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神々の黄昏 ― Vaterland ―  作者: sakura
III 悪の華
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9 深淵を覗く者

 突撃隊シュトゥルアプタイルングのオフィスを訪れていたマリーは、足の悪さを感じさせない軽やかさで、煉瓦造りのビルの入り口をくぐった。もっとも、それでも彼女自身足の悪さは自覚してるらしく、意識はやや自分の足元に向かいがちだ。

「少尉……っ! 前を……!」

 公用の車を駐車させてマリーに追いすがる親衛隊士官はひどく複雑そうな表情を浮かべたままで叫んだ。年齢も階級も下の若い少女などに、どうして自分がまるで部下かなにかのように付き従わなければならないのか、と。

 叫び声を上げられたマリーの方はというと、前をよく見ていなかったせいで前方から歩いてくる男の胸に鼻から突っ込む形となってバランスを崩す。男のほうも、歩きながら背後の部下に大声でまくしたてるように指示を飛ばしていたものだから、あっという間に自分の死角に入り込んでしまった華奢な少女など全く見えてはいなかった。

 自分の胸の中に鼻から突っ込んでそのままずるりと横に滑りかける細い少女の体を咄嗟に抱き留めながら、長身のその男は視界に舞った見事な金髪に両目をまたたかせる。

「おっと……」

 男の腕に取りすがるようにして、自分の体を支えたマリーは驚いたように男を見上げた。

「……親衛隊(SS)に、風の噂で女の子が入隊したと聞いたが君のことか」

 一見しただけではマリーが親衛隊将校であることはわからない。

 親衛隊情報部所属を示すヒムラーの苦肉の策の腕章と、カーディガンの胸元に留められた鷲章のスカーフピンのためにやっと彼女がナチス親衛隊所属であることが見て取れた。

「ありがとうございます……」

 腕をとって引き起こされて、マリーは男に礼を告げると肩からずれてしまったカーディガンを直す。そんな彼女を見つめていた男は、そうしてから自分の顎に手を当てると考え込んだ。

「SDのお嬢さんが、突撃隊に何の用かな?」

 子供扱いされていることに、けれどマリーはそれほど気分を害した様子もなくにこりとほほえんだ。

「ルッツェ大将閣下と約束をしているんです」

 大男――あくまでも彼女と比較して、の話しだが――に、臆することもなく告げたマリーの様子に彼は「ふむ」と呟いてから、自分の背後にいる部下を振り返った。

「ルッツェ閣下に約束があるそうだ、確認してやれ」

 まるきり子供扱いされているが、マリーのつける腕章に縫い付けられたカフタイトルの威圧感は尋常ではない。

 ナチス親衛隊全国指導者個人幕僚本部――”RFSS”とも”Reichsführer SS ”ともカフタイトルでは記される。現行のカフタイトルは三種類存在しているが、どれも多くの者がそれらを取り付けていた。おそらく彼女はナチス親衛隊全国指導者個人幕僚本部構成員の中では最年少に入るだろう。

 この親衛隊全国指導者個人幕僚本部の本部長は、ハインリヒ・ヒムラーの副官とも言えるカール・ヴォルフ親衛隊中将が務めている。ナチス親衛隊の中では、ヒムラー、ハイドリヒに次ぐ実質的なナンバースリーだった。

 突撃隊本部の女性職員が、確かにマリア・ハイドリヒ親衛隊少尉と幕僚長ヴィクトール・ルッツェと約束をしていることを確認して、マリーはしばらくしてから突撃隊長官の執務室へと通された。

「元気だね、フロイライン」

 執務室へと入ってきた少女に、ヴィクトール・ルッツェが微笑しながら告げると彼女はわずかに困惑するような表情を見せた。

「……あぁ、敬礼はいらない。どうせ慣れていないだろう」

 ぞんざいなルッツェの言葉にマリーが肩を落とすと、倍以上年齢の離れた男は机から立ち上がって少女の右手を取ってまっすぐにピンと張ってから、胸の前で水平に構える。その後、腕を斜め上に手のひらを下に突き出す仕草を教えてやった。

「これが我が党の敬礼だ。わたしにはする必要はないが、そうだな、うるさい連中の前ではしないとならんだろう。しっかり覚えておくと良い」

 そう告げたルッツェは静かに笑ってから、マリーにソファを薦めた。

「しかしシェレンベルクもミュラー中将も教えてくれなかったのか?」

「……はい」

 見よう見まねで敬礼をするのははばかられたのかも知れない。もっとも、女子供の敬礼など見よう見まね以外の何ものでもないのだが、彼女が親衛隊士官である以上は正確な敬礼を覚えておく必要がある。

