1 マンシュタイン
「マリーが君と話しをしたいと言っているのだが、どうだろう?」
そう言われたのは十一月の初め。
午後の日差しがそろそろ傾きだした時間帯だ。
ちなみに「マリー」と言われても、正直なところ、エーリッヒ・フォン・マンシュタインにはピンとこなかった。それもそのはずで、彼が「マリー」と呼ばれる少女と顔を合わせたのはたかが数度に過ぎないのだから。
「……マリーとは?」
「わたしの勉強会で来ていた親衛隊の将校だよ。まさか、そんな歳でボケが始まったとでも言うんじゃあるまいな」
辛辣な陸軍参謀総長の言葉に、相手には見えないことを承知でマンシュタインは小さく肩をすくめてから鼻から息を抜く。
「別に老人ぼけは始まっていないが、あのやたらと長い金髪の女の子か」
「そう、それだ」
長い金髪は邪魔になるのではないかと危惧するほど長くて、それがマンシュタインには印象的だった。
別に無粋な軍人であるからと言って美的なものに全く興味がないというわけでもない。
「それで、その親衛隊将校がわたしに何の用だと?」
言葉を返したマンシュタインに、陸軍参謀総長フランツ・ハルダーは受話器の向こうで穏やかな笑い声を上げた。
「君が勉強会に来ていたときに、彼女がたいそう興味を抱いてね。とても優秀な軍事指導者だと教えてやったら、ぜひ話しをしてみたいと言い出した。君もさぞかし忙しいだろうから、なかなか彼女の勉強家に時間を合わせるのは難しいのではないかと言ったら、では自分の方から会いに行くからと熱心でね」
ナチス親衛隊の将校。
ぽつりとマンシュタインは口の中で言葉を転がした。
彼と同じく生粋の軍人であるフランツ・ハルダーも、そして、前陸軍参謀総長を務めたルートヴィヒ・ベックも同様に、粋がったナチス親衛隊の無法者たちに対して面白くないものを感じていたはずだった。
しかし、そんなヒムラーとヒトラーのナチス親衛隊に警戒する国防軍首脳陣の前に姿を現した、ひとりの親衛隊将校は毛色がかなり違っていた。
本来、男性しか入隊できないはずのナチス親衛隊に女性――しかも子供の身でありながら入隊したマリー。
経歴は”あの”かつてのナチス親衛隊ナンバーツーであり、国家保安本部に君臨した金髪の野獣と恐れられたラインハルト・ハイドリヒの血縁。それだけで、ヒムラーがナチス親衛隊への入隊を許したとはさすがに思いもよらないが、そうこうしているうちに彼女はあっという間に、首相官邸に潜む不穏分子を一斉摘発した。
「ハルダー上級大将は……、彼女を信じているのですかな?」
生真面目にマンシュタインが問いかけると、なにか思い悩むようにハルダーは電話の向こうで黙り込んだ。
「マンシュタイン元帥、貴官もわかっていることとは思うが、わたしはナチス親衛隊の全てを信じて居ないわけではない」
「わかっています」
ハルダーがなにを言いたいのかは、マンシュタインもわかっている。
彼らを信じるに足りない相手だと思う反面、ナチス親衛隊の将兵たちは、確かにドイツ国防軍にとって戦友とも言える。
互いに言いたいことを飲み込んでいるのは、国防軍もナチス親衛隊も同じだ。
それぞれに面白くないと感じている側面が存在している。
「確かに、ハウサー将軍の鍛え上げた彼らは、勇敢で優秀な将兵たちです。それは、英仏連合に連なる者と比較しても歴然としている」
武装親衛隊装甲軍団司令官――旧国防軍将校パウル・ハウサー親衛隊大将の育て上げた武装親衛隊の隊員たちは、まさにエリートと言うに相応しい。
「ですが、”それ”と”これ”とは別です」
受話器を握ったまま、マンシュタインはばっさりと一刀両断した。
「それはまぁ、そうなのだがな。君も何度か話している通り、彼女はそれほど裏表があるわけでもない。もしかしたら、他の親衛隊の連中同様油断ならない相手でもあるのかもしれんが、別にわたしとてこちらの不都合になるような話しをしているわけでもない。……そうだな、彼女の社会経験の一環として、話しをしてやってくれないか」
「女子供の相手、ですか」
