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神々の黄昏 ― Vaterland ―  作者: sakura
III 悪の華
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8 聖母の采配

 おそらく。

 シェレンベルクは推察した。

 今は目の前にいない少女――マリア・ハイドリヒとヒムラーの間でなにか”政治的”な取引でもあったのだろう。ハインリヒ・ヒムラーが他者に聞かれたくはない「なにか」が。

 ちなみに、彼女が名乗ったマリー・ロセターと、シェレンベルクらが与えたマリア・ハイドリヒという名前。それらがどうにも混乱するので彼女はもう「マリア・ハイドリヒ」で良い、ということにした。

 正直なところ、女性諜報員というのは諜報機関にとっては貴重な存在だ。

 一局の局長であり、国家保安本部長官代理を務めるブルーノ・シュトレッケンバッハは面白くなさそうだが、ヒムラーがこうと決めてしまっただろう命令はもう覆すことなどできはしない。

 ちなみに形としては現在の所、シェレンベルクの部下としておさまっているが、実はそれは違う。

 彼女のビロードの腕章に取り付けられたSD章と、もうひとつ。本来は制服の袖につけられるべきカフタイトルが縫い付けられている。

 ――RFSS。

 ヒムラーの、ナチス親衛隊全国指導者個人幕僚本部所属を示すカフタイトルだ。

 仰々しいことこのうえないが、それらをつけることによって彼女はその年齢不相応のその身分を守っていると言ってもいいだろう。

 ラインハルト・ハイドリヒの分身であるかどうかはこの際どうでも良いが、今のマリーは恐ろしく頭の回転が速くなっている。

 まるでかつてのハイドリヒのようだ。

 ヒムラーの「取りなし」によって急速にその地盤を固めていくマリーは、はたしてヒムラーのなにを握っているのだろう?

 ここのところの一通りの書類に目を通した彼女は過去の書類には目も暮れなかった。それはまるで、その前に起きたことなど知っているとでも言いたげだった。

 足が余り良くはなく、さらに腕力もない少女がひとりで行動するにはひどく骨が折れる。そのため、護衛官兼運転手としてひとりの士官が彼女のために宛がわれた。

 階級的に彼女の上になるのだが、立場的には彼女の下だ。

 それらのややこしい人事を(かんが)みても、ヒムラーは彼女になにやら弱みを握られているのだ。ただの十代の少女相手になにを恐れる必要があるのだろう。

 シェレンベルクはそう結論づけた。

 自由に動き回れる権利を得た彼女は、お供の親衛隊将校を引き連れて好きなように歩き回っているが、シェレンベルクは念のため、自分の部下のひとりを彼女につけた。そうすればなんらかの動きがあった場合、シェレンベルクに彼の部下を通して直接上がってくるはずだ。