 軍属でもない少女が正確な敬礼をすることのほうが気持ちが悪い。

 ルッツェはそんなことを考えながら、タバコに火をつけながら首を傾げた。

「ところで、今日は突然どうしたんだね? 急に訪ねてくると言うものだから驚いたよ」

 彼がそう言ったとき、秘書の女性がホットミルクをいれたカップを持ってきてマリーの前に置いた。

「女の子相手になにを出せばいいのかわからなかったからな、とりあえずホットミルクで構わないかな?」

 そう言った彼は、視界の隅で秘書が執務室を出て行ったのを確認してから言葉を続けた。

「まぁ、君が親衛隊に入隊したと聞いたときも驚いたが。あのお堅いヒムラー長官がよくも許可したものだ」

 規律と規則にのっとって生きているようなハインリヒ・ヒムラー。

 セーラーカラーのワンピースに、カーディガン。かわいらしいマリンハットには小さなコサージュがつけられている。誰のセンスで選ばれたものだろう。

「ルッツェ閣下……。親衛隊全国指導者個人幕僚本部長官のヴォルフ中将と長官の仲が最近余り良い感じではないことをご存じですか?」

「そういえば、ハイドリヒが死んでからふたりの仲がうまくいっていないというのは聞いたことがあるな」

 タバコの煙を吸い込みながら言ったヴィクトール・ルッツェは、少女に対して危機感を抱くこともなく言葉を交わす。

 今現在、親衛隊全国指導者個人幕僚本部に属するマリーの身の上話を聞いているようなもので、突撃隊の重要な情報を漏らしているわけでもない。政府高官の位置にあるとは言え、軍人でもなければ諜報員でもなく、また警察官でもないルッツェはそれほど忙しいわけではなかった。要するに、マリーの話を聞く程度の時間はある。

「そうですか……」

 溜め息混じりに告げた彼女は、ルッツェを見つめてからホットミルクのカップに唇をつけるとじっと長い睫毛を揺らした。

「いずれにしろ、親衛隊司令部に所属している今の君には心苦しいものもあるだろう」

 RFSS――。

 カフタイトルに記された文字。

 最新のカフタイトルは”Reichsführer SS ”のはずだが、おそらく二つ目のカフタイトルをつけているということは在庫処分的な意味合いもあったのだろうと思われる。

「それで、君自身はヴォルフ中将とうまくやっていけてるのかな?」

「いえ、わたしは親衛隊司令部長官とはお会いしたことがないので、まだなんとも……」

 おそらく面白くは思われてはいないだろう。

 カール・ヴォルフの思惑はどうあれハインリヒ・ヒムラーの鶴の一声で決められた人事はどうすることもできないだろう。

 親衛隊司令部に所属しながら、彼女は国家保安本部第六局に名を連ねている。

「君は国家保安本部と司令部の連絡役でもやっているのかな?」

 問いかけるとマリーはゆるやかにかぶりを振った。

「いえ、わたしは個人で動いています。六局の仕事が主ですね」

 ニコニコとルッツェに応対するマリーは、相手が突撃隊長官であるということも気にならない様子だった。

「そうか、それでは突撃隊の不穏な状況でも探りにきた、と?」

 突撃隊(SA)親衛隊(SS)は余り好ましい関係にはない。

 ヒトラー率いる親衛隊に多くの実権を委託した政権首脳部には今ひとつおもしろくなかった。

 現在の突撃隊の状況に対しても。

「意地の悪いことを言わないでください」

 リラックスした表情で唇を尖らせたマリーにルッツェは声を上げて笑うと、長い脚を組み直す。そうしてソファに背中を預けて胸の前で両手の指を組み合わせるとタバコをくわえたままで天井を見上げた。

「君のことを信頼しないわけではないが、フロイラインの行動は不可解だな」

 外務大臣リッベントロップの屋敷で起こった親衛隊員の殺人事件。

 捜査記録についてはほとんどをゲシュタポが握っているからルッツェなどが知りようもないが、前後の経過を見ると不可解なものばかりが後に残っている。

 くぐもった男の言葉に、マリーは目を細めると両手で包み込んでいたホットミルクのカップをテーブルに置いた。

「本音を聞かせてもらおう、ハイドリヒ嬢フロイライン・ハイドリヒ。どうしてわざわざわたしのところへ?」

 問いかけたヴィクトール・ルッツェに、マリーは小さく息を吐き出して口元に指先で触れる。

突撃隊(SA)は軍隊でも警察でもありません。ですが、その立場上多くの不審な情報を入手しているとわたしは考えます。その突撃隊の持つ情報を、国家保安本部(RSHA)六局に提供していただけないでしょうか?」

