6 プラハを巡る策動
「”噂”を聞いたが」
マリーのバルコニーで言葉を交わしているのは国内諜報局長のオットー・オーレンドルフ中将と、国外諜報局長のヴァルター・シェレンベルクだ。
「美容室の件ですか?」
「それもあるがそれじゃない」
「……――何事でしょう?」
国内諜報局の長官を務めるオーレンドルフの言うところの「噂」という言葉に、ヴァルター・シェレンベルクはわずかなきな臭さを感じて言葉を返した。
「リッベントロップの身の回りの摘発について、随分貴官の評価が高いらしいぞ」
「恐れ入ります」
短く笑ったシェレンベルクは差しだされたタバコを口元にくわえながらほほえんだ。
「”我らがハイニー”が、君の昇進を検討しているらしい」
「昇進ですか……」
つまり、親衛隊少将に昇進すると言うことになるのだろうが、またぞろ突飛なことでも言い出さなければ良いがとシェレンベルクは思う。
昇進すると言うことは彼としても権力が拡大して自由に判断して動くことができるようになるというものでもあるが、単にそれだけにとどまらない。
親衛隊少将――つまるところ、高級指導者のひとりとして名前を連ねるということは、それだけでも政敵が増え、さらに地位に伴う責任が増すと言うことだ。
「名誉なことです」
言葉少なに告げたシェレンベルクに、意味深な眼差しを向けるだけにとどまったオーレンドルフは、彼自身もタバコに火をつけながら深くその煙を吸い込んで葉を落としつつある落葉樹を見つめてから片目をすがめた。
「戦場では、タバコの火を目印に闇の中での狙撃が可能だそうです」
「そうした手合いがいるのは噂で聞いている」
「それなりに射撃は得意ですが、そこまでいくとさすがに神業なのかもしれませんね」
所詮のところ自分は文官だ。
そう告げたシェレンベルクに、オーレンドルフは肩をすくめてから「ところで」と良いながら会話を切り替えた。
「もうひとつの”噂”のほうだが」
「マリーの髪型ですか?」
「そう、どうもそれについてミュラーとカルテンブルンナーとシュトレッケンバッハがやりあったらしいぞ」
「らしいですね」
敬称略、と言った様子のオーレンドルフにシェレンベルクが視線を滑らせた。
「少し髪が伸びすぎているので、プラハに行く前に美容院を紹介してやろうかと思っています」
「アイヒマンの意見は参考にするなよ。あの男のセンスは大概あてにならんからな」
素っ気なく切り捨てたオーレンドルフの台詞に、シェレンベルクはかすかに喉を鳴らして笑った。
自己顕示欲の強いアドルフ・アイヒマンは派手好みだ。
マリーは花があるから少しばかり派手な髪型も似合うかもしれないが、それはそれで保守的な年寄りたちから評判が悪そうだ。ついでに、マリーの髪型はマリー個人の問題であってなにもミュラーとカルテンブルンナーとシュトレッケンバッハが激論を交わすような問題でもない。
「彼女の髪は柔らかいですからね、余り熱を当てると痛んで大変な事になってしまいます。髪質にもよるでしょうがパーマは余り当てない方がいいと思います」
自分の仕事以外のことにもやたらと詳しいシェレンベルクの言葉に、オーレンドルフは一瞬だけ閉口した様子でぽかんと目を丸くしてからあきれた様子で首をすくめた。
「あぁ、そうか」
それだけ感心したように言葉を返してから廊下からマリーの椅子を引っ張って、そこに腰掛けたオーレンドルフは冷たい秋の風に長い吐息をついた。
「プラハ、か……。今はだいぶ落ち着いているんだろう?」
ラインハルト・ハイドリヒの暗殺事件の主犯格の男たちを突き止め、制圧されたのは六月二四日。約三五〇人ほどの親衛隊員が動員された大規模な作戦だった。
その二週間ほど前に、ベーメン・メーレン保護領内にあるふたつの村が、カール・フランクの指揮のもとに文字通り殲滅された。
村人という村人の男は殺害され、女子供は強制収容所に送られた。さらに村は跡形もなく更地にされて畑に戻された。
徹底的に……――。
「カール・フランク中将とダリューゲ上級大将、そしてノイラート男爵……」
「なにか言いたげだな」
「彼らは、ベーメン・メーレン保護領の市民感情を反独的なものに陥れた。この罪は重い」
ハイドリヒの飴と鞭を使い分けた統治をほんの一ヶ月ほどの間で全てを台無しにして、そして今に至っている。さらに言うなら、彼らの行ったリディツェ村とレジャーキ村に対する徹底的な弾圧は、嫌悪感だけを増悪させる結果になった。
要するに施政の失敗だ。
「さて……、彼らは自分の行いにどう責任をとるおつもりか」
静かに微笑したシェレンベルクに、オーレンドルフは再びタバコの煙を深く吸い込んだ。
午後になって、プリンツ・アルブレヒト・シュトラッセのオフィスから外出していたマリーが戻ってきて、国家保安本部は小さな混乱に包まれていた。
長いストレートの金髪はそのままに、背中の辺りまで丁寧に切りそろえられた長い髪は、ゆるやかに内巻きにされている。だいぶ伸びていた前髪も、透明なビーズの花飾りの付いたヘアピンで止められる程度に揃えられていた。
一見しただけではそれほど印象に変化はないが、保守的な年寄りにも、若い男たちにも嫌みを感じさせない髪型は、彼女が着る服のセンスと相まって気品を感じさせていた。
「これはなかなか……」
首席補佐官のベストと共に歩いていたマリーを認めて、開口一番人事局長のブルーノ・シュトレッケンバッハ親衛隊中将がそう言いながら自分の顎を撫でてしげしげと少女の姿を頭の先から爪の先まで見下ろしている。
これがマリーを見つめるシュトレッケンバッハでなければ、それこそ女を値踏みしている男そのものと言った様子だが、ふたりの関係でそれはあり得ないことは周知の事実だ。
「シェレンベルク上級大佐はよくわかっているな」
そう思わんかね?