 別段、彼女の身の安全を考慮したための配置ではない。

 ナチス親衛隊という組織は魔物の巣だ。

 互いが互いの主導権を握ろうとして常に謀略を巡らせている。

「さてはて」

 ひとりごちたシェレンベルクは、マリーが残していった書類をぺらりとひっくり返した。

 そこに書かれている文字。それに、シェレンベルクは目を細めた。

 まるで女性らしからぬ、とでも言えばいいのか。それともかわいげがないとでも言えばいいのだろうか。シェレンベルクはその字を”知って”いた。

 そこに書かれた内容は頭がいかれている、とでも言えばいいのだろうか。それとも、彼女に何らかの思惑があるか、のどちらかだろう。

 書類を眺めたままで数秒間考え込んだシェレンベルクは、手早く一通の封筒に入れて封をする。そうして自分の名前で署名をしてから秘書の女性に手渡した。

「これをマッテゾンに渡してくれ。ヒムラー長官に届けてもらいたい」

「承知しました」

 応じて背中を向けた秘書を見送って、シェレンベルクは視線を泳がせると深く自分の椅子に背中を預けて目を細める。

 ウルリヒ・マッテゾンは充分に信頼の置けるシェレンベルクの部下だ。雑用に使ってしまうのは本人には申し訳ないが、それも信頼の証だ。

 どちらにしたところで、ドイツ国内に各国の諜報部員が暗躍していることは明らかだ。彼らがどう動くか、それが目下のシェレンベルクの関心事だ。

 その日の夕方、シェレンベルクのもとに思わぬ情報が複数筋から舞い込んだ。

 ――アメリカで大規模な有色人種による暴動が発生した。

 ドイツ第三帝国の反ユダヤ主義について眉をひそめていたアメリカも、国内に問題を抱えていないわけではない。

 抱えていないわけではないどころか、ほんのわずかなきっかけで暴発するような危機感すら孕んでいるのがアメリカの国内情勢だ。どこの国でも大なり小なりの問題が存在しているものだが、アメリカ合衆国の場合その問題というのは人口も、民族も人種すら多種多様なため問題も多岐にわたっているのだった。

 その中のひとつが、アメリカ合衆国の古き負の遺産――人種問題だ。

 主にその矛先として向けられていたのがアフリカ系黒人たちで、彼らは前時代に強制連行されたアフリカ奴隷たちの子孫である。

「有色人種にも白人と同じ人権を……!」

 それをスローガンに掲げ、一部の白人有識者たちと共に政府の行っている日系アメリカ人強制収容所に関する問題を強烈にバッシングしたのが事の発端だった。

 それはソビエト連邦に対して援助を続けるローズヴェルトに対する批判でもあり、人権を顧みないソ連を援助していながら、国内の有色人種に対する扱いが未だに未着手であることに対して民衆の怒りが臨界点に達した結果でもある。

 瞬く間にアメリカ全土に広がった人種差別撤廃運動は、アメリカ国内に在住する白人たちを混乱に陥れることになった。

 ちなみにその情報は連合国に配置した諜報部員からシェレンベルクのもとに入ってきてはいたのであるが。それでも、暴動にまで発展する事態になるとは思わなかった。

「ユダヤ人解放を唱えていながら、国内の黒人に対する扱いはなんなのだ……!」

「我々有色人種はアメリカの奴隷なのか!」

「ローズヴェルトは口では民族解放など唱えていながら、国民へ対する誠実さなど持ってはいないではないか!」

 黒人たちを中心とした暴動は大きくふくれあがり、そうして白人の経営する商店に対する暴行にすら発展した。中には非暴力を訴え、レストランなどの白人席に居座るだけの集団もいたが、アメリカ各地で起こったこうした流れに過敏な反応を示したのがKKKクー・クラックス・クランなどの白人至上主義団体だった。

 有色人種たちと白人至上主義団体が真っ向から対立し、互いに暴力に訴えるという事態に発展したため、各地の警察組織だけでは手に負えない状況へと陥った。そのためアメリカ合衆国は州兵を投入するが、これが有色人種たちの怒りの火に油を注ぐ結果になるのだった。

 ソビエト連邦で軍事クーデター。

 それに引き続いてのこの情報にシェレンベルクとオーレンドルフはティルピッツ・ウーファーにある国防軍情報部のヴィルヘルム・カナリスの元を訪れていた。 

「アメリカの暴動の件かな?」

 彼らが室内に入ると、椅子に深く腰をおろしたカナリスが、老眼鏡を外しながら手にしていた新聞をデスクの脇に避けながらそう問いかける。

「はい、ご存じでしたか」

 ソビエト連邦の動きについては現在のところ、東部に配置されているラインハルト・ゲーレン少将が動向を探っている。

 ゲーレンの張り巡らせた諜報網は東部戦線での多くの情報を察知した。

 もちろん、それらの情報は国防軍情報部にも報告される。現状、東部戦線の作戦行動には武装親衛隊は配置されておらず、後方で再編中のため陸空軍を中心とした青作戦が展開されている。

 南方の油田地帯の占領、確保と、ソ連赤軍の補給路を断つことによって長期的に赤軍の足を止め抵抗力を削ぐことが目的だ。

 もっとも現状として、背後から軍事クーデターを引き起こしたフュードル・クズネツォフ一派と結果として挟撃する形になっているが、彼らと連絡をとりあいながら作戦を展開しているわけではない以上、突然の心変わりも考えられる。

