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神々の黄昏 ― Vaterland ―  作者: sakura
XIX 審判
249/410

7 暗躍する影

 国家保安本部による外務省の一斉摘発は、かろうじてヨアヒム・フォン・リッベントロップの威信を失墜させない程度にとどまった。

 組織内部――特に外務省情報局からの情報の漏洩と、管理の甘さについては深刻で、今後も注視すべきものがあるとして、その筋の専門家とも呼べる国家保安本部国外諜報局長ヴァルター・シェレンベルクの管理下に置かれることとなった。また、外務省に入り込んでいた多くのスパイは逮捕され、一旦ゲシュタポの拘置所へと送られた。

 これら一連の不祥事によってリッベントロップはアドルフ・ヒトラーの怒りを買い、あわや失脚かとも思われたが、これは宣伝大臣ヨーゼフ・ゲッベルスの口添えがあり、その地位にとどまることになる。しかしこれらの動向により、外務省そのものが政治警察の厳しい監視下に置かれることが決定された。

 マリーをプラハに送り出した十一月十日の昼下がり、分厚いファイルを抱えた特別保安諜報部の法学博士、ヘルベルト・メールホルン上級大佐がヴァルター・シェレンベルクの執務室に姿を現した。

 情報収拾と分析の達人。そう呼ばれるメールホルンは相変わらず、統計学者のリヒャルト・コルヘル博士と共に強制収容所の横領事件を担当していた。

「本音を言えば、メールホルン上級大佐にもプラハに向かっていただきたかったのですが、そうなるとコルヘル博士の負担が大きくなりすぎてしまいますので、あちらはベスト中将とヨスト少将にお任せしようかと」

「わたしも体はひとつだからな」

 まぁ、ベスト中将とヨスト少将がいればなんとかなるだろう。

 気易くそう言ってからヘルベルト・メールホルンは抱えていたファイルをシェレンベルクの前に積み上げた。

「ところで、シェレンベルク上級大佐。これはなにかね?」

「外国籍のユダヤ人のリストですね」

 指先でファイルをめくって内容を確認したシェレンベルクは特別な感情の抑揚も感じさせずにそう言うと、傍においてあった椅子を引き寄せたメールホルンがどかりとそこに座り込む。

「そう。これは外国籍のユダヤ人のリストだ。君は、彼らを”取り引き”に使っただろう」

「さて……?」

 メールホルンの追及を曖昧に笑って受け流したシェレンベルクは小首を傾げる。

「外国籍のユダヤ人には、ドイツの国内法は適用されません。わたしは当該国の国内法に則って彼らの身柄を取り扱ったに過ぎませんが」

 主に中立国に国籍を持つ異民族たちだ。

「彼らには相応の犯罪歴もなく、違法にドイツ国内の強制収容所に拘束することは国際法に反します」

 シェレンベルクの説明に、メールホルンはあきれた様子で息をついた。

 法律に従って、と言えば聞こえは良いが、要するにいくばくかの人間たちを解放すると言うことそのものが、なんらかの政治的な取り引きの材料に使ったのだろうというのは想像に難くない。

「……――ぎりぎりの綱渡りだな。君のことだから、自分がどんな危険を冒しているのかはわかってのことなのだろうが。くれぐれも足元をすくわれんように気をつけたまえ」

「お心遣い痛み入ります」

 危険を冒している。

 そんなことを今さらメールホルンに言われなくても、シェレンベルクが誰よりも自覚していた。

 国家保安本部長官――ラインハルト・ハイドリヒの部下として名前を連ねるようになってから、常に危険とは隣り合わせだった。安堵の息をつく間もない。そんな生活を彼は送ってきた。

 しかしシェレンベルクはドイツ人だ。

 彼がこの世界を巻き込んだ大戦争の引き金を引いたドイツに属している以上、自分にとってより明るい未来を勝ち取るためにも策謀を張り巡らせておかなければならない。

 戦争に「勝つ」にしろ「負ける」にしろ。

 時間は止まることなく、未来へと向かって刻まれていくものだ。

「まぁ、良い。わたしの仕事は看取共の犯罪の摘発で、君がやったユダヤ人共の解放が適正であったかどうかの審議を問いただすことではない」

 メールホルンの言葉にシェレンベルクは肩をすくめてみせた。

「では失礼する」

 持ち込んだファイルをそのままにして退室したメールホルンを見送って、シェレンベルクはやれやれと溜め息をついてから椅子に体を預けると腹の前で指を組み合わせてじっと考え込んだ。

