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神々の黄昏 ― Vaterland ―  作者: sakura
XVIII 真理の門番
242/410

15 糸車を回す者

 ライプツィヒの片隅。

 その林に囲まれた物理学研究所の一室で、ヴェルナー・ハイゼンベルクはさして面白くもなさそうな顔のままでゲシュタポ――正確には刑事警察だが、第三者的な立場からはどちらでも大差はない――に取り押さえられた見慣れない顔立ちの作業服の男を窓から眺めている。

 その様子を見つめ、少し離れた場所から部下の報告を受けるのはハンサムな青年将校だ。

 若干三二歳でナチス親衛隊の上級大佐で、ボン大学で法律をおさめたエリート中のエリート。

 ――法律など余り面白くなさそうだが。

 ハイゼンベルクの頭の隅をちらとそんな考えがよぎる。

 未知の世界への探求心をいだく者と、法曹界、あるいは政治経済分野で出世を望む者では、志が異なって当たり前のことだが、両者の間にはいわゆる「博士号」持ちとは言っても天地の差が存在した。

 それにしても、とハイゼンベルクは思う。

 どんなに優秀な頭脳を持っていたとしても、ハイゼンベルクにとっては所詮ゲシュタポでしかなく、油断ならない人間であると言うことには変わりはない。

 彼らの推進する再定住計画と、ドイツトップクラスの頭脳の海外流出。それは大ドイツにとって大きな損失にほかならない。

 優秀な頭脳が流出すれば、それだけ研究が滞るのだと言うことを、はたして「彼ら」は理解しているのだろうか……?

 ナチス党(NSDAP)の推進する人種政策は、行く行くはドイツのためになるわけがない。

 ヒトラーはドイツの力を失速させようとしている。だけれども、彼らの力に異論を唱えるには、ナチス党(NSDAP)の力は強大すぎて、ハイゼンベルク個人で太刀打ちできるわけもなかった。

 そして、彼の知る多くの科学者たちも、その権力に屈して頭を垂れた。

 タバコなどを吸いながらそんなとりとめもないことに思考を巡らせていると、ハイゼンベルクの研究室の扉をノックする音が聞こえたと同時にドアノブが回った。

 カチャリ、と。

「”君”の読みが当たったわけか」

 素っ気ないハイゼンベルクの言葉に、青年将校は小さく頭を下げる。

「恐れ入ります」

 言葉を投げかけた方も淡々としていれば、応じる方もまた淡々としている。

「しかし、我々の警護にあたっているのは刑事警察の連中だろう。どうして”君”が指揮を執っているのか知りたいものだが」

 防諜部門の責任者であるヴァルター・シェレンベルクがどうして捜査の指揮に当たっているのか、というごく真っ当な疑問に対して、親衛隊(SS)のエリート将校は腹の底の見えない笑みをたたえた。

「この件に関しましては、おそらくアメリカの諜報部が絡んでいると、”わたし”個人は考えております」

 ですから、その情報収集の一貫です。

 こともなげにそう続けたシェレンベルクに、ハイゼンベルクが瞳を閃かせる。

「アメリカのスパイであるという、なにか”保障”でも?」

「もちろん、あるわけも……」

 静かに青年が笑っている。

 つい数年前までは、やんちゃをしていた二十代の男とはとても思えない思慮深さに、年上の原子物理学者はそっと眉をひそめた。

 抜け目ない青年は表情を崩すこともなくそう告げると、実直な眼差しで不審な顔をするハイゼンベルクの瞳を見つめ返した。

「ひとつ言っておくが、”君ら”は少々やりすぎの嫌いがある」

「それも承知しております」

 やりすぎなのは、国家保安本部の伝統だ。

 国家権力を振りかざし、罪なき者に罪を着せる。

 それをシェレンベルクは否定しない。

 分野こそ違えど、頭の回転の速い天才原子物理学者――ヴェルナー・ハイゼンベルクを前にして今さら取り繕うことがどれほど無意味なことか、国外諜報局長を務める青年にはわかりきっている。

 ハイゼンベルクの言葉に「もっともだ」と頷いたシェレンベルクは穏やかに続ける。

「ですが、博士もご存じのことと思いますが、猛スピードで走る車に急ブレーキをかけることはできないものです」

 意味深な法学博士の物言いに、物理学博士はそっと睫毛を震わせる。

 彼が何を言わんとしているのか。

「急ブレーキをかければ、自ら想像以上のダメージを負いかねません。そしてその被害は、走る車が巨大であればあるほど、後々の禍根を残すことになりましょう。ですから、”我々”は、できるだけ迅速にそして被害を最小限のものとしつつ、誤りなく”正確に”ブレーキをかけなければならないのです」

