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神々の黄昏 ― Vaterland ―  作者: sakura
XVIII 真理の門番
235/410

8 支配下にあるもの

 穏やかな色彩は、彼がかつて渇望し、執着したものとはまた異なる景色を映し出す。それらの光と影によって奏でる音色が織りなされるのはまばゆいばかりの心象風景。”彼ら”の荒みきった灰色の世界に、今までにはない強いコントラストを与えるきっかけとなったこと。曇った瞳の”覆い”を取り払い、もっと強く人の意識の深淵へと訴えた。

 けれども所詮は人が人に与える変化などたかが知れたものであり、世界が変わり行くのはまるであたかも波紋が広がるかのように、穏やかに、緩やかに、それこそ玻璃(はり)が打ち合うように人と人の意識を深く鳴り響く。



  *

 ヨーゼフ・ゲッベルス。国民啓蒙・宣伝省の大臣は内側に生じつつある(ひず)みのような変化を確実に感じつつあった。

 傍目には明かなほどの変化が生じたわけではない。

 ゲッベルスはそう思った。

 未だドイツ第三帝国グロス・ドイチェス・ライヒ国内にあってナチス党の握る政権に揺らぎはないし、ヒトラーの権力が弱体化されたわけでもない。強いて表現するならば、感触が違うとでも言うのだろうか。

 間抜けなヨアヒム・フォン・リッベントロップは結局、ゲッベルスが手を差し伸べてやったにも関わらず、その扱いを間違えて自滅した。

 結論を言うなら、リッベントロップの行動は逐一が後手で、ナチス親衛隊の権力につながってしまった。リッベントロップが不快に思うだろうことを承知の上で、もっと積極的に介入するべきだったとも考えられるが、いずれにしたところで居丈高で傲慢なシャンパン商人は助けてやったところでゲッベルスに感謝の念など抱かないだろう。そう考えれば、なんらかの手段で外務省が勝手に権威を失墜させてくれるというのは、ゲッベルスにとってもありがたい話しだった。

「ライバルは少ない方が良い」

 ゲッベルスは小さく笑った。

 ヨアヒム・フォン・リッベントロップはせいぜい大した輩でもないのに、自ら権力を行使し、ありとあらゆる人間の生殺与奪を握っていると勘違いしているお調子者に過ぎない。

 アドルフ・ヒトラーの名前を借りて、私利私欲を満たし、ヒトラーの名前を貶める。

 そんな人間は必要ない。

 宣伝省の執務室で、ゲッベルスは冷ややかに考えた。

 なにかがゲッベルスの琴線に引っかかる。

 それは棘が抜けない違和感にも似ていた。

 その違和感の正体を探して、彼は目をこらす。忙しなく思考を働かせるゲッベルスは脳裏に浮かんでは消えていく多種多様な人間たちや、数多くの事象を組み合わせて検証を積み重ねる。

 多くの組織と、それを構成する人々……――。

 戦時の政府首脳部――閣僚のひとりとしてヨーゼフ・ゲッベルスは常に速いスピードで変化していく大量の情報に対応している必要があった。

 そんな彼の頭の片隅で、パズルの欠けたピースが見つかったかのように、かちりと音を立てて正しい場所にはまる音がした。

 ゲッベルスの鋭い刃物のような瞳がうろりと上がる。

 そして彼は不愉快な気分のまま八つ当たりでもするように執務机の隅に置かれた木製のブロッターをはたきおとした。嫌な気分のままゲッベルスは溜め息をつくと、思い出した政敵の不愉快な日和見的な顔に眉をひそめる、

 ハインリヒ・ヒムラーを筆頭としたナチス親衛隊。それはありとあらゆる優秀な人材を抱え込む巨大なモンスターへと成長した。そしてヴィルヘルム・カイテルやヘルマン・ゲーリング、そしてエーリッヒ・レーダーらの指揮するドイツ最強の軍隊。

 彼らの中に共通するものはただひとつ。

 ひとりの少女という親和性。

「あの子供(ガキ)だ」

 ひらひらと、大人たちの世界に決して深入りすることはない痩せた小柄な少女の存在。それがヒムラーらに共通する唯一の存在だ。

 けれども、とゲッベルスは思う。

 ただの小さなドイツ人の少女。

 彼女のなにに対して危険を感じるのか、それが(ゲッベルス)には理解できない。

「彼女は何者か……」

 ぼそりとつぶやいてゲッベルスは執務机に肘をついた。

 考え込んだところで、答えがでないことはわかりきっている。もとより、判断材料が少なすぎるのだ。

 マリア・ハイドリヒという少女の出自はゲッベルスが独自に調査してみたところで、完璧だった。なによりも、彼女の存在によって、ドイツに不利益が生じなければそれで構わないのだ。

