12 死に神の大鎌
イギリス海軍情報部長官を務めるジョン・ゴドフリーは苛立っていた。
タバコをイライラと噛みしめながら眉をひそめる。
なにかに妨害されている。
同盟国――目下、格下だと彼が思っている――アメリカ合衆国の思惑もわからない。
「失礼いたします、提督」
「あぁ、忙しいのに申し訳ない」
「いえ、部下が優秀ですので問題ありませんからお構いなく」
そう言いながらほほえんだ禿げ頭の紳士は手慰みのようにネクタイを直してから首を傾けてソファに腰を下ろした。
「ドイツの爆撃は相変わらずのようですな」
「最近は空襲も少々激しさを増している」
「そのようで。おそらくソビエトとの戦争が一段落したせいでしょう」
「うむ」
冷静な陸軍大佐は、窓の外を厳しい眼差しで見つめているゴドフリーを眺めてから肩をすくめて見せた。
「ところで、メンジーズ大佐」
タバコをつまんだゴドフリーは灰皿に押しつけるようにしながら踵を返すと、ソファに腰を下ろしている剛胆な、けれども誰よりも神経質な男に向き直る。
「はい」
「ドイツの諜報部門の動きが活発化している。それについてなにか情報を掴んでおらんかな?」
「……――」
問いかけられて軍事情報部第六課の長官を務めるスチュワート・メンジーズは黙り込んだ。
「確かに、ドイツの諜報部門の動きが活発化しているのは事実です。スイス政府も、ドイツの恫喝に我々への支援へも尻込みするような状況に陥っております。なにより、共産主義者共の情報網――赤いオーケストラの発覚と摘発の損失は大きい」
「スターリンの間抜けがボロを出しさえしなければ、我々はこれほど苦境に追い込まれることはなかったのだ」
「……提督、スターリンのボロについてですが、よろしいでしょうか?」
「おそらく東部戦線に展開する部隊と赤いオーケストラの双方の事情から、”敵”がドイツの暗号を解読している可能性を突き止めたものと考えられます。これに加えて、ドイツの諜報部を指揮する人間が相当に頭の回る男なのではなかろうかと考えられますが……」
「ドイツのスパイと言えば、先の大戦から有名な海軍のカナリスがいるな」
ドイツ海軍のスパイ・マスター、ヴィルヘルム・カナリス。
先の大戦の際、カナリスの逮捕を目論んだが結局、英仏連合の諜報部員らよりも一枚上手のカナリスは素知らぬ顔で祖国ドイツへと逃げおおせた。
また、フランスで銃殺された女スパイ、マタ・ハリとも親交があったとも、男女の関係であったとも言われるが、なにせ諜報部員の情報などどこまで真実なのか知れたものではない。
「カナリスは、抜け目のない男です」
スチュワート・メンジーズの相づちにジョン・ゴドフリーは無言で頷くと、彼の前のソファに腰を下ろした。
「しかし、おそらく例の赤いオーケストラの摘発については、カナリスの指揮によるものではないかと思われます」
淡々としたメンジーズに、海軍情報部長官は胸の前で腕を組んでから目の前の陸軍大佐に視線をやった。
「……というと?」
互いに答えはわかりきっていてゴドフリーは問いかける。
そして、答えを促されたメンジーズにもわかりきっていた。
互いが互いの答えを理解している。
「”癖”が異なります」
「ふむ」
癖が違う。
そう言い切ったメンジーズに、ゴドフリーは顎に手を当てるとそっと眉間を寄せて執務室の天井を見上げた。
諜報活動というものは特殊な任務である故に、諜報部員個人の癖が大きく出る。もちろんそれは解析する人間が一流でなければ判別も不可能なほど微細な差異で、だからこそスチュワート・メンジーズは「癖が違う」という言葉を使ったのだろう。
一流ではない者が「癖が違う」などと言ったところで、ただのお笑いぐさにしかならない。
「カナリスはもっと慎重な男です。それは提督もご存じのはずです。なにより、彼は海軍出身ですので、我々の評価はともかくとして大陸国の陸軍の人間からはそれほど大きな評価は受けておりません」
カナリスの評価をしてから数秒沈黙したメンジーズは一度両膝の上で組み合わせていた自分の手を見つめてからゴドフリーに視線を上げた。
「スイスにおけるドイツ諜報部の”行動”は、あからさまに大胆で怖い者知らず。まるでやんちゃなクソガキのようです。つまり、カナリスではあり得ない」