「戦争とは、かくも残酷なものだ……」

 罪なき者、力なき者は理不尽に殺される。そこには道理も人権も、人道も存在しない。

 権力なき弱者は踏みにじられるというのが世の常だ。

「力なき者は”賢く”振る舞わなければな」

 独白する。

 ――そうだろう? マリー……。

 ヘルベルト・メールホルンから突き出されたリストはかつてシェレンベルクが政治的な取り引きに使った人間たちのリストだ。それが明るみになることなど想定内で、今さら驚くべきことでもない。

 無造作にデスクの隅にファイルを押しやって、シェレンベルクはそうして部下たちから提出された書類の山に手を伸ばした。

 過去に感慨を抱いている暇――立ち止まる時間など彼にはないのだ。



  *

「そうですか」

 シェレンベルクは穏やかに目の前の初老の男に言葉を返してから小首を傾げた。

「それで、博士はどうしたいのです?」

「……――シェレンベルク親衛隊上級大佐」

 堅い声音を響かせて、探るようにヴァルター・シェレンベルクを凝視する口ひげの男は、長い沈黙を挟んでから大きな溜め息をついた。

 迷うように視線を彷徨わせている。

「彼女は……、リー……、いやマイトナー博士はお元気だったか?」

 どこか気もそぞろ、と言った様子でシェレンベルクと相対する男――オットー・ハーンは他人行儀な口ぶりでそう言った。

「博士とマイトナー博士のご関係はすでにこちらでも把握しております。お気になさらず」

 言葉を先に奪うように言ったシェレンベルクにギョッとしたように肩を震わせたオットー・ハーンは、ややしてから視線をテーブルの上に戻すと、カチャカチャと神経質に指先を震わせる。

 極度の緊張が高名な化学者を萎縮させていることにシェレンベルクは気がついていたが、あえてそこには触れずに相手の言葉を待った。

「わたしは、ドイツの科学者として名誉を受けた……」

「えぇ、”博士の発見”は大変素晴らしいものとお聞きしております」

 自分と倍ほども違う年齢の相手にシェレンベルクは、悠然とした姿勢を崩すこともなく、指先を震わせている男を観察していた。

「しがない法学の博士号しか持っていないわたしには全くもって理解いたしかねますが」

 冷静に、淡々とシェレンベルクは言葉を選ぶ。

「しかし、博士の勇気ある行動には、一個人として賞賛の念を感じます」

 含みを持たせたシェレンベルクの言葉に、ハーンは再びびくりと肩を震わせてから挙動不審と言っても良いほど怯えた様子で辺りを見回した。

「ご安心ください。このレストランの職員は全て、わたしの部下です。情報の漏洩は皆無です」

 シェレンベルクが信頼し、生え抜きの諜報部員によって経営される諜報活動のためのレストランだ。

「わたしは彼女の命を救いたかったのだと言ったら、”君”は笑うかね?」

 レストランを訪れた時の堂々とした態度とは打って変わって、ほんの数十分でオットー・ハーンはすっかり老人になってしまったようにも見えた。

 縮こまってなにかに怯えている。

 そんな彼の反応をシェレンベルクは当たり前だと思った。ハーンが怯えても無理はない。彼は数年前、カイザー・ヴィルヘルム研究所の仲間たちと共に物理学者であり、友人でもあったオーストリア系ユダヤ人のリーゼ・マイトナーの命を救おうとして、敢然とゲシュタポに立ち向かったのだ。

「いいえ」

 生真面目に応じたシェレンベルクにハーンは自嘲するようにかすかに口元に笑みを浮かべてから、うつむいたままの顔を上げようともせずにぽつりぽつりと語り出した。

「わたしが、ここで今話すことは内密にしてもらいたい」

「承知いたしました」

「……上級大佐(オーバーヒューラー)、わたしは、権力に負けたのだ」

 途切れがちなオットー・ハーンの言葉に耳を傾けながら、コーヒーカップを指先で弄ぶ若い国外諜報局長は彼の語りを邪魔するわけでもなければ、促すわけでもない。

 静かな沈黙だ。

「わたしが四年前、もっと強い人間であったなら、戦えたのかも知れないと思うことがある。そうして、わたしは彼女を国から追い出し、研究を奪い、業績まで奪っている。……きっと、”彼女”はこんなわたしを失望するだろう。四十年もの間、互いに良き友だと誰よりも信じていたというのに、わたしは彼女の信頼を自ら断ち切ったのだ」