 ロシア人を頭から信用することは危険なことだ。そうシェレンベルクは考える。

「陸軍の西方外国軍課からの報告ではどうなんです?」

 正直なところ、空軍と海軍の諜報部に大した信頼は寄せていない。

 外務省諜報部など言わずもがなだ。

 臆することなく問いかけたシェレンベルクにヴィルヘルム・カナリスは年若い諜報局の局長たちを見つめてから、小さく肩をすくめた。

「アメリカの暴動は州兵がでる事態になったらしいな」

「そのようです、提督」

「ソ連の、ヴォロシーロフ暗殺事件に絡んでの事態とみている」

 根幹にある事件はそれなのだ。

 ソ連赤軍は言うまでもなく、政府内にもヨシフ・スターリンには敵が多い。そもそも敵ではなかったりする人間を敵として認定しているだけなのだが、結果としてスターリンは自ら敵を作りだしているのだ。

「興味深いですね」

 目を細めたのは国内諜報局の局長、オットー・オーレンドルフだった。

 シェレンベルクとは異なり、カナリスとそれほど親密な関係を築いているわけではないが、それでも、年若いオーレンドルフにしてみればカナリスには学ぶべき点が多かった。

「SDの局長がふたりそろって来ると連絡をもらったときはさすがに驚いたが」

「提督が驚くなど、またご冗談を」

 苦笑したシェレンベルクにカナリスは、かすかに片方の眉を引き上げてから、執務室に首席補佐官のハンス・オスターが入ってくるのを認めてから、軽く自分の肩をたたいた。

 ハンス・オスターは人目をはばからない反ナチス派の情報将校で、カナリスの厚い信頼を受けている。

 ちらと冷たくも見える目でふたりの親衛隊情報将校を見やった。オスターがナチス親衛隊に対して好ましくはない感情を抱いているのはシェレンベルクも知っていたから、それについては触れない。

「どうやら、こぞってアメリカのジャーナリスト共が例の事件を取り上げてくれたらしい」

 例の事件、というのは考えるまでもない。

 スモレンスクの近郊、カチンの森で行われた虐殺事件のことだろう。もっとも、ほぼ同時期にドイツ軍もアインザッツグルッペンを投入して、ポーランド第二共和国における指導階級の抹殺に及んでいるわけだから、それについて責めるべくもないのだが、他国の弱みは都合よく利用するのもまた戦争だ。

「そうですか、それはありがたいですね」

 シェレンベルクの言葉にカナリスが首をすくめた。

 勝てない戦争など長々と継続するべきではないが、最良の結果を導き出すために国家のありとあらゆる人間たちが働いているのだから。

 他国を救おうとするアメリカ政府首脳部の思惑は唐突に内外から強い批判を受けることにつながってしまったが、現状のところは未だにソ連へ対する援助を続けていた。

 もちろんイギリス首相のチャーチルもソ連に対して初めから厳しい眼差しを向けていたわけではない。警戒視こそすれ、ドイツの侵攻を受けたことに同情もしていたのだが、軍事クーデターを起こしたクズネツォフらによるカチンの森によって行われた虐殺事件に対して不快感をあらわにせざるを得なかった。

 というのも、イギリスにはポーランドの亡命政権が存在していたのだから。

「とりあえずこちらに向けられている目をそらす絶好のチャンスです」

 アメリカの国内事情が落ち着きを取り戻し、ソビエト連邦の軍事クーデターが失敗に終わるのであれ。それらの混乱の渦中に、ドイツ第三帝国に都合の良い工作を行うことは可能だ。欲深く望むならその混乱からの立ち直りが遅ければ遅いほど好都合だ。

 その分時間を稼ぐことができるのだから。

「ところで、彼女がSDに配属されたという話しを”風の噂”で聞いたのだが」

 彼女、という言葉にハンス・オスターがあからさまに不快げな顔をした。オスターはナチス親衛隊に対する敵愾心を隠そうともしないが、シェレンベルクは彼についてはそれはそれで良いと思っている。

