13 軋みを立てる音
現実とは、皮肉にも片面のみでは存在しない。
ありとあらゆる事象が組紐のように”何らか”の意図を持って束ねられ、さらにそれは複雑に絡み合っていて二度とほどけることはない。
意志と意志の衝突の、その余波。
ぞっとするほど巨大な波の原初にあるのは、強大にして圧倒的なカリスマではなく、もっとつまらぬ取るに足りないものだ。
――気が小さくて、自分に他人の生殺与奪の権利があると、”馬鹿”みたいに思い込んでいる、おめでたいトリ頭。人間なんて、”所詮”ちっぽけな存在よ。
信念を持つのはとっても結構なことだと思うけれど、愚図で低能な”間抜け”を肉親だからというたったそれだけの理由で、何の疑いもなく信用しているのなら、「あなた」自身も。
少女は「彼」と真正面に向かい合った小さな部屋で、ロシア語でごく自然に語りかけた。
「あなたは、共産主義という化けの皮を被った”鉄の男”と名乗る新興宗教に盲信し、取り憑かれているにすぎないの」
――あなたの意志は「どこ」にあるの?
真顔で彼女は告げる。
見たこともない金髪の、青い瞳の、まるでスカンジナビアに伝わる妖精のように可憐な少女。
そうして彼女はクスクスと笑い声を上げる。
耳障りな。
「完全な、全ての人間が平等でいられる世界なんて、あるわけがないのに」
花が咲くような笑顔で、口調も優しく穏やかに。そうして彼女はこれ以上なく冷ややかにそう告げた。
――世迷い言を。
「それは、あなたが一番知っているでしょう? だって、あなたは特権を得ている側。そんなあなたが世迷い言を言ったところで、誰も信じたりはしない。そうして、だからこそ、鉄の男は破綻した」
耳に良く響く彼女の声が紡ぐ言葉を、まるでローレライに取り憑かれた船頭のように青年は耳を傾けている。
はじめこそは時折、扉の覗き穴から覗いている視線が気になっていたものの、彼女の言葉を聞いているうちにそんなものはとても気にならなくなってしまった。
ローレライの歌声に、まるで水底に引きずり込まれていく。
数々の伝説の歌われたライン川。
「……そして、”彼”も」
やがてぽつりと独白するほど小さな声で付け足した少女は金色の睫毛を震わせた。
金の髪の青い瞳の、少女の声が消えていかない。声を消したくて、自らの頭を強く壁にたたきつけてみても消えはしない。
けれども、生まれてしまった自己矛盾は、どうすることもできなくてヤーコフ・ジュガシヴィリは言葉にならない声で絶叫した。
父親を否定することは、彼を信じてきた自分を否定することだ。
自分を否定することが父親を否定することではない。頭でわかっていることが、感情で納得できない。
父親が間違った道を選んだのなら、それを正すのは息子の役目だ。しかし、それは究極の自己否定。
――僕を、愛して。
――僕を好きになって。
――僕を必要でいて……。
幼い頃からヤーコフの心を蝕み続けた強烈な飢餓。
喉をかきむしるような、腹の底から生まれたヤーコフの咆哮だった。
国家元首、ヨシフ・スターリンの息子と言われながら、愛情を傾けられたことなどほとんど覚えのない彼は胸の内に人々が想像を絶する飢餓を育て続けた。
「……わたしはマリー、はじめまして。ヤーコフ」
やめるんだ、というドイツ語の制止も聞かず、ヤーコフ・ジュガシヴィリはまるで自傷行為ででもあるかのように壁に頭をたたきつけた。
痛みなど当にわからない。
やがて力尽くで壁から引きはがされたヤーコフは、両わきから看守に引きはがされながらうなだれて顔を覆う。
「僕は、父さんを裏切ったりしない……」
彼女の声が耳の奥から消えていかない。
それが辛くて、苦しくて、ヤーコフ・ジュガシヴィリはただただすすり泣くように嗚咽をこぼす。
「あなたは、いらない子供」
突き刺さるような少女の声が、数ヶ月もの間、ヤーコフの心を苦しめ続けた。
「……違う!」
「あら、なら、どうしてスターリンはゲッベルスの取り引きに応じなかったのかしら?」
「それは、わたしの父が人民の父であるからだ……!」
叫ぶように応じたヤーコフ・ジュガシヴィリに、マリーは唇の端をつり上げた。
「たかがひとりのちっぽけな人間が、二億もの人間の”父”たる権利があると思って?」
真顔で問いかけるマリーに、ヤーコフは絶句した。
彼女は、彼の中にある自己矛盾に気がついている。そう悟った。
「わたしの父は……、わたしの父は……」
その先を言えないままに同じ言葉を繰り返すソビエト連邦の元国家元首の息子と呼ばれる青年に、少女はにこりとほほえんだ。
「あなたの父親は、”わたし”を殺した」
*
「正気かね?」
「はい?」
差しだされたタイプライターで打たれた書類を両手で受け取りながら、マリーは小首を傾げた。
「なにがです?」
「スターリンの息子を我が特別保安諜報部に迎えるというのは」
「本気です」
けろりとして即答したマリーに、ヴェルナー・ベスト親衛隊中将はやれやれと溜め息をついた。
なにせ、ショル兄妹を秘書として採用する時でさえ内部で大反対が起こったのだ。
ゲシュタポにいる数名の外国人はともかく、特別保安諜報部は国家保安本部国外諜報局の指揮下であり、さらに親衛隊全国指導者個人幕僚本部の指揮下にある。加えて、実質的には親衛隊全国指導者ハインリヒ・ヒムラーの私設警察部隊でもある。
その国家中枢により近い部局に、外国人――しかもよりによってヨシフ・スターリンの息子を引き入れるというのである。
そうした計画があるというのは、一ヶ月ほど前に聞かされた。
