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神々の黄昏 ― Vaterland ―  作者: sakura
XVIII 真理の門番
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14 春の嵐

 諜報活動の内実というものは、知ったところでせいぜい気持ちの良いものとは言い難い。

「マリー!」

 珍しく国家保安本部長官のエルンスト・カルテンブルンナーがどかどかと足音を立てて、特別保安諜報部のマリーとベスト、ヨストらが強要する執務室へとやってきた。

 昼食を終えた初冬の昼下がり、しつらえられたソファにめいめいがくつろぎながら読書などに興じていた。

 三人の執務机と応接用のソファ。

 狭い室内にそれだけのものがあるだけで、よりいっそうの狭さを感じさせて、そこに長身のカルテンブルンナーが訪れるとなれば、部屋は余計に狭く感じられる。

 捕虜――しかも敵国の要人となれば、その身柄の取り扱いについては充分な配慮が払われるべき必要があった。

 ドイツにとってソビエト連邦の元国家元首の息子、ヤーコフ・ジュガシヴィリとはそうした存在だ。

「正気か!」

 叫ぶようなカルテンブルンナーをマリーはソファに案内し、手ずからまずい紅茶を出された男は一服してやっと冷静さを取り戻した。

 知識人と言う程品はなく、「兵隊」らしく粗野で何をするかわからない。そんな「無学」な外国人捕虜など、マリーに何をするかわからないではないか!

 咎めるような眼差しで国家保安本部長官から睨み付けられて、マリーのふたりの補佐官は互いに顔を見合わせた。

「貴官らは”こんな”申請が通ると思っていてマリーを制止しなかったのかね?」

 カルテンブルンナーはそう言うが、階級や社会的地位はさておいて、マリーが部局長であって、ヨストとベストはその補佐官でしかない。マリーが自分の意志で申請書類を書き――その下書きはベストが書いたものだとしても――、さらにカルテンブルンナーに提出して、非常識であるとなじられるのはマリーの自己責任だ。ついでを言えば、ベストとヨストには部局長の決定を覆す権利はない。

「マリーの決定に横槍を入れるのは明白な越権行為かと」

 ベストはマリーのいれてきた紅茶を知識人らしい長く細い繊細な指先で受け取りながら、カルテンブルンナーに言葉を返す。

 もちろん、国家保安本部長官にそんな釈明をしているものの、ベストが明確な反論をマリーにしなかったのは、越権行為であるとか、そんなことを考慮したためではない。

 要するに面倒臭かっただけだ。

 どうせカルテンブルンナーの答えは目に見えていたし、マリーは案外、砂糖菓子のように自分に甘いようだがこうと決めた意志は覆さない。そんなふたりの間で、意見の取りなしをすることも骨が折れたし、時間の無駄だ。そこでマリーに意見書を提出させて、直接カルテンブルンナーと対峙させた方が手っ取り早いという結論に落ち着いた。

 もっとも、これまでマリーと行動を共にしてきたベストだから、彼女がなにかしらの意図を持って決定した案件であるならばその真意にかかわらずなんとかしてやりたいものだとも思った。

 もっと直裁的に言えば、ベストはマリーのやることに反対しているわけではない。

 心配しているだけだ。

「もちろん、それに関してはわたしたちもリスクの説明をしておりますし、この件につきましては彼女も危険はあえて承知の上です」

 マリーは見かけによらず剛胆だ。

 そうでなければ、少女の身の上で「真価の発揮」などできるわけもない。

 彼女は、ベストとヨストを引き連れて、ヒトラーの総統官邸に乗り込んだ。そしてその功績によって現在の地位があると言っても過言ではない。

 それをベストとヨストは知っている。

 危険が及ぶ可能性。

 それは当にふたりの補佐官が共に言って聞かせたことだった。

 ――”スターリンの息子”……。”彼”もスターリンと同じ思考力の足りない”うすらとんかち”だから、少しでもベスト博士とヨスト博士の手のひらの外に出ていく事なんて”とてもとても”あり得ないし、もしかしたらナウヨックスよりも要領悪いかも?