 どんな組織であれ一枚岩ではあり得ない。

 なによりも複数の選択肢があったほうが、いざというときにフットワークが軽くて助かることもある。

「はい、今はわたしの……。第六局の局員を務めております」

「そうか」

 礼を失しない程度に親しげなヴァルター・シェレンベルクに、カナリスは相づちを打つようにつぶやいてから目を上げる。

「国内に、潜伏しているだろう連合側の諜報員に充分気をつけることだ」

 諜報員だけではない。

 パルチザンやレジスタンス。

 あるいはその他の抵抗組織によって年若い少女の情報部員の存在が表沙汰になることもあるだろう。

「承知しております」

 いずれ情報は連合側に伝わる。

 それをシェレンベルクも、そして第三局の局長であるオーレンドルフも理解していた。

「しかし驚いたな。あの親衛隊長官閣下が存外あっさり彼女に地位を与えたものだ」

「その件ですが、おそらく政治的ななにかしらの取引があったのではないかと推察します」

「なるほど……」

 シェレンベルクの言葉に頷きながらカナリスは、もうひとりの年若い諜報局長のオットー・オーレンドルフを見やった。

「長官が、彼女になにかしらの弱みを握られている、ということは国家保安本部の管理職の中では暗黙の了解ですので、お気になさいますな」

「ふむ」

 自分がその場にいることに対して気にしないでほしい、という趣旨のオーレンドルフの告げた内容は事実無根だ。彼はシェレンベルクと同じく諜報部員であるから状況を分析した結果そのような結論に達しただけで、他の高官たちがオーレンドルフらと同じように説明も抜きに現状を理解しているとは思っていない。

「親衛隊の情報部は優秀な者がそろっているからな」

 含みを持たせたカナリスの言葉に、シェレンベルクとオーレンドルフはそれに対して言葉を返さずに低く笑った。

「優柔不断な親衛隊長官閣下の金玉を握れるような奴はなかなかいない。あの男をうまくコントロールする人間が必要だ。そうでなければ、あの男は周りの人間の言葉に振り回されて、自滅した結論を導き出すことになりかねん。シェレンベルク大佐、オーレンドルフ少将。充分に親衛隊長官閣下の周りに気を配れ」

「はい」

 彼が優柔不断であることはふたりの若い諜報局長から見ても明らかなことだった。

 良くも悪くも、今まではハイドリヒが彼をコントロールしてきた。周りの欲深な男たちを押さえ込んで、それが可能だったのはラインハルト・ハイドリヒだけだ。

 しかし、そのハイドリヒが死んでしまったことによって、誰が主導権を握るか。そのことでハインリヒ・ヒムラーの周りは混乱を極めていた。

 ――些細なことで右往左往するような男は権力者の器ではない。

「……聖母は、狂信の徒を御す才能があるか?」

「あるいは、おそらく……」

 カナリスの言葉にシェレンベルクが言った。

 重要なことはそこだ。

 ヒムラーは強い意見に流されやすく、優柔不断でころころと意見が変わる。それを圧倒的な力で押さえ込める人間が必要だった。

 オーレンドルフもそれを実感している。

 国家保安本部内をヒムラー派に置き換えようとしているが、そもそも根本的にそんな行為すら無駄なのだ。

 自分の出世欲に取り憑かれた凡人が、こぞって親衛隊長官を自分の支配下に置こうとしているような状況ではヒムラーは最悪の結果を導き出しかねない。

 ヒムラーの周りにいるのは、媚びへつらう人間ばかりだ。

「ハイドリヒは、(けだもの)だった。だが、それでも彼を制御し続けてきたことはある種の才能だ」

「はい」

 今のところ、彼女の影響下にはゲシュタポの長官ハインリヒ・ミュラー、突撃隊幕僚長ヴィクトール・ルッツェ、オーストリアの親衛隊及び警察高級指導者エルンスト・カルテンブルンナーなどがいる。思惑はどうあれ、彼らを手のひらの上で転がしハインリヒ・ヒムラーの首根っこをうまく捕らえたことはマリーの才能だろう。

「君らのやり方は好かんが、今の親衛隊には強力なカリスマを持つ指導者が必要だ」

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