やれやれとマンシュタインは溜め息をついた。
「承知しました」
確かに、ハルダーは彼女の教育と称して、特に国防軍の不都合になるような話しをしているわけでもない。どちらかと言えば、彼は彼女をナチス親衛隊という組織から引き離そうとしているようにも見える。
ハルダーにとって、それほどヒトラー率いるナチス党への不信は深刻ということになる。年若い少女が、ナチス親衛隊の思想などに捕らわれていることに苦々しく思ったのかも知れないし、また、子供ながらに浅はかな思考を矯正しようとしたのかもしれない。
真意は定かではなかったが、せいぜいハルダーの老婆心というのが実際のところなのかもしれない。
そうして、夕方。
仕事を終えたマリーが赤いシェパードを伴ってマンシュタインの執務室を訪れたのだが、それから数時間後。
弱り果てた五十代半ばの男の腕の中で少女は寝息をたてていた。
「うーむ……」
この状況はいったいどうすればいいのだろう。
聞けば、彼女はベルリン市内のアパートメントにひとり暮らしであると言うし、ナチス親衛隊首脳部に連絡を取るという手段も気が進まない。
妻には「帰宅が少し遅くなるかもしれない」と連絡をいれてから、執務机に付いたままでソファに横になっている少女を頬杖をついたままで無言で眺めていた。
透けるように白い肌と、金色の長い髪。
金色の睫毛はもちろん頭髪と同じ色で、どこか現実味が欠落している。
そもそも、自分よりも遙かに階級の高い――所属組織が異なるとはいえ――相手の、しかも長身の男性の部屋でふたりきりという状況で緊張感のかけらもなく眠り込んでいる。
これを年齢の割に子供っぽいところもあるハインツ・グデーリアンあたりが目の当たりにすれば、おもしろがって「マンシュタインに新しい愛人ができた!」とでも言いふらすかも知れない。そして、すぐに「もちろんくだらない冗談だ」と付け加えるだろう。
目に見えている旧知の男の行動を想像してからもうひとつ深く溜め息をついたマンシュタインは、靴音を鳴らすこともなく立ち上がるとそっとソファに眠り込んでいる少女に歩み寄った。
「……起きなさい」
そう言ってみても、彼女はすっかり熟睡していて起き出す気配がない。
確かに、前陸軍参謀総長のルートヴィヒ・ベックの言うところによれ、国家保安本部では相当の激務に追われているらしかったから、疲れ切って眠ってしまってもやむを得ないのだが、それにしたところで、眠りたければ自分の家で眠れば良いではないかとも思う。
「……う、ん」
小さくうなり声を上げてから、マンシュタインの胸に顔を押しつけている眠っている姿は、彼の息子がまだ小さい時の様子さえ連想させた。
思わず大きな手のひらで少女の頭を撫でてやれば、さらに深い眠りへといざなわれていくようでもある。
自分よりも暖かな男の腕が心地よいのか少女は起きる様子もない。
「どうしようか」
すっかり弱り果ててマンシュタインが何度目かの溜め息をついたとき、少女がようやく身じろいだ。
「しょーぐん?」
寝ぼけ眼の青い瞳が彼を捕らえた。
「起きたかね?」
眠い……――。
そう呟くように言って、再び彼女は夢の中へ戻ろうとするのを、マンシュタインは呼び止めた。
「眠いのであれば自宅まで送ろう。もう少し起きていなさい」
「だって、眠いの……」
見る者みよっては天下の国防軍陸軍元帥に向かってとんでもない口の利き方をするものだと、怒り出す者もいるかもしれない。
「しゃんとしなさい」
叱りつけるようなマンシュタインに少女はようよう瞼を上げてから、そっと眉をひそめて視線を彷徨わせた。まだどこか、夢の中をさまよっているかのような彼女の瞳。なんとか意識を保とうと努めているらしいが、結局、すとんと赤子が眠りの中へ墜落していくように、深い水底へと沈んでいった。
顔色は良い。
脈拍や呼吸の状態もおかしくはない。
そうした一連の健康状態を観察してから、エーリッヒ・フォン・マンシュタインはふとひとつの可能性にたどり着いて小さく舌打ちするとめまぐるしく思考する。