しかし、その間、ベストが何度か案件に対して問いかけてみてものらりくらりと質問を交わされ続けていたのだった。
「ソフィアとハンスの例があるから、上の人たちだってまたか、くらいしか思わないんじゃないかしら」
楽観的なマリーの言葉にベストは鼻から息を抜くと、隣に置いていた椅子を引き寄せて生徒に勉強を教えている家庭教師のような姿勢になった。
「彼を特別保安諜報部に迎えるなら、それはそれで順序がある。だからわたしはしつこく君にそうした計画があるのかを聞いていたのだ」
小言を言うようないつものベストの厳しくも優しい言葉遣いにマリーは、朗らかに笑い声を上げると小さな頭をベストの肩にもたれかけさせる。
「ごめんなさい」
「これは仮定の話しになるが、おそらくミュラー中将やカルテンブルンナー大将辺りが大反対するぞ」
ショル兄妹どころではない。
彼女が引き入れようとしているのは、敵国の、要人だ。
「大丈夫ですよ」
いつもの調子でベストの肩に顎を乗せた少女は、じっと青い瞳で彼を覗き込む。
「それで、あのときはいったい何の話しをしていたのだ?」
「大した話しじゃないですよ。ただ、彼のお父さんの話とか、政治の話し」
「君が政治に興味を持っていたとは初耳だな」
一瞬で素早く思考を展開するとヴェルナー・ベストは的確に言葉を返す。
「あれ? わたしはドイツの味方だって言ったじゃないですか」
「君の頭ではどうすればそれが政治の話しになるのか、わたしが納得できるように説明してもらいたいものだな」
ベスト博士はいつも意地悪ばっかり。
ぷっくりと頬を膨らませたマリーは、ない胸を上下させてから小首を傾けた。
「そんなに膨らんでばかりではブスになるぞ」
「どうせブスですー」
長く骨張った指に頬をつねられて片目を細めた彼女は、書類に視線を落としながら執務机の片隅のデスクペンを手に取った。
「この文章、少しわたしの文に直していいですか?」
「構わんよ、だから君に目を通してもらいたかったのだから」
いかにも他人の書いた文面ではおそらく国家保安本部長官、エルンスト・カルテンブルンナーは書類の決裁をしないだろう。
それは、ヤーコフ・ジュガシヴィリを特別保安諜報部に迎えるための許可を申請する書類だった。マリーらしさのある書類のほうが、申請は許可されるだろうと思われる。
「君が推敲したら、もう一度タイプライターで打たせよう」
ふわりと香る花の香り。
薄くつけた香水は、いったい誰が彼女にプレゼントしたものだろう。
「マリー、君はもう少し香水が薄い方がいい」
ベストが指摘するとマリーは素直に「はーい」と返事をした。
「よく女性らがつけている香水だな」
「フランスの有名なデザイナーの作った香水ですって、有名なんだって、シェレンベルクがくれたの」
「なるほど」
現在の情勢下で「フランスの有名デザイナー」ともなればたかが知れているが、問題の有名デザイナーの身の回りについては少しばかり不穏な話題も聞こえていた。
「確か、フランスのシャネルだったか」
「よく知らないわ」
シャネルの身の回りについて不審を感じたシェレンベルクがなにかをかぎ回っているらしいが、頭の固いベストには若い法学博士がなにを根拠に彼女の周囲に怪しいものを感じたのかは理解しがたかった。
フランス出身の女性デザイナー。噂では、ヨーロッパ全土の社交界の中心にすらと言われる女。彼女のデザインした服はどこかモダンで、一目を惹きつける花を持つ。
そんな服をマリーが着たらとも想像してみるが、どうにも貧弱な体型の彼女では余り似合いそうもなくてとりあえずベストはかぶりを振った。誰もがはっとして振り返る華やかさよりも、野の花のような品の良さの中にある愛らしさのほうが彼女には似合う気がした。
「そういえば、ヒムラー長官が作ってくれたコートは着ないのかね?」
「あれ重いの……」
いつも人事局長と共に仕立てた白いマントを身につけているマリーは、ヒムラーが慌てて彼女のために作らせたというコートを着ているところを見たことがない。
他には、褐色のブラウスなども作らせたらしいが、目に見えてマリーに不評だった。
流行遅れの古着でも嫌な顔ひとつしないマリーが、新品の褐色のブラウスを嬉しそうなヒムラーから手渡されてあからさまに眉をひそめた。そして褐色のブラウスはそれっきり着用しているところを見ていない。
「妻が、ネクタイを可愛らしくしてやろうと言っていたから持ってきなさい」
そうシュトレッケンバッハに言われた数日後、マリーのネクタイは白い花柄の刺繍が施されて戻ってきた。
黒いネクタイに白い花柄の刺繍。
これにはマリーも喜んで、シュトレッケンバッハの頬にキスをして礼を言った。
ちなみにシュトレッケンバッハのほうはと言えばまんざらでもなさそうで、厳つい顔に穏やかな笑みをたたえていた。
しかし褐色のブラウスはどうしようもない。
「マリー、ブラウスは着ないのかね?」
「……――」
問いかけられてマリーが絶句する。
もごもごとなにかを口の中で繰り返してから、結局黙って書類にペンを走らせている。
「気に入らないなら、一度、わたしが制服を仕立ててもらっている仕立て屋に持って行って相談してみるか?」
「……どうにかなるかしら」
困惑しきって少女がぼそりと言うと、ベストは鼻から息を抜いてほほえんだ。
「どうにかしてもらおう。気に入らないのだろう?」
人々があずかり知らぬところで、そうして歴史の歯車は巡っていく……――。




