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神々の黄昏 ― Vaterland ―  作者: sakura
XIX 審判
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8 錯綜する思考

 自分のあずかり知らぬところで、自分とは縁もゆかりもない全くの他人が死んでいくのだとしても、人は誰しも胸の痛みなど感じはしないものだ。

 自分の知らない場所――自分の知らない世界で、自分の知らない人間が、知らぬうちに死んでいくのだとしても。それは、存在しないことと同じこと。

 いったい何が自分に関係あるというのだろう。

 人の生命(いのち)は大切だ、などと説いてみたところで。

 支配者たちは異口同音に繰り返す。

 全ては「奇麗事」だ。

「君は、フランク中将の決断をどう思う?」

「どうって、どういうことですか?」

 ユンカースJu52――通称、タンテ・ユー(ユーおばさん)

 BMWの空冷エンジンの音を響かせる少々――いやかなり古くさくなりつつある旅客機の中で、ヴェルナー・ベストが問いかける。

 人間というものは得てして勝手なものだから、いざ自分の身に災難が降りかからなければ関心すら持たない者が数多い。そして、いざ我が身に降りかかると声高に自分の権利を主張しはじめる。

 権利が奪われなければ理解できない愚か者たち。

 自分の世界の外。

 それは認識していなければ、隣町も地球の裏側も同じことだ。

「……つまり、例の作戦についてのことだ」

 例の作戦……。

 つい数ヶ月ほど前。ベーメン・メーレン保護領のふたつの村が、文字通り地図の上から消し飛んだ。

 それについてどう思うか。

 口に出して問いかけるのもおぞましい。ベストですらそう思うというのに、マリーは「あぁ」といつもの調子で相づちをうった。

「リディツェ村とレジャーキ村の殲滅作戦のことですか? ベスト博士」

 驚くほどあっさりと彼女は言う。

「別に”どうだって”いいんですけど、中途半端な作戦は無駄な恨みを残すだけだと思いますけど」

 ――別にどうだっていい。

 素っ気ないほど冷徹な彼女の言葉。

 しかし、当人はそれほど冷たい言葉を告げているつもりはなさそうだ。ただ、淡々と現在の状況を把握しているだけのようにも見えた。

「フランク中将は、本当にあれが最善の策だと思っていたのかしら?」

 隣で腕を組んでうたた寝をしていたハインツ・ヨストの肩によりかかりながら少女がそう言うと、ヨストはちらと睫毛を上げてから自分に寄りかかっている少女を流し見た。

「ヨスト博士はどう思います?」

「聞いていなかった」

「……だからー」

 マリーが機内で眠っていたらしいヨストの膝に手をついて身を乗り出すようにしながら、口を開くと、特別保安諜報部の次席補佐官の法学博士は軽く右手を挙げてから彼女の言葉を制した。

 腐っても鯛、というべきか。

 ヨストはいつでもマリーに甘い顔をしているようにも見えるが、それは首席補佐官を務めるヴェルナー・ベストがヨストなどよりも遙かに頭の固い法の門番であるためだ。

「説明しなくてもいい、なんとなくは聞こえている」

 厳しいヨストの眼差しに、ベストは自分の椅子に座り直してから顎をしゃくって彼の言葉を促した。

「はーい……」

 言わなくてもいい、と突っぱねられてマリーは姿勢を正すと揃えた両膝の上に手のひらをおいた。そうして、行儀良くハインツ・ヨストの言葉を待っている。

 こうした素直なところが、ベストもヨストもマリーを好ましいと思うところだった。

「わたしは余りこの手の話しは好きではない」

 最初からそう前置きした彼は顔色を曇らせて視線を落とした。

 東部戦線に派遣された行動部隊アインザッツグルッペンにおける心の傷が彼を苦しめる。だから、同じような光景に映るそうした虐殺劇は彼の思うところではなかった。

「君はわたしをひどい人間だと思うかもしれないが、わたしは、わたしの目の前で人が死ななければそれで良いと考えるところもあった。それが、わたしの職務だったからな。……自分に課せられた任務を理解していたつもりだった。それに、わたしが命令された職務は、わたしだけに命令されたものでもない。シュトレッケンバッハ中将、オーレンドルフ中将、ネーベ中将。そうした同僚たちが、やはりわたしと同じように任務に当たってきたのだ」

 わたしは……――。

 続けてヨストは言葉を震わせる。

「君にそんな現場をみてもらいたくないと思っている」

 人間とは自分勝手なものだから。

「ハイドリヒ前国家保安本部長官の死に際して、ふたつの村がベーメン・メーレン保護領から消えたことも報告は受けている。それが本当に、正しい政策であったのかもわたしにはわからないし、フランク中将にも考えるところがあったのではないかとも思う」

 ナチス親衛隊の一員としての思考と、一個人としての感情と。

 法律をつかさどる者としての理性がせめぎ合う。

「ヨスト少将」

 迷いを見せるようなハインツ・ヨストに、ヴェルナー・ベストの咎めるような声が飛んだ。しかし、部署長のマリーからの制止の言葉がないから、ヨストはさらに続けた。

 自分が言いたいのは、人として間違っていることであるのか、それとも人道的、あるいは倫理的に間違っているのか。

 そんなことではない。

 一度は出世コースから外されたと、彼自身のみならず、彼の同僚らも思っていたというのに。こうして、今も彼は国家保安本部の部署に階級もそのままにしてとどまっていられるのは誰のおかげか。

「わたしは、君を補佐していて、時折わからなくなるのだ」

 なにが正しくて、何が間違っているのか。

「わからなくなることも多いが、それでも、わたしは君に……。君の考えについていこうと思う。君は、考えられないほど不思議な女の子だから、なにか思惑があるのだろうが、君も言うだろう」

