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神々の黄昏 ― Vaterland ―  作者: sakura
XIX 審判
245/410

3 裁定

 国防軍総司令部。

 案内されたのは、その広めの応接室だった。

 スーツ姿の老紳士はすでに退役した前陸軍参謀総長であるルートヴィヒ・ベックで、制服姿の男はフランツ・ハルダー上級大将だった。

 東部戦線の功績で、フランツ・ハルダーもそろそろ元帥の昇進があるのではないかという噂がまことしやかにささやかれている。そんなよく知るふたりの初老の男たちの姿に、マリーはぱっと両目を輝かせた。

「ベックさん……!」

「あぁ、マリー。よく来てくれた」

 わずかに歩調を早めてベックとハルダーに歩み寄ろうとした少女は絨毯の毛足の長さに躓いて、そのまま床に前のめりの態勢で両手をついた。

 痛い、と悲鳴をあげたもののもう遅い。

 そんなマリーにやれやれと溜め息をついたベックが腕を差し伸べてやると、打ち付けた腕が痛むのかわずかに眉をひそめながら捕まりながら立ち上がる。

「ありがとう、ベックさん」

「とりあえず座りたまえ」

 ベックにソファを薦められて、マリーは両方の膝を揃えて座ると、室内に落ち着かない様子で立っているふたりの紳士を見つめて青い瞳をまたたかせた。

 ややしてからハルダーが窓際に立ったままで重々しく口を開いた。

「出頭命令などという大袈裟なものになってすまなかったね。しかし、君の所属がナチス親衛隊である以上、我々は相応の手順を踏まなければならなくてね」

 それが規則だ。

 規則を破ることは許されない。

 ドイツ軍人は規則に厳格であれと教育を受ける。

 言い訳をするようなハルダーの言葉にマリーはじっと耳を傾けていたが、マイペースの彼女はハルダーらの重苦しい空気もどこ吹く風といった様子でにこやかに笑った。

 一言で言うならば、彼女は素晴らしく空気を読まない。

 それが才能なのか、欠点なのか。はたしてそれは断言することはできないだろう。

「別に”そんなこと”気にしてないですけど」

 マリーが出頭命令のことなど気にしていないと告げると当時に、応接室の扉が開いて、いまひとりの初老の将軍が大股で入室してきた。

「少し遅れた。申し訳ない」

「いいや、彼女もたった今ついたばかりだから問題はない。マンシュタイン元帥」

 ハルダーが告げた。

「そういえば表に突撃隊の車があったが誰か来ているのかね?」

 突撃隊の所有する車のナンバーであることを素早く見て取ったマンシュタインの言葉に、マリーは挙手してから「ルッツェ大将が待ってくれてるんです」と簡単なことのいきさつを告げた。

「なるほど……」

 確かに、マリーの年齢では運転免許など持っているわけもないとマンシュタインは納得するが、それにしてもナチス親衛隊の将校に対して突撃隊幕僚長がひどく好意的であるということのほうに驚いた。