 昨年、ドイツとソビエト連邦に侵攻を決断したときとは大きく状況が変わっている。

 数々の不確定要素がシェレンベルクの計算を狂わせた。しかし、計算が狂ったからと言って立ち止まっていれば、その先には身の破滅しかない。

 諜報部員はより柔軟に時代の流れに対応していかなければ生きていけないのだ。

 例えるならば、戦場で狙撃手が捕虜になることはできないように、諜報部員(スパイ)も国の方針に従っていたというだけで敵国では犯罪者としての烙印を押される。

 それが許されざる者、だ。

「ですから、博士。ドイツの破滅を防ぐためにも」

 シェレンベルクが真摯な眼差しで天才物理学者ヴェルナー・ハイゼンベルクを見つめた。

「”我々”は、博士のお力を必要としています」

あなたの力が必要だとシェレンベルクが訴えた。

「ふん……」

 憮然としたハイゼンベルクは左右にかぶりを振ってから、法学博士の青年の視線から逃れるように背中を向けると、小鳥のさえずりの聞こえてくる窓の外を見やった。

「わたしは、ただの物理学者にすぎんからな。君がなにを期待しているかは”わからない”が、できることなどたかが知れている」

「構いません、博士には今後も国の要請に従って研究を続けていただければ充分です。そして、その結果が成功であれ、失敗であれ」

 科学の発展というものは往々にしてそんなものだ。

 シェレンベルクの指摘に、ハイゼンベルクは視線を滑らせた。

 政治の暗黒部分、謀略や策謀といった(たぐい)のもの。

 学問を志す者はそうしたものに関わるべきではない。それに対してはシェレンベルクもハイゼンベルクも同意見だった。

「どのみち、学問の徒が政治に関わったところで、ろくなことはない」

 独り言のようにつぶやいたハイゼンベルクに、「それでは失礼します」と言い残して踵を鳴らしてシェレンベルクは研究室を出て行った。

「……――神の火」

理論上では膨大なエネルギーが発生する。それは従来の爆弾とは比較にならないし、推論を立てることはできても計算上のそれを信じるならば、まさに想像を絶する規模を「消滅」させることになるだろう。

 はたしてそんなことが許されるのだろうか。

 神の火を扱うことが、どのような対価を支払うのか。それがハイゼンベルクにはまだ見えてこない。

 新型兵器が開発される度に、人類は大きな代償を支払ってきたことを、先の大戦で学んでいるはずだというのに、世間はそのことをすっかり忘れてしまったのだろうか。

 大きな溜め息をついて、ハイゼンベルクはひとり取り残された研究室でやっと肩の力を抜いた。



  *

 かつて大ドイツは科学分野の最先端を疾駆していた。

 多くの有名大学を有し、それに伴う研究機関、高名な学者集団の存在は、それだけでもヨーロッパ中のみならず世界中から数多くの知識人たちを集結させる呼び水となった。

 それこそが、大ドイツの誇る知識階層であり、技術の結晶だ。

 そんなドイツの知に衰えの兆しが見え始めたのはいつ頃からか。

 苛立つようにオットー・ハーンは考え込んで薄暗い室内の取り残された椅子に腰掛けると、岩のように固まっていた。

 誰がこんな世界にしたのか。

 誰が世界を狂わせたのか。

 それを自分は知っている。

 誰よりも信頼し、気心の知れた友を裏切って得た彼の名声は、きっと彼女をひどく落胆させてしまったに違いない。

「君を悲しませているのが僕だということをよくわかっている……」

 君は弱い僕を蔑みの目で見るだろうか……――。

 こんな時代でなければ、彼女は世界に貢献する屈指の科学者として名を知らしめたはずだ。けれども、ドイツの政策はハーンらをも巻き込み、あまつさえドイツの知性を衰退させた。

 これが「祖国」ドイツに対する犯罪でなくてなんなのだろう。

 それこそが、ドイツに対する犯罪だ。

 自分をも含めて。

 ドイツを滅ぼす罪。

 大いなる犯罪。

 なによりも、彼の心に重くのしかかり蝕んだのは、友へ対する自分自身の裏切りだった。

ハーン博士(ドクトル・ハーン)