 その「うすらとんかち」と一緒にされては、国家保安本部でも随一の特殊工作員もさすがに気の毒かもしれない。

 身を乗り出すようにして、唇の前に人差し指を立てた少女はそうして青い瞳でベストを覗き込んだ。

 自分のもとに配置された者たちに対する絶対の信頼とでも言えばいいのだろうか。

 味方に対して、そんな無防備さは時に男たちの保護欲をそそる。

「ロシア人に限った話しではありません、長官閣下オーバーグルッペンヒューラー

 ベストは言葉を選んだ。

「長官、あなたが何よりも心配しているだろうことがマリーの身の安全であることはわたしも承知しています。そして、それは我々も同様です。万が一、マリーに危害を加えられるようなことにもなれば、そのときは、わたしは全権を持ってテロリスト……――犯罪者を排除するつもりです」

「……む」

 ベストの強い語気に気圧されたようにカルテンブルンナーは長い指で自分の顎に触れた。

「組織の重要ポストに女性がいるということ事態が、どれほど危険度が高いことであるかは、我々も充分に知っております」

 男性と比べて女性は非力だ。それゆえに心ない者の暴力に晒されれば、手も足も出るわけがない。加えてそれが華奢で儚げなマリーであればなおさらだ。

 実際、彼女はストックホルムで事件に巻き込まれた際に、護衛を務めるオットー・スコルツェニー中尉の一撃によってあっさり気絶させられた。

「カルテンブルンナー博士」

 マリーが国家保安本部長官に呼び掛ける。

「わたしたちは、ロシア人を心の底から理解できるわけじゃないんです。それなら、彼らの側により近い人間を置いた方が彼らの行動を手っ取り早く理解できるんじゃないんですか?」

 いつも彼女の物言いは率直でぞんざいだ。

 子供らしくまっすぐで、素っ気ない。

「ふむ……」

 余りうまい説明とは言えないが、借りてきた人の言葉でわざとらしく頭がよく見えるように見せかけるわけでもない、そんな自分の言葉で説明する少女の態度に好感を抱いた。

 ……と、本人(カルテンブルンナー)は強引に自分の感情に対して理論武装しようとするが、簡単に言うとただの欲目だ。

 愛娘がなにをしても可愛くて仕方がないという感情とよく似ている。

「つまり、君は”彼”の身柄を我々の側に確保しておくことが、我々自身の役に立つとでも言いたいのかね?」

「”たぶん”」

 マリーはそうしてにこりと笑った。

「ふぅむ……、それにしても」

 どこか納得したような顔で、うなり声を上げたカルテンブルンナーは両腕を胸の前で組んでから眉間にしわを刻んで小首を傾ける。

「特定の捕虜を、一組織の管轄下に置くのは、少々難儀するな」

 考えただけでもあちこちからブーイングが飛んできそうだ。

 さてどうやってそれらの批難をかわすべきかとカルテンブルンナーが考える。

「どちらにしろ、国家保安本部でどうこうできる問題ではないな」

 政府高官は多勢に無勢で押し切ればどうにかできるが、問題は親衛隊内部の意思統一だ。

「わかった、やってみよう」

ありがとう(ダンケ)!」

「……マリー」

 ありがとう、と言ったマリーにカルテンブルンナーが真顔で視線を投げかける。

「はい?」

「君の希望を少々力業で押し切るのだから、たまには体で返してもらいたいものだが……」

「……えーっと?」

 わずかにほほえみながらカルテンブルンナーが立ち上がりつつもマリーと視線を合わせる。

「キスのひとつもしてもらいたいものだな」

 そう言われてマリーはクスリと笑った。

「それくらいなら」

そう言って少女はカルテンブルンナーの刀傷の残る頬にキスをする。

 触れるだけの少女の唇の感触に、カルテンブルンナーの眉尻が下がった。

 まったくどこまで親馬鹿なんだか、と内心でベストはあきれながら長く鼻から息を抜いた。

 彼女の存在が、狂犬の集まりとも思われていた国家保安本部を見えない糸でひとつの形へとまとめ上げていく。そしてそこにマリーの意志はない。

 もしかしたら、彼女になんらかの思惑があるのかもしれないが、ヴェルナー・ベストの見るところでは、彼女が利己的に国家保安本部の権力を振るっているところなど見たことがない。