「突撃隊のことはさておき……」

 ハルダーが本題だと言わんばかりにじろりと室内の一同を見渡すと、ゆっくりとソファへと歩み寄る。

 マリーの隣にはスーツ姿のベックが腰を下ろし、その向かいにフランツ・ハルダーが。そして、壁を背中にしてマンシュタインが長い足を組んで座っていた。

 ベックとハルダー、そしてマンシュタインという陸軍の重鎮を前にして、普通の人間であれば萎縮もするだろうというのに、マリーは「そう」ではない。

「さて、”役者はそろった”」

 真剣なハルダーの眼差しと、まるで相対するように砕けた様子のマリーの瞳がひどい落差を伴って室内の空気にガチャガチャと不快な不協和音を立てた。

「マリー、君のことが本題なのだ」

「はい……」

 マリーは真剣そのもののハルダーの瞳を見返してから、タイツをはいた膝頭を人差し指で撫でた。

「君の”知っていること”を話してくれんかね?」

 穏やかに聞こえもするハルダーの声が問いかける。

「……――知っていること?」

 一方、問いかけられたほうのマリーは、目の前の男からなにを聞かれているのかさっぱり理解できないようでハルダーの言葉を繰り返して小首を傾ぐ。

「なんのことですか?」

 少女は臆することもなく、ものものしい空気をまとう自分よりもずっと年上の男たちを見つめ返した。

「わたしの家で、ゲーリング国家元帥やポール親衛隊大将が来たときに話していた異民族一一〇〇万人に対する殺戮計画のことだ」

 ベックの助け船のような言葉に、マリーはまるでなんでもないことのように「あぁ、そのことですか」と感慨もなく相づちを打つ。

 一一〇〇万人という大規模な殺戮計画。

 想像するだけでも背筋がぞっとする。そんな言葉を受けて尚、マリーは「そんなこと」と言い捨てた。

「”まさか”ベックさんまで本当にそんなことが心の底から可能だとでも思ってるんですか?」

 マリーが目を丸くして問い返す。

 これだ……――。

 そんな少女の様子にフランツ・ハルダーはふと既視感にも似たようなものを感じて片目をすがめる。

 彼女は人の生命(いのち)がまるでおもちゃかなにかと同じように認識しているのではないか、と感じさせられることがある。

 まだ夏の緑が色濃い頃、マリーは北アフリカ方面に展開するロンメルのドイツアフリカ軍団(DAK)すらも、今と同じように切り捨てた。

 感情をこめることもなく。

 感慨のひとつもなく。

「”たかだが数万人程度”の少数民族ならいざ知らず、政府首脳部の掲げるドイツ純血種の敵は、世界中のありとあらゆるところに何億人と存在しているわ。”敵”は次から次へと増えて”きりがない”。いちいち根絶やしになんてしていたら、ドイツはひたすら消耗し、ただ破滅への道を突き進むだけ」

 きりがないの。

 全ての命を突き放して、残酷に。

 マリーは歌うように告げる。

「ただ、わたしに言えることはただひとつだけ。そうね……」

 野の花をつむ子供のように優しくあどけない、無邪気な笑顔のままで彼女は言った。

「”わたし”も”あなたたち”も、自然淘汰には逆らえないわ。強い者が生き残って、弱者は淘汰されるだけのこと」

 なにかに取り憑かれてでもいるかのようなマリーの言葉。

 そんな彼女の歌のように紡がれる言葉に制止の声をかけたのはハルダーだった。

「マリー!」

 マリーの悪びれもしない言葉にハルダーの悲鳴が叱責のように重なった。

「マリー……、マリー……」

 言葉を失って、真っ青になったハルダーが彼女の名前を幾度となく呼び掛ける。

「マリー……――」

 唇をわなわなと震わせたフランツ・ハルダーは思わず立ち上がって、マリーの細い手首を強く掴むと引っ張り上げる。そんな彼の力に、もちろんマリーは抵抗することもままならず、腰を浮かせて掴まれた痛みに苦痛の声を上げる。

「人の命はおもちゃじゃない……」

 声を震わせてやっとそれだけ言った彼に、マリーは血の気が失せるほどの力で掴み占められた手首をそのままにして真顔でハルダーを凝視した。

「”知っているわ”」

 ぞっとするほど冷たく響いたその声に、我に返ったベックがハルダーと少女の間に割って入ると、掴まれて内出血した手首をさすっているマリーはその指先を唇に当てて考え込んでいる。

「人の命がおもちゃじゃないことくらい、”わかっている”わ。……でも」

 でも。

 彼女は続ける。

「でも、……みんな同じよ。ハルダー上級大将だって、マンシュタイン元帥だって、ベックさんだって、みんなみんな同じこと言うけど、そうやって”わたし”以外の人には優しいのに。わたしが苦しくて、辛くて、……全部に絶望したときに、みんなわたしが”死ぬこと”を喜んでた……」