自分の背後についていた副官に問いかけると、若い親衛隊少尉は困ったように顔を赤くしてから視線をさまよわせて床に落とす。
「ほ、本官には理解いたしかねます……」
シュトレッケンバッハの副官を務める若い少尉は素直に女性を褒めると言うことになれていないのだろう。ちなみに、カルテンブルンナーらが胸を張って言う程でもないが、確かにマリーはかわいらしい。これが無防備な市井の少女であれば、すぐにでも男――少年らを含めた――たちの餌食になっているだろう。
少なくともそう思える程度には愛らしい。
「よく似合っているよ、マリー」
じろじろと見つめていたシュトレッケンバッハがそう言うとマリーはにこりと笑う。
「ありがとうございます」
「ところで、ヒムラー長官から命令が出たそうだが、プラハは厳戒態勢にある、充分に気をつけていっておいで」
「はい、気をつけます」
シュトレッケンバッハと言葉を交わすマリーに、横に立っていたヴェルナー・ベストは内心で「絶対になにを気をつければいいのかなどわかっていないだろう」と思った。
「最近、国外諜報局は災難続きだな、ベスト中将」
「……いつものことだ」
不意に話しを振られたベストは、一秒ほど逡巡してからブルーノ・シュトレッケンバッハに言葉を返して顎をしゃくるように身長の低いマリーを見下ろした。
「ストックホルムでの事件は、現在シェレンベルクが調査中だ。マリーに怪我がなかったことは幸いだが、どうも彼は手段を選ばない嫌いがある」
「それはやむを得まい。彼も生粋の諜報部員だ」
「つまり、そのためならマリーが命を落とすような事態になってもやむを得ないと?」
突っかかるようなベストの言葉に、シュトレッケンバッハは困惑したような顔になってからさりげなくマリーの肩に手のひらで触れる。
「そうは言っていない。仮にもマリーは国家保安本部の一員であるからには、危険が伴うこともあろうと言っているのだ」
大人たちのやや険悪なやりとりを頭上に聞きながらマリーは無言のまま、ふたりの親衛隊中将を交互に見やった。
「しかしマリーは非力な子供だ。危険が及ぶような事態は容認できない」
ベストは堅い表情のまま告げると、シュトレッケンバッハは肩を落とした。
「わかっている。しかし、シェレンベルクもシェレンベルクなりに考えがあって動いているのであれば、こちらからくちばしを差し挟むことでもない」
ヴァルター・シェレンベルクとはそういう男だ。
腹の底でなにを考えているのか、それはとても他者にはうかがい知れないものがある。彼はマリーのなにを知っているのか。そして、マリーをどう利用しようとしているのか。
「とにかく、マリー。プラハでは気をつけなさい。この程度の怪我で済むようなことならまだましだ」
そっと陸軍のフランツ・ハルダーに力任せに掴まれた華奢な手首を引き上げて、シュトレッケンバッハはそう言った。
――気をつけて行っておいで。
「護衛は?」
「マイジンガーに護衛部隊を指揮させる予定だが」
シュトレッケンバッハに問われてベストが応じた。
「……なるほど、了解した」
ベーメン・メーレン保護領――そこは反ドイツ派のレジスタンスがこの半年で一気に増加した。
その引き金は、おそらくイギリス政府によって準備され、引かれたものだ。
イギリスの手によって、ラインハルト・ハイドリヒの暗殺が準備され、そしてその暗殺を行ったチェコスロバキア亡命政府のレジスタンスたちの粛正は、ドイツ統治下にあったベーメン・メーレン保護領の領民らの感情を害することになった。
そんなレジスタンスの巣に、マリーを送るなど無謀なことこの上ないが、ヒムラーが決定を覆さない以上、周りがなにを言っても仕方のないことだ。そしてその命令を、マリーはすでに了承している。
「なにか困ったことがあったら、すぐに電話をしてきなさい。ダリューゲとフランクは当てにするな」