 別に、全ての人間を処罰するつもりは微塵もないし、できるわけがないこともわかりきっている。

 ゲッベルスの計画にとって、ラインハルト・ハイドリヒという男が殺されたことは、大変な損失だった。

 金髪の野獣と恐れられたあの若い親衛隊ナンバーツー。

 カリスマ的な強さを持つハイドリヒの存在が政権の維持にとって必要不可欠だったこと。惜しむらくは、ハイドリヒがボルマンやゲーリング、そしてヒムラーらを軽々と手玉に取ったことだった。

「閣下」

 声が聞こえてゲッベルスは顔を上げた。

「国家保安本部、国外諜報局長のヴァルター・シェレンベルク親衛隊上級大佐が見えました」

「そうか、わかった」

 国外諜報局長、ヴァルター・シェレンベルク。

 彼はかつてラインハルト・ハイドリヒの右腕と呼ばれた男だ。

 極めて優秀で、頭の回転が速く柔軟性に富んでいる。多くの知識人が、頑固者が多いことを考えると、シェレンベルクの柔軟さは驚くべきものだ。

 新世代の知識人。

 それがゲッベルスのシェレンベルクに対する評価だった。

 ある意味では、ヴァルター・シェレンベルクこそラインハルト・ハイドリヒの右腕であり、後継者と言って正しいだろう。

 確か彼はつい先頃まで、スウェーデン王国のストックホルムを訪問していたはずだ。そんなことを考えながら、シェレンベルクの待つ応接室へと向かうと、フィールドグレーの制服を身につけた青年が穏やかな眼差しのまま座っていた。

 そしてゲッベルスの姿を見るなりサッと立ち上がってナチス式の右腕を上げる敬礼をする。

ヒトラー万歳(ハイル・ヒトラー)!」

「……ハイル・ヒトラー」

 片足を引きずるようにして、応接室のソファに歩み寄ったゲッベルスにどこか意味深長な視線を投げかけるシェレンベルクは、宣伝大臣に続いて改めてソファに座り直した。

「先日の件をまだ気に掛けているのかね?」

「いいえ、”本人”が余り気にしている様子はございませんので、大臣閣下にお気遣いいただくようなことではございません」

 静かにそう言ったシェレンベルクにゲッベルスが片方の眉毛をつり上げた。

 ぬけぬけと告げる青年がなにを考えているのか、ゲッベルスには理解しかねる。

「女など、男の下で喘いでいれば良い」

「まったくです」

 ゲッベルスの台詞にシェレンベルクはさも愉快そうに笑ってから、両膝の上で指を組み合わせる。

「ですが、閣下のご趣味の女ではないかと思われますが。例の……、幼児趣味のディルレヴァンガーでもありますまい」

「ディルレヴァンガーか」

 さすがにオスカール・ディルレヴァンガーの名前を出されて鼻白んだ様子の、ヨーゼフ・ゲッベルスは不自由な足を組み直してから優秀な情報将校であり、ラインハルト・ハイドリヒの後継者とも呼べる切れ者の青年を見返した。

「”あの男”も帰国しているのか?」

「東部に展開した全兵力は本格的なロシアの冬が訪れる前に、撤収を行っておりますので、おそらくディルレヴァンガーも帰国しているかと」

「ふむ……」

 犯罪者で構成されたナチス親衛隊の汚点。

 ナチスの名前を冠している以上、ナチス親衛隊の汚点とは、即ちナチス党の汚点とも呼べる。

「”粗野な”男は時に役に立つこともあるが、使いどころが難しいな」

 腹が立つのも馬鹿馬鹿しくなるほど余裕の態度を崩さないシェレンベルクに、ゲッベルスは憮然として投げやりな言葉を放った。

「一応、彼も博士号を持っているので馬鹿ではないのでしょう」

 飄々としたシェレンベルクの態度を眺めながら、宣伝大臣は小首をかしげる。

「ディルレヴァンガー、……あの男は確かヒムラーの部下の友人かなにかだったか」

「はい、ベルガー中将のご友人とお伺いしております」

 最低限の礼儀を払って間接的にディルレヴァンガーを評価するシェレンベルクの抜け目のなさに、ゲッベルスは骨張った人差し指を顔の前に立てた。

 本音を言えば、マリーを押し倒そうとしたのは彼女を貶めるためで、魅力的な女優たちのように女性的な魅力を感じたからではない。

 女を辱める手段をゲッベルスはよく知っている。

 そんなゲッベルスのやり方をディルレヴァンガーと同じだと評価したシェレンベルクの剛胆さには目をみはるものがあった。

「ふん……」

 面白くなさそうに鼻を鳴らしたゲッベルスはシェレンベルクを前にしてしばらく考え込んでから、青年の双眸を見つめ返して口を開いた。

「わたしの弱みでも握ったつもりか」

 これが生前のラインハルト・ハイドリヒであれば、しめたとばかり強請(ゆすり)の材料としただろう。そうゲッベルスが警戒すると、シェレンベルクはどこか冷たさを感じる笑みを口元にたたえながら泰然と長い足を組んだ。