 マリーはいつも言うのだ。

「”わたし”はドイツの敵じゃないわ」

「……わたしだってあんな凄惨な現場はもう二度と見たくない。あんな殺戮はしたくない。それでも、君がドイツのために必要と思うのならば、わたしは君を信じよう」

 アインザッツグルッペンの任務は、ヨストの心に深い傷を刻み込んだ。

 誰も彼の「言い訳」など聞くことはないだろうということはわかっていた。人を殺す覚悟すらない軟弱な知識人など、ラインハルト・ハイドリヒは必要としていなかった。そして、ハインツ・ヨストはハイドリヒの期待に正しく応えることができなかった。

「わたしは、ベスト中将や、メールホルン上級大佐とは違う……」

 ただの負け犬だ。

 溜め息のように嘆きの声を上げたヨストにマリーは神妙な面持ちのまま、じっと青い瞳で凝視する。

「それでも、君はそんな負け犬のわたしを君は必要としてくれる。わたしにはそれで充分なのだ」

 ヴェルナー・ベストや、ヘルベルト・メールホルンのようにラインハルト・ハイドリヒを相手に真っ向から戦う事すらできなかった負け犬。

 それが自分だ。

 そう告白するハインツ・ヨストに、マリーは朗らかに笑みをたたえた。

「別に気にしなくていいじゃないですか。そんなこと」

 そっと少女が片手を伸ばす。そうして片方の手でベストの膝に触れ、もう片方の手でヨストの膝に触れる。マリーの低い体温に、動揺したようなヨストがびくりと肩を震わせた。

「わたしだってできないこといっぱいありますし、ベスト博士にはいつも怒られるし。わたしはベスト博士よりも優しいヨスト博士が大好きだし」

「別にわたしは君を理不尽に怒っているわけではないと思うがね?」

 マリーの言葉にベストが横槍をいれるが、そんなことを少女は気にしない。

「わたしは、”それでも”国家保安本部に帰って来れたヨスト博士は強い人だと思いますよ?」

 マリーが笑う。

 そんな彼女の言葉にギョッとしたようにハインツ・ヨストは顔を青くする。

 彼女に優しく接しながら、彼女にほほえみかけながら、ヨストは恐れを抱いていたのだ。

「おまえなどもう国家保安本部――ナチス親衛隊に必要ない人間だから、どこへなりとも行ってしまえばいい」

 そう宣告されることを恐れていた。

 国家保安本部に再び召喚されてから、まるで釣り針のように引っかかり続けてきた棘。それはラインハルト・ハイドリヒという男の影だったのかも知れない。

 しがない中間管理職でしかないヨストには抗うことのできない巨大な力。

 その存在に彼は怯えていた。

「だから、ヨスト博士。ヨスト博士ももっとベスト博士みたいにしかめっ面してていいんですよ」

 マリーの笑顔の言葉。

 それは許しの言葉だ。

「……――わたしは、”君のそば”にいても?」

 必要のない男だ。

 負け犬……――。

 ラインハルト・ハイドリヒという男の影響力がなければなにもできぬ。

 そうした評価を恐れていた。

「当たり前じゃないですか。わたしには、ヨスト博士が必要なんですから」

 屈託もなくマリーが告げる。

 あなたが誰よりも必要だ、と。

 ニコニコと馬鹿みたいに笑っているマリーの笑顔に、ヨストはわずかに眉をひそめてから唇を噛みしめた。危うく、滲んだ涙がこぼれかけて、彼は思わず手の甲で目元を乱暴に拭うと横を向いた。

 彼が押し殺し続けてきた人らしい弱い感情。

 死体の山を見て、平常心を保てなかった彼の心にマリーは手を差し伸べた。それは、傷を抉るような無造作さでありながら、しかし反してひどく自然体で。

「……――同情を抜きで言うなら、そうだな」

 それからしばらくして、ヨストが平常心を取り戻したのか嗚咽混じりながらもはっきりとした声で言葉を放った。

「わたしが見るところ、フランク中将の作戦は失敗だろう。君の言うとおり、一般市民にまで不審と恨みをふりまきすぎた。このまま、これからも変わらずベーメン・メーレン保護領の統治を続けたいというのであればなんらかの方法、あるいは”見せしめ”をしなければならんのかもしれん」

 国家保安本部に所属する知識人として迷いのない瞳でヨストは言った。

 カール・フランク。

 同じフランクでも、ポーランド総督のハンス・フランクとは大違いの見識の狭い男。そして彼はラインハルト・ハイドリヒが存命中であった頃から、虎視眈々と権力を手にする機会を狙っていた。

 そんな彼の思惑をへし折ったのは、アドルフ・ヒトラーに恋をするような一途さで心を傾けるハインリヒ・ヒムラーであるのだが。

「さて、問題は」

 ベストがおもむろに口を開いた。

「フランク中将と、ダリューゲ上級大将が、おとなしく我々の”助言”に耳を貸すか、だな」

「まぁ、そんな容易な仕事ではあるまい。そんなにおとなしい連中なら、すでにカルテンブルンナー大将が懐柔しているだろう」

 酒とタバコの抜けたカルテンブルンナーは、ヒムラーが考えるよりもずっと優秀な男だった。

「彼はそれなりに優秀な男だが、どうもマリーのこととなると周りが見えなくなる傾向があるのが問題ありきだな」

「でも優しいカルテンブルンナー博士のこと、わたしは大好きよ?」

「君は、君に優しい人なら誰でもいいんだろう」

「えー……?」

 辛口のヴェルナー・ベストの評価にマリーは抗議の声を上げるが、それには耳を貸さずにベストはヨストに顔を向けるのだった。

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