「はい、行ってきます」
秩序警察長官クルト・ダリューゲ。
彼の能力をブルーノ・シュトレッケンバッハはそれほど高く買ってはいなかった。権力志向の強いことは特別なことではないが、能力がともなっていなければ権力など握っていたところで役には立たない。
ただの飾りに過ぎなければ、あるいは、なにかしらの策を講じてその地位から引きずり下ろすべきなのかも知れない。いずれにしろ、ラインハルト・ハイドリヒがひとりでしきって見せた事態をひとりで収拾できないばかりか、カール・フランクやノイラートらと協力してもおさめることができないのであれば要するにただの無能だ。
ちらと目配せを送るベストを見やって、踵を返したシュトレッケンバッハは自分の執務室へと戻ってから、改めてミュラーとネーベに招集をかけた。
「クルト・ダリューゲ、か……」
ダリューゲに対する率直な評価を尋ねられて、ゲシュタポの長官ハインリヒ・ミュラーは豪華な椅子に腰掛けたまま胸の前で腕を組んだ。
一方、紅茶のカップに唇をつけた刑事警察局長のアルトゥール・ネーベは視線をおろしたまま思案に暮れている。
「権力に固執している男だが、ハイドリヒに比べれば凡人で無能だ」
「今回、ヒムラーの代理人として送られるのがマリーだからな。あの男もおそらく嘗めてかかるだろう」
「強制収容所の所長共よりは姑息な手段を使ってくるだろうな」
一九四二年――この春に新設されたばかりの親衛隊上級大将という地位に座るのは、現在のドイツ国内にあってたった三名しかいない。
秩序警察及びベーメン・メーレン保護領副総督、クルト・ダリューゲ。親衛隊名誉指導者フランツ・クサーヴァー・シュヴァルツ。そして第一SS装甲師団長ヨーゼフ・ディートリッヒのみである。
そんなヒムラーにすら認められた権力者の一人。
ヒムラーがダリューゲをどう評価しているかはともかく、間違いなくかつてラインハルト・ハイドリヒに率いられた国家保安本部は彼の敵だ。
強烈なリーダーシップとカリスマ性を持った恐怖の権化――ラインハルト・ハイドリヒの死は、そうした親衛隊内部に燻る権力争いのためのくびきを抜いた。
「マリーが、戦えると思うか? あのダリューゲと」
シュトレッケンバッハの問いに、ミュラーが不機嫌そうに鼻を鳴らした。
「どうせ突撃隊上がりの筋肉馬鹿だ。最後の手段はハイニーに泣きつくくらいしかできんだろう」
それに。
ミュラーが続けた。
「マリーの傍にはベストとヨストがいる。心配はあるまい」
ヴェルナー・ベストとハインツ・ヨスト。
どちらも今年の半ばには実質的な権力を失っていたとはいえ、それでも尚、ハイドリヒに連なる親衛隊知識人の一角である。
それこそ、彼らこそ百戦錬磨の戦いをドイツ国内で繰り広げてきた。
彼らの働きがなければ今の国家保安本部はないと言って等しい。そうしたミュラーの評価に、ネーベも頷いた。ミュラーもネーベも、そしてシュトレッケンバッハも、マリーのふたりの補佐官たちの優秀さをよく知っていた。
「ところで、シュトレッケンバッハ中将。マリーの頭は、とんでもないことになっていなかったろうな?」
「あぁ、それなら広報課のほうにポートレートを撮っておくように言ってあるから後で持ってくるだろう」
マリーが髪を切った、という少しばかりぞっとする噂に、昨今の少女らの派手な頭を思い出したらしいミュラーが眉をひそめれば、シュトレッケンバッハは眉尻をおろして苦笑する。
「なかなか上品でかわいらしかったぞ」
「そうか、それならば安心だ……」
こうしてマリーがプラハに向かうのと併せて、現地のゲシュタポと刑事警察を強化する動きが国家保安本部の中枢で調整されることになるのだった。
「マリーに知られるのは構わんが、ダリューゲに知られると厄介だ。ベスト中将にはその旨を伝えておく」
シュトレッケンバッハはふたりの警察局長らにそう告げた。