カナリスではない。
先の欧州大戦ではドイツ海軍の潜水艦長を努めた慎重で、計算高く老練なカナリスのやり方とはとても似ても似つかない。
「意見は一致しているようだな」
長い息をついてゴドフリーは同意してから、苛立ちを隠せないまま組んだ腕を右手の人差し指でとんとんと軽くたたいている。
「いずれにしろ、共産主義者共が自らの物量に過信していた間にドイツは力をため込んでいた、そして……」
「アメリカ人の士気の低下だ」
「そう、それです」
言葉少なに告げるゴドフリーに、メンジーズは仏頂面のままで溜め息をついた。
「ドイツ人共がどこまで事態を予測していたかは不明です。今のところは。ですが、このアメリカ人の士気の低下が見られるだろうことを彼らは予想していたに違いありません」
もちろんそのためには状況に身を任せているだけでは話にならない。
諜報部員が率先して行動して初めて結果を導き出すことができるのだ。
「おそらく、我が国を支援するアメリカ合衆国の支援部隊の士気の低下を計算に入れていた。そして、彼らが計算にいれていたということは、つまるところ全てが彼らの手のひらの上で転がされていたということです」
「しかし、どのように?」
「ゴドフリー提督もご存じかと思われますが、先頃、我が国の特殊部隊によって”殲滅”されたテロリストたちは、アメリカ人医師でした。そして、彼らはドイツ系であり、ドイツ系は一見してアメリカを含めたヨーロッパ諸国では区別がつきません」
確かに血族的な意味で考えれば見極めは可能だ。
しかし、陸続きのヨーロッパという地理的な問題と、アメリカ合衆国という人種の坩堝であるという環境から、「互い」が敵方に属しているかということは徹底的な調査を行わなければ判別できない。
そして、イギリスの植民地でもあるインドの奥地にあるという村の存在が彼らの存在をひた隠しにしていた。
「彼らは、ナチス党員でした」
ずばりと核心に切り込んだメンジーズが深刻な光を瞳にたたえていた。
その事実はゴドフリーも報告を受けている。
だからこそ、「殲滅する」しかなかったのだ。
敵は滅ぼさなければならない。
たとえ、それが無抵抗の市民であったとしても。戦場において――戦争にあって、不安要素は排除しなければならない。
「そうだ」
「人の心を”読むこと”ができればまた、人の行動を支配することも可能であるかと考えます」
「……メンジーズ大佐?」
それはどういうことなのかと問いかけるゴドフリーが、内心でぞっとするような可能性にたどり着いて肩を震わせた。
「それは、それは……」
唇の端を震わせてゴドフリーが言葉を失っていると、スチュワート・メンジーズは答えを口にする前に大きく首を縦に振ってから、改めて口を開いた。
「人の心とは、存外不便なものです。そして、その人の心を何者かが手玉に取っているゆえにこの結果なのではないかと思われます」
そこに映るのは小さな波紋。
けれども波紋はやがて大陸と大陸との間を行き来して、消えていくのではなく巨大な波――津波となって打ち寄せる。
その巨大な波はやがて全世界を巻き込むことになるだろう。
「提督、申し上げます」
意を決したようにメンジーズは目を上げると、小さくした唇を噛みしめた。
諜報部に所属する人間だからこそ、メンジーズは現実を見つめなければならない。そして、前線に立つ軍人たちのように「希望的観測」などに左右されていてはならないのだ。
「このままでは我が国は、重大な危機的状況に追い込まれることになるでしょう。ドイツ軍はソビエトとの戦いに一息つき、現在その力を取り戻しつつあります。そうなれば、彼らは北アフリカにおける戦線を早急に片付けることをまず第一の目標とするはずです。なによりも二年前の失敗に彼らも学んでいるはずですので、危険な二正面戦争は避けてくるものと考えられます。そして北アフリカ……、エジプトを制圧しスエズ運河を手中にすれば、連中はジブラルタル、そしてマダガスカル島に目を向けるでしょう」
軍事的要所はいくつもある。
その中で重要視されるマルタ島はすでに陥落した。
そして北アフリカ戦線は伝染病の蔓延によって阿鼻叫喚の地獄絵図が描き出された。エジプト政府を介して国際赤十字が現地入りしているが、これを機にドイツ軍は一気に巻き返しをはかってくるだろう。