「閣下には常々お世話になっております」

 そう言ってから言葉を切る。

 そうして続けた。

「外務大臣閣下のもとに潜伏するテロリスト共を一斉逮捕するためには、閣下のお力添えがなければとても実行に移すことなどできませんでした」

 静かにシェレンベルクの声が響く。

 牙を研ぎ澄まして互いに付け入る隙を狙っていた。

「おべっかを使ってもなにも出ないぞ」

「……”そんなこと”はもちろん、承知しております」

 いけしゃあしゃあと言うシェレンベルクは、しかし、やはり動揺をかけらも見せずに国民啓蒙・宣伝大臣相手に静かに笑っている。

「”わたし”は閣下に大変感謝しているのですから……」

 どこまでも腹の底の見えない青年は、理知的な光を瞳にまたたかせて言葉を綴った。

「閣下は確かに総統閣下の信頼を得た閣僚であらせられます。しかし、閣下ならご存じかと思われますが、”声なき多数派”に権力を持つ人間の後援がついた時ほど危険なことはありますまい」

 宣伝大臣を相手に危険な綱渡りをするシェレンベルクに、ゲッベルスは失笑した。

「わたしの権力があれば貴官なぞ左遷することはできるのだぞ」

「……本当に”そうでしょうか”?」

 ドイツ第三帝国は人材に困窮している。

 だから、危機的な状況で経歴の余り好意を持てない犯罪者を登用せざるを得なかった。

 指導者たる器を持つ人間の数など、たかが知れている。

「我らが親衛隊長官でさえ知っていらっしゃることを、聡明な大臣閣下がご存じないとは思えません」

 ハインリヒ・ヒムラーですら、感情だけで優秀な指揮官を裁くことができなかった。そして、そんなヒムラーよりもはるかに理性的で、優秀なゲッベルスがそのような無謀な賭をするわけがない。

 シェレンベルクは自分の才能も、知性も、よく理解していた。

 自分の能力を正確に把握していなければ、その存在意義を欠けて勝負に出ることなどできはしない。

「……――なにが目的だ」

 シェレンベルクを前にして、ゲッベルスは苦虫を噛みつぶした。

 確かに、ヴァルター・シェレンベルクという男はラインハルト・ハイドリヒの右腕なのだ。

 それを実感させられた。

 そして青年の存在があったからこそ、ハイドリヒという卑劣な男は存在し得たのだろう。

「今後も変わらぬご支援をいただければ」

 にこりと青年がほほえんだ。

「大臣閣下が我ら国家保安本部(RSHA)を嵌めようとした件は不問にさせていただきます」

 ゲッベルスが宣伝省情報部を動かしてリッベントロップに情報を流していたことなどお見通しだ。そう言いたげなシェレンベルクのほほえみに、ゲッベルスは視線をさまよわせた。

「良かろう」

 長い沈黙のあとやはりむっつりとしたまま告げたヨーゼフ・ゲッベルスに、ヴァルター・シェレンベルクは「ありがとうございます」と頭を下げた。

「テロリストに荷担した角で外務大臣閣下を追及していくこととなるかと思われますが、今後もお変わりなくナチス親衛隊(SS)に後押しをいただければ、我が親衛隊長官閣下も大変喜ばれるかと思います」

 こうして、一九四二年の十一月。ナチス親衛隊、国家保安本部は事実上、宣伝省情報部と外務省情報部をその指揮下に置くこととなる。

 ドイツ国内を跋扈する情報部が国家保安本部長官エルンスト・カルテンブルンナー親衛隊大将と国防軍情報部(アプヴェーア)を中心に再構築されつつあった。

「……お帰りなさい、”早かった”のね!」

 プリンツ・アルブレヒト・シュトラッセのエントランスで焼き菓子を片手に、ゲシュタポのアドルフ・アイヒマンと言葉を交わしていたマリーがシェレンベルクの姿に顔を上げた。

「またこんなところで遊んでいるのか。アイヒマン中佐に迷惑ばかりかけるんじゃない」

 シェレンベルクの小言にマリーは朗らかに笑う。

「アイヒマン中佐は怒らないわ」

「……――」

 国外諜報局長とマリーのやりとりを眺めながら、眉間にしわを寄せたアイヒマンはシェレンベルクに弱みを握られることがたいそう気に入らないらしく、唇をへの字に曲げるとそのまま少女に片手を振ってから鋭く靴音を鳴らして踵を返した。

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