 血の気の失せた青い顔。

 紫色に変わった唇。

 まるで亡霊のような印象すら受ける少女のうつむいた横顔に、男たちは今度こそ言葉を失った。

 彼女がなにを言っているのか理解できない。

 彼女はなにを恐れているのかわからない。

「わたしは、わたしは、みんなにただ愛してもらいたかった。ただ、君が大切だって言ってもらいたかった。なのに、誰もわたしのことなんて見てくれなくて……、寂しくて、悲しくて」

「マリー?」

 マリーの様子に不審を感じたベックがそっと少女を覗き込むと、金髪碧眼のやせ気味のけれども確かに美貌の少女はなにかの存在に怯えたようにぎゅっと彼にしがみついた。

「わたしが、君に優しくなかったことがあったかね?」

 出逢ってこのかた、彼女を孫娘のように慈しんできた。

 ナチス親衛隊と国防軍という枠すら越えて。

「わたしは君がとても大切だと思っているのだから、そんな悲しいことはいわんでくれ」

 人の命をおもちゃかなにかと勘違いしている、というフランツ・ハルダーの言葉は確かに彼女を傷つけた。

 心の底に眠っていたかつて「捨てられた」記憶でも呼び起こされたのだろうか。

 ベックはそんなことを思う。

 一度は死んだと思われ、そのまま引き取り手もなく施設で育てられた少女。その心にどれだけの傷を負っているのか、彼には測り知る事もできはしない。

「”殺される”のは怖いのよ……」

 恐怖にすっかり体温を失った少女の体を抱きしめて温めてやりながら、ベックは溜め息をつくと彼女の前に仁王立ちになっているハルダーに軽く手を振った。

「少し彼女を落ち着かせたい」

「……――承知した」



  *

 ソファに横になっている少女のもとに歩み寄ったマンシュタインが、そっとその横に膝を折った。

「……死とは、なんだろう?」

 先ほどのハルダーとマリーのやりとりを観察していて、マンシュタインは少女が「死の恐怖」に対する強いストレスを感じているのではないかと思った。

 直接的に彼女の心の傷を抉るのではなく、違う方向から問いかけてみる。

「死とは”無”よ」

 すっかり疲れ切ったマリーの眼差しは初めて見る。

「……マンシュタイン元帥は、わたしのこと嫌い?」

「かわいい女の子を嫌いな人はいないだろう」

 そっと長い髪をなでてやれば、マリーはスンと鼻を鳴らしてから肘をついて上半身を起こすとエーリッヒ・フォン・マンシュタインを真正面から見据えて、細い指先を彼に伸ばした。

「あのね」

 数秒だけ考え込んでから、(あで)やかに微笑(わら)った。

「……逃げてはダメよ」

 ――”あなたたち”が逃げれば、数え切れない人が死ぬ。敵も、味方も。

「もしかしたら、ドイツの将来を担わなければならない人たちが……、たくさんたくさん犠牲になるわ」

 明るい笑顔とは裏腹に、少女の声が冷ややかに鳴った。

 一一〇〇万人の人間が殺戮されることなど本当にあるのか。

 そんなフランツ・ハルダーの問いかけに対する、彼女の答えだったのかも知れない。一一〇〇万人の中にいったい誰が含まれるのか、それはまるで暗喩のようでとらえどころがない。

 だけれども、彼女の告げる言葉はまるで神の啓示に似ているようで、それ以上の追及ができなくなった。

「……君に、触れても?」

 マンシュタインが問いかければ、マリーは花のように笑った。

「ハルダー上級大将も、ベックさんも、マンシュタイン元帥も。死んじゃダメ。だから”気をつけて”」

「マリー……」

「わたしたちは、あなたたちの敵じゃないわ」

 それが答え。

 彼女はそう告げた。


 マンシュタインの堅い指先が触れた少女の肌はきめ細かく、うっすらと血色を取り戻しつつあった。

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