彼の見るところ眠っているだけだから、ベッドがある場所へと連れて行けばすむだけの話しなのだが、それが国防軍に所属もしているわけでもなく、国防軍婦人補助隊に所属する者でもないナチス親衛隊に関係する女性が私的に彼を訪れているとなると状況は少々ややこしい。
別に後ろめたいことがあるわけでもないのだから、隠す必要はないのだが、ベックとハルダー、そして親衛隊のハンス・ユットナー辺りの話しを総合すると、彼女がナチス親衛隊に所属していることを公にすることは余り好ましいことではないらしい。
少しばかり思案した後、マンシュタインは少女を再びソファへと寝かしつけてから、ひとりの元国防軍の退役将校に連絡をとった。
「……マックス・ユットナー突撃隊大将はまだいらっしゃるかな?」
少なくとも、ナチス親衛隊と犬猿の仲にある国防軍と、突撃隊はそうした意味では意見が合致する。
「あぁ、どうも。申し訳ありません。マンシュタインです」
マックス・ユットナー突撃隊大将。彼の弟はハンス・ユットナーで武装親衛隊の実質的な指揮官である。要するにマックス・ユットナーを通じて、ハンス・ユットナーと連絡を取れるということにもなるが、なにより、マックス・ユットナーの上官にあたる突撃隊幕僚長ヴィクトール・ルッツェが少女を目の中に入れても痛くないほどかわいがっていることはマンシュタインもかろうじて知っている。
「ナチス親衛隊の女の子……、マリーがうちで眠り込んでしまいましてね、ほとほと困っているのですが、ご相談にと思って電話したのですが」
そんな話しをしてからしばらくしてから、当のマックス・ユットナー突撃隊大将とヴィクトール・ルッツェ突撃隊大将とが連れだってマンシュタインの執務室を訪れた。
「ご連絡ありがとうございます」
ルッツェがマンシュタインに礼を告げ、華奢な体を抱え込むように抱き上げる。
「親衛隊のカルテンブルンナーに先を越されなくて良かった」
ニコニコと笑っているルッツェの慈しむような眼差しに、マンシュタインはなにかを言いかけてから口を噤んだ。
結局、突撃隊のふたりの高官が出て行くのを見送っただけで、マンシュタインは執務机についてじっと考え込んでしまった。
「マリー……」
あどけなく笑う少女が、マンシュタインに問いかけた。
――どう思っているんですか?
どう思っているのか。
彼に、多くの人々が問いかけてきた言葉だ。
現在のドイツを、マンシュタインはどのように受け止められているのか。由緒正しいプロイセン時代からの軍人の家系に生まれ、最後のドイツ皇帝に仕えたほどの”ドイツ軍人”が、今のドイツに対してどのように感じているのか。
「しょーぐん……」
少女が寝ぼけながら彼を呼んだ声が耳の奥に響いた気がした。
ヒトラーのドイツに対する罪を。
犯罪を見て見ぬ振りをするのか。
若い参謀将校らが彼に言いつのった。どうして、マリーを見ていてそんなことを思い出したのかと問いかけられても返答に窮するところだ。
犯罪と知らないから、見て見ぬ振りをした?
プロイセンの軍人は、政治には関わらぬ。それが由緒正しいプロイセン軍人の有り様だと信じ込んでいたからナチス党の推進する政策を無視し得たわけではない。
「わたしは歳をとった……」
苦笑する。
軍人である以上、正しい道を進んでいるはずもないということはわかっている。
戦争が終わって、先の大戦のようにドイツが敗退するようなことになれば、真っ先に裁かれるのが自分たちであることもわかっている。
「将軍、あなたの進むべき道は、どこにあるの?」
彼女がそう問いかけたわけではない。
「わたしは、”ドイツ”の敵ではないわ」
多くのしがらみに捕らわれ、多くの意味で道を踏み誤った。
青い瞳が彼自身を捕らえて、「こちらへおいで」と誘惑する。
長い長い溜め息を吐きだして、マンシュタインは片手を額に当てると顔をおおった。
「年を取りたくないものだ。思考まで劣化する」
――あなたの進むべき道は、”まだ”終わっていない……!