 訥々(とつとつ)と語る彼は高名な科学者とは思えない程小さく見えて、シェレンベルクは黙り込んだままでそんな彼を観察した。

 オットー・ハーンは自分を責めているようだが、けれども、とシェレンベルクは思う。

 ヒトラーが政権を握ったのは一九三三年。今から約九年前のことだ。そのときの彼はまだ判断能力もあやふやな若造で、それから十年ほどの間にこれほど情勢が激変することなど考えてもいなかった。おそらく、当時の知識人たちもそうだったろう。

 一部の先見の明を持った知識人たちは、弾圧が厳しくなる前に国外への脱出を果たすことができたが、それもほんの一部で、多くの人間たちが人間としての尊厳もはぎ取られて、劣悪な環境に放り込まれた。

 そんな時代だった。

「……わたしのところに、少女が来たよ」

 今にも泣き出しそうな声でハーンが告げた。

「博士は、彼女の言った事を頭から信じたのですか?」

 勘ぐるようなシェレンベルクにハーンが低く笑う。

「女子供が、遊びでナチス親衛隊の名前を騙っているとわたしが思ったということかね?」

 問いかけに、問いで言葉を返したオットー・ハーンは、ゆっくりと目を上げてからやっとヴァルター・シェレンベルクを見つめ返した。

「そんなことをして何になる? 遊び半分でナチス親衛隊を名乗れば、どんなことになるのか誰でも知っているはずだ。それに、彼女は親衛隊の髑髏リングをしていた」

「そんなものいくらでも作れます」

「それだけじゃない。あの子は、リーゼに会ったと言った。彼女の力は今のドイツにとって必要だとも。けれども、リーゼはユダヤ人だとわたしが言ったら、なんと言ったと思う?」

 ――”わたし”にはそんなこと関係ないわ。

 ――信じるか信じないかは、博士の自由だけれど。今のドイツが、決して一枚岩ではないことは、あなた自身が一番にわかっているはず。

「わたしがナチス親衛隊員であるように」

 ”ドイツの意志”はひとつではない。

「これでもわたしも長く生きてきた。いろんなものを見てきたつもりだ……」

 外見から「彼女は嘘をつくような子ではない」などという妄言を吐くつもりはなかった。彼も彼なりに、彼女の出自を調べたのだ。

 ナチス親衛隊全国指導者私設警察部隊の隊長。

 階級は親衛隊少佐、名前をマリア・ハイドリヒ。

「さすがにカイザー・ヴィルヘルム研究所の名前は伊達ではないというところですか」

 シェレンベルクは朗らかに笑う。

 もちろんオットー・ハーンが、国家保安本部に所属するマリーに探りを入れてきていることも知っていた。しかし、知っていて彼を放置したのだ。

 そこにはあえて彼女の所属が国家保安本部であることを知らしめる目的もあった。

 国家保安本部には付け入る隙がある。そういった情報をばらまく装置として、オットー・ハーンを使った。

 噂は決してわざとらしいものではならない。

 これ見よがしに情報の漏洩を放置すれば、敵の探索の深度を深めるばかりだ。相手が興味を持ちつつも、そこが弱点であると思わせなければならない。だからこそ、そのためにはより自然な形で情報は拡散されていく必要があった。

「”君ら”の目的がわからんが、”彼女”に伝えてほしい」

 ――わたしの意志は君が知っているはずだ、と。

「今、彼女はプラハで任務に当たっております。帰国しましたら、そのように伝えます」

 シェレンベルクは穏やかにほほえんで、オットー・ハーンに告げるとぱちりと指を鳴らした。

「それでは食事にしましょう」

 マリーはマリーで勝手に動いている。

 もっともその動きは、ベストやヨストを通じてシェレンベルクも把握しているから特別な問題はない。

 先頃、ウラン・クラブの周辺を敵のスパイが探りをいれていたところを見ると、アメリカも本格的に情報収拾に乗り出したようだ。

 ヘンリー・A・ウォレスの死と、それに伴う諜報部員の暗躍。

 派手な演出に騙されてはならない。

 状況を見誤れば、ドイツに待つのは破滅だけだ。

「博士、専門外のわたしにもわかりやすく説明していただきたいのですがよろしいでしょうか……?」

 ウラン・クラブ――原子爆弾開発チームの研究する新型爆弾とはいったいどのような規模のものなのか。

 そして敵、及び味方の外国はどのような研究を展開しているのか。

 シェレンベルクの問いが鋭くオットー・ハーンに切り込んだ。

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