6 心理戦
「お帰り、マリー」
ストックホルムから戻ったシェレンベルク一行を出迎えた突撃隊幕僚長のヴィクトール・ルッツェは使節団を率いた国外諜報局長とは形式的なあいさつを交わしただけで視線を長身の男と並んで歩いている少女に投げかけた。
シェレンベルクとしてもヴィクトール・ルッツェなどに構っている暇はないわけで、彼の関心がマリーに向かってくれるのは大変ありがたい。
彼女のおかげで――というのもおかしな話しではあるが――青年将校は、愚図の高官たちの相手をしないでいられた。その辺りはマリーに感謝すべきなのかもしれない、と考えるがひねくれている彼はわざわざ言葉にしたりすることもない。
自分にとって都合の良いものは利用するだけのことだ。
「事件に巻き込まれたというが、怪我はないかね?」
「はい、大丈夫です」
少女の頬にかすめた赤い線を右手の親指でたどったルッツェがひどく痛ましそうに眉を寄せるが、当のマリー自身は事件のことなど忘れてしまったという顔をしている。
彼女はいつもそうだ。
事件に巻き込まれた時こそ、混乱を見せるが過ぎ去ってしまえば「なんでもない」と言った顔でけろりとしている。
「オットーが守ってくれたの」
ニコニコと悪意のかけらもなく言った彼女の口ぶりに、ルッツェはマリーの背後に立って彼女の荷物を持っている長身の青年将校を見やった。
頬の刀傷が印象的な男。
「……オットー?」
「はい、オットー・スコルツェニー中尉です」
「そうか」
そもそもどうしてルッツェがシェレンベルクの使節団の出迎えのためにベルリンの駅に訪れたのかと言えば、実のところ国家保安本部長官エルンスト・カルテンブルンナー親衛隊大将が多忙極まりなかったため、ルッツェが代役を買って出たのだが、カルテンブルンナーとしては忙しさの合間を縫ってでもマリーの出迎えに顔を出したかったというのが本音だったらしい。
「カルテンブルンナー博士はお忙しいの?」
首を傾げて問いかけるマリーに、ルッツェは「そのようだ」と応じながらさりげなくマリーに片腕を差しだした。
そんな彼の腕に自分の腕を絡めた白いマントの少女は、父親ほども年齢の違う突撃隊幕僚長を見上げてからなにかを言おうとして口を開いた。
そのときだ。
踵で重心をとったマリーの体が後ろに滑る。
「おっと……」
咄嗟に少女の体を抱き留めてヴィクトール・ルッツェは苦笑した。
まだ早朝で足元が凍っている。
「気をつけなさい」
「ごめんなさい……」
倒れ方が悪ければ後頭部を打撲しかねない。
コンクリートに頭を打ち付ければ脳震盪でも起こしかねないだろう。
「ところで、君に会いたがっている人がいるんだが、そのうちどうだろう?」
「仕事に支障がなければ構いませんよ、大将閣下」
マリーに投げかけた言葉に応えたのはシェレンベルクだ。
「なるほど……」
彼女の上官がそれで構わないというならば、要するに問題がないと言うことだ。ルッツェとマリーのやりとりを聞きつけたシェレンベルクが、副官に待機を命じて鋭く踵を返すと歩み寄ってくる。
突撃隊幕僚長の「会わせたい人」という発言が青年の好奇心を刺激したらしい。
「話の腰を折って大変申し訳ありません。会わせたい方というのは?」
ふたりの会話に割って入る形になったシェレンベルクは、ちっとも悪気がなさそうな顔でヴィクトール・ルッツェに問いかけた。
「あぁ、ポーランド総督のハンス・フランク氏だ」
「……なるほど、フランク氏ですか」
ハンス・フランクという名前にヴァルター・シェレンベルクは表面上は全く表情を変えないままで顎に手のひらを宛てると考え込むような素振りを見せた。
確か、ポーランド総督を務めるハンス・フランクは、ヴィクトール・ルッツェ同様に反ナチス親衛隊の急先鋒でもある。ラインハルト・ハイドリヒが鬼籍に入る前は、ベルリンの大学で反ナチス親衛隊的な講演を何度も行っている。
そういった意味ではシェレンベルクにとっても敵だった。
面白いのは、突撃隊とハンス・フランクとが共同戦線を張ろうとしていることだが、ラインハルト・ハイドリヒが生きていた半年前と現在とでは状況がだいぶ異なっている。
最も大きな変化はヒムラーの姿勢の変化だろう。
そしてその姿勢の変化を受けて、ナチス親衛隊内部に大きな変化を生じていた。ちなみにマリーの存在が良くも悪くも作用していると言えるかも知れない。
一言で表現するには簡単な話でもないが、彼女の存在が頑迷な「年寄り共」の考え方に影響を与えている。
かわいければなんでもいいのか? とも思わなくもないが、可愛らしいものを見ていて不快な気分になる男はいないだろう。
「ヘル・フランクはお元気でいらっしゃいますかな?」
「……――」
さりげなく尋ねるような形のヴァルター・シェレンベルクにヴィクトール・ルッツェはちらと視線を