「つまり、わたしたち突撃隊に、ゲシュタポの片棒を担げ、と?」

 率直な物言いのルッツェにマリーは生真面目な顔になった。

 しかしそこにあるのはただ子供のようなまっすぐで純粋な瞳だけ。

「四局や三局は、前戦でパルチザンの掃討作戦の指揮にあたっています。それは、突撃隊が育てた兵士たちを守る一助にもなっているはずです」

 気後れもしないマリーの物言いは、かつて武装親衛隊の訊問を受けた時や、また、リッベントロップの屋敷で会ったときとは少しだけ印象が異なるような気もした。しかし、彼女はまだ十代で多感な時期だ。

 不安定になることもあるだろう。

 娘を持つルッツェらしい結論に至ってから、彼は首を傾げるとマリーを見返す。

「端的に言うと、突撃隊が手塩にかけた兵士たちを守るためにこそ、我らが持っている情報を提出し、共闘するべきだ、とそう言いたいのだね?」

「はい」

「それは、ヒムラー長官のお考えか? それとも、国家保安本部長官代理のシュトレッケンバッハ大将か?」

「わたし個人の考えです」

 柔らかな、そして心地よい少女の声にルッツェは目を伏せる。

 短くなったタバコを灰皿に押しつけて火を消した彼は、少女の左腕にあるビロードの腕章に視線を走らせた。

「良かろう、わたしが君を信頼に値すると感じた。だが、もしも君がドイツに害をなすようであればそのときは容赦はない」

 冷徹であれ。

 それは今のドイツという国家の混乱を乗り切るためには必要なことだった。

「はい、ありがとうございます」

 にっこりとほほえんだマリーに、ルッツェは新しいタバコに火をつけながら立ち上がる。そうして、少女が立ち上がろうとしたのを手助けしてやって彼女の胸元にある鷲章のスカーフピンに触れた。

「それと、わたしのことは大将などと呼ばないでもっと気安く呼んでもらいたいものだな」

「ですが……」

 彼女が親しげに呼び掛けるのはシェレンベルクとカナリスだけだ。

 それをルッツェは聞くでもなく聞いていた。

「そうだな、ルッツェのおじさまとでも」

 机の端に乗せられたマリンハットを取って金色の頭にかぶせてやると、彼女の片手を取って歩きだす。

「わたしは君に職務の上からではなく、個人として惹かれたのかもしれん」

 まっすぐな、透明な青い瞳に惹かれた。

 ただ意味もなく、強く強く惹きつけられたのである。ヴィクトール・ルッツェに職務上の理由などあるわけがない。彼が統括するのは突撃隊だ。ゲシュタポのように逮捕権があるわけでもなければ、国防軍のように戦闘権があるわけでもない。

 だから職務的な理由から、彼らと重複する仕事などあるわけもなかったのだ。

 あるとすれば、ルッツェの個人的な親衛隊に対する嫌悪感だけだ。しかし、その嫌悪感にすら勝って余りあるマリーの存在感。

 マリーが親衛隊員になったことなど、ルッツェにはどうでも良いことだったのだ。それはあくまでも後付け的な理由でしかない。

 少女の頬に手のひらで触れた彼は、にこりとほほえむと突撃隊本部のオフィスを出て行くマリーを見送った。


 ――……ヨーゼフ・アーベントロートは、人を惹きつける魅力がある。それは悪魔的な魅力で、彼が悪人であろうと善人であろうと関わりはなく、ただ、その深い瞳の奥に絡め取られるのだ。彼に面会するときは気をつけなければならない。そうしなければ、彼に面会した者はアーベントロートに捕らわれてしまうだろう。言葉ではなく、心でもなく、彼の魂そのものが、生まれ落ちた時点で人とは異なっている。

 ひとり、プレンツ・アルブレヒト街八番地にある国家保安本部の執務室でシェレンベルクは、かつての連続殺人犯ヨーゼフ・アーベントロートの精神分析記録を見つめながら片目を細めた。

 もしかしたら、”彼ら”はそれ故に”彼女”に捕らわれてしまったのかもしれない。

 愛らしい娘の姿は、悪魔が作り出したものなのか。それとも、全てを計算し尽くしてあの姿にたどり着いたのか。

 非科学的なことを考えながら、シェレンベルクは親指と人差し指で瞼を強く押さえつけた。

「だが、それはそれで利用価値がある」

 つぶやいた。

 一度ばらばらになってしまうかとも思えたナチス親衛隊(SS)という組織をもう一度ひとまとめにするための素晴らしい素質を、彼女は確かに持っていた。

 ラインハルト・ハイドリヒとはまた異なる悪魔的な魅力だった。

 ――深淵を、覗く者は心せよ。

「……深淵を覗く者、か」

 ヴァルター・シェレンベルクはフリードリヒ・ニーチェの言葉を思い出してかすかに笑った。

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