「これで当面親衛隊のお偉方と戦う力も湧いてくると言うものだ。感謝するよ、マリー」

 ニコニコという笑顔が似合わない。

 これくらいひどい評価を受ける親衛隊幹部もなかなかいないだろう。

 執務室を訪ねてきた時の不機嫌さとは正反対に、上機嫌で三人の前を立ち去ったエルンスト・カルテンブルンナーにベストとヨストが苦く笑った。

 ――欲求不満のカルテンブルンナー。

 その存在を、ベストもヨストも知っていた。

 彼の権力は、ヒムラーとダリューゲ、そしてハイドリヒとアイヒマンの間で亡きものとされていた。

 常に抑圧された不満。

 そんな闇を抱えた男。そしてカルテンブルンナーの欲求不満は、アルコール、煙草依存となって現れていた。彼の周りを漂うアルコール臭はさながら黒く垂れ込める雨雲のように彼の意志をどんよりと憂鬱なものと変えていた。

 ハイドリヒの死と共に、マリーが彼の目の前に現れ、まるで春の嵐のように黒く重い雲を吹き飛ばした。

「人間とは変わるものだ」

 あきれかえったベストの言葉に、静かにうつむきながら知的な光を眼差しに閃かせて茶器を片付けているハインツ・ヨストは「そうだな」と控えめに同意しただけだった。

 人は、変わる。

 それは変えがたい現実だった。

 欲求不満のオーストリア人――カルテンブルンナーが変わったように、ヨストもまたマリーの存在によって深い心の傷を癒された。

 カチャカチャと音をたてて備え付けられた簡易流し台のシンクに茶器を置くヨストは、肩越しにしかめっ面のベストからいつもの如く小言を受けているマリーを見やる。

 彼女がいなければ、ヨストは社会的に抹殺されていたかもしれない。

 ラインハルト・ハイドリヒの命じた任務を遂行できなかった。

 過酷な戦場が、エリートとして国外諜報局長として名を馳せたヨストの心をへし折り、そして彼の社会的地位すらも剥奪されようとしたとき、彼を救ったのはひとりの少女だったこと。

「よろしくお願いします、ヨスト博士」

 初めて顔を合わせた時、彼に彼女はそう告げた。

「君は君自身が思うよりも、ずっと魅力的だ」

 キスをせがんだカルテンブルンナーが正直を言えば羨ましくも思った。たかが次席補佐官でしかない彼には、部署長の彼女にそんなことを言えはしない。

 天真爛漫な、屈託のない笑顔が彼の心を救った。

 血に染まった彼の手を躊躇せずにとった彼女の無神経さに心を捕らわれた。

「……まだ、わたしに居場所は残されていた」

 その安堵感。

 子供らしい無邪気さが、時に人を救う力を持っていることをヨストは実感させられることになる。

「……わっ!」

 穏やかな気持ちのまま、ヨストが茶器に水を通して片付けてから振り返ると、そこには背中で腕を組んで彼を覗き込んでいたマリーが立っていた。彼女が余りにも気配もなく立っていたものだから、心の底から驚いて声を上げたハインツ・ヨストにマリーはころころと笑う。

「真剣な顔して食器洗いしてるんですもの」

 「少将閣下」がそんなことしなくてもいいのに。

 マリーが言うと、ヨストはかすかに笑みを返してから表情を取り繕って歩きだした。

「なに、綺麗にしておかないとカビが生える」

「そうね」

 口元に手をあてて笑った彼女は、唐突にヨストに向かって背伸びをするとその頬にキスをする。

「ヨスト博士、いつもありがとう」

 マリーの行動と、言葉にヨストは息が止まるほど驚いて絶句した。

「い、いや……、礼を言われるほどのことはしていない」

「ちゃんとお礼言いなさいって、ベスト博士に言われたの」

 マリーが笑っている。

 彼の視界の中で。

 花のように、風のように。

 彼女は、ヨストの心に吹き抜けた、春の風だ。

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