって力を”あわせれば”、敵も打ち破れるかもしれないわ」

 日差しの暖かなプリンツ・アルブレヒト・シュトラッセのバルコニーでコーヒーを楽しみながら――マリーは紅茶を――、少女はシェレンベルクにそう告げた。

 ”力を合わせれば”。

 彼女の言葉に明確な言葉で返すことはしなかったものの、シェレンベルクも国外の政治家たちのほうが国内のそれよりも仕えるかも知れないとは踏んでいた。実際のところ、問題としてはシェレンベルクに対して大きな権力らしい権力がないことで、政府首脳部に介入する力など持ってはいなかった。

 しかし状況は改善しつつある。

 さすがにおおっぴらに動くことはできないが、ゲーリングとリッベントロップ、ゲッベルスを沈黙させたことで以前とは比較にならないほど行動の自由を得ることができた。

「力を合わせれば、か」

 考え込んで、シェレンベルクはそうして引き出しを押して戻してから右手で頬杖をつくとじっと片目を細めた。

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