 薄暗いベルリンの片隅にあった実験物理学研究所の地下室――木工作業所。

 寂れているものの思い出深く、彼の記憶を震わせる。

 思考の深淵に沈み込んでいたオットー・ハーンは突然響いた声にぎょっとして飛び上がった。

 顔の判別などできもしないほど薄闇に包まれた地下室に少女が逆光の中に立っていた。屋外に続く廊下からの光をやっと取り入れて、少なくとも作業所よりは明るいだろう。

 開いた扉に寄りかかるようにして、華奢な少女が立っている。

「悲しいの?」

 少女が問いかけた。

「……寂しいの?」

 静かな声が、まるで浮かんでは消えていく雫のように頼りない。

「……――それとも、後ろめたいの?」

 最後に響いたその言葉にハーンは肩を揺らした。

 その言葉は少女のものでありながら、まるで地の底――地獄の底から響いてきてでもいるかのように。明朗でありながら、無機的で冷たい。

 恐ろしく「感情」というものを欠落させていた。

 そんな得体の知れぬ不気味さに、オットー・ハーンは思わず見えないなにかを振り払おうとするように両腕を頭の上で振り回してから、やがてその行為そのものが無意味だとでも言うかのように、自分の頭を抱え込んだ。

「うるさいっ、うるさい……っ!」

 まるで少女の存在そのものを否定するようにハーンは叫んだ。

「うるさい、子供に何がわかる!」

 罪も、心の痛みも知らない子供に何がわかるというのか!

 それは魂の慟哭だった。ハーンの言葉を受けて少女は扉を背にして笑ってさえいるようだ。

「知るわけないじゃない」

 からりと子供は告げる。

「人が人の心をわかりたいだなんて、ただの思い上がり。”だから”わたしにはあなたの気持ちなんて”わからない”し、”知らない”わ」

 でも。

 少女――マリーは続ける。

「でも、そうね……。博士」

 声の変化も、表情の変化も全く見せず、マリーはこつりと小さく靴音をたてて彼に近づいた。そして、そっと小さな手のひらを、男の抱えられた頭に触れた。

「”あなた”が望むなら、わたしはあなたの大切なものを、取り返してあげる」

 恐ろしく何の変化もない。

 声も、顔色も。

 何もかも。

 マリーは大した事でもないと言いたげに、微笑してから首を傾げて六十歳を当に越えた男を見下ろしている。

「……”君”の味方につけと言うのか?」

「さぁ? ”どうでもいい”けど」

 そうして彼女はいつものように「他者」に笑いかけて(きびす)を返した。

「敵とか味方とか、そういうこと興味もないの。わたしはただ”目的”のための操り人形。大いなる意志のもとに踊らされているだけなのよ」

 どうとでもとれる少女の言葉が、なんの感慨もなく響いては消えていく。

 誰も彼も同じ。

「”わたしたち”にはあなたが必要なの」

 言い置いて、それほど広くはない地下の実験室を出て行く少女の影のコントラスト。

 薄闇の中では顔立ちはわからない。少女の声に、言葉に、そしてその姿に、オットー・ハーンは文字通り心臓を鷲掴みにされた。

 ――あなたがなによりも大切な愛した友を、取り返してあげてもいい。だけれども、それらは全てあなたの気持ちひとつ。


 木工作業所の地下からしばらくの時間をおいて上がってきたマリーの姿に、男は当たり前のように片手を差しだせば、少女の方も当たり前のように自分の手を重ねて笑みを浮かべる。

「手応えは?」

「秘密です」

「そうか……」

 ヨーゼフ・マイジンガー親衛隊大佐は自分を信頼するあどけない少女に対して、相づちを打ってからあいている自分の手で顎を撫でた。

「女性はミステリアスな方が魅力的だ」

 それだけ続けてから、特にマリーの言動を追及しないマイジンガーは、実験物理学研究所の門の前で待たせているベンツへとむかって歩みを進めた。

ありがとう(ダンケ)

 自分の隣で笑顔をたたえている少女の存在が、今のマイジンガーには心地よい。精神的に満たされているからか、酒豪とからかわれていた彼も最近ではめっきりアルコールの量が減った。

「マイジンガー大佐」

「うん?」

 古くから彼を知る者が、今のマイジンガーを見れば驚くほど穏やかな眼差しで少女を見下ろした。

「ずーっと、わたしの味方でいてね?」

「もちろん」

 ベストやヨストは気に入らないが、マリーの味方でいるということに対しては否やはない。

「わたしは君の味方だ」

 誰かのために、冷徹無比であろうと思えたのは彼女が初めてだ。

 マイジンガーはそう思って目を伏せた。

「わたしは君が大切だ」

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