そして、地中海の要所を手中にすれば――もしくはその前に――、彼らはイギリス本土に目を向けてくるはずだ。
イギリスには多くの亡命政府が乱立している。
イギリスというヨーロッパ大陸から切り離された島国は、対ドイツ戦線の最前線とも言える。だからこそ、戦況が落ち着けばヒトラーが黙っていないことは容易に想像が付く。
「アメリカの士気が低下しつつあることは提督もご存じとは思いますが、このままこの状況があと半年続けば、アメリカ世論は爆発します。加えて、現在、アメリカの大統領がふたりも連続して暗殺される緊急事態に陥っております」
世界は混乱に満ちている。
そしてその中核を担う国力を持つ国が及び腰になっている。
「彼らは自国の人間が危機的状況に陥ったことがありません、ですからそうした状況に陥ったときに我々以上に恐れを抱くのです」
大陸国であるドイツやフランスは後が互いに攻め込まれれば後がないことを知っている。そして祖国の大地が戦場になる事態も知っている。
しかしアメリカ合衆国――新大陸の連中にとってはそうではないのだ。
新大陸の人間にとって、戦争とは他人の大地で行われるもので、現実感がひどく乏しい。
「フーヴァーをご覧なさい」
メンジーズが言った。
「彼は、彼自身が危険に陥ることがないとわかっているからあれほど余裕でいられるのです」
軍事情報部第六課の指揮官は、自分の膝の上できつく拳を握りしめた。
アメリカ人は卑怯者だ。
自分たちの祖国を犠牲にする覚悟も、決意もない。
「市井の人々の評判はご存じでしょう?」
アメリカ人は品がない。
アメリカ人の兵士たちは、常に女のことばかり考えていて下品に口説いてばかり居る。
「しかし、アメリカの支援がなければ我々はドイツに対抗する手段がないのもまた事実だ」
ソビエト、そしてアメリカに対する不審。
それは諜報部員なら誰でも感じて当たり前のジレンマだ。
彼らを信じて良いのか。
そして、彼らの危険性を信じてスターリンに肩入れしてチャーチルは、政治的に微妙な立場に追い込まれつつある。
「おそらく、フルシチョフはチャーチルに感謝などしないでしょう」
感謝している暇などないはずだ。
冷静なメンジーズの分析は次から次へと現在の世界情勢を映し出していく。
「第二次英独決戦、か……」
二年前の失敗の二の轍をドイツが踏むとは思えない。
「おそらく、この冬を越えて、来年の春から夏にかけて大きく事態が動くものと思われます」
腕を組んだままで考え込んだゴドフリーに、そうしてメンジーズは言った。
高緯度にあるヨーロッパ戦線は、冬期は膠着状態に陥る。それは、ナポレオンの時代から大して変化はない。
世界情勢的に考えるならば、この冬にアメリカ、及びヨーロッパ諸国の国内情勢に微細な変化が現れる。そして戦場の変化は、赤道付近の東南アジア戦線と、アフリカ戦線。
特に、ヨーロッパが膠着状態に陥ることは、ドイツの東の果ての同盟国――大日本帝国にとって大きなチャンスだ。
「冬のメイン料理は、東南アジアから、か」
ゴドフリーはぎろりと鋭い瞳を泳がせた。
「メンジーズ大佐、早急にインドとの”物資輸送”、”連絡”手段を確保しろ。ドイツの連中に先手を取られるな。インド政府がイギリスの支配下を抜け出そうとする動きは見逃すな。もしも、インド政府との連携が断ち切られるような状況になれば、我々はこれ以上にないほどの危機に陥ることになるのかもしれん」
恐ろしく感じるのは、コーカサス地方を占領したドイツがイギリスとその植民地地方を分断しようとしてくることだ。
イギリスの国力は、植民地とのつながりとアメリカ合衆国からの支援によって辛うじて維持されていると言っても過言ではない。
その要所が、イラクの港町のバスラ、そしてマダガスカル島、スエズ運河、ジブラルタル海峡である。これらの地方が陥落すれば、イギリスと植民地のつながりはひどく脆弱なものになる。
そしてイギリスの影響力が弱まれば、独立運動の気運が高まることはすでに必死だった。
「奴らの”独立”など見逃してはならん」
独立させるくらいならば、死の制裁を……――。
自分の膝を軽くたたいて、ゴドフリーは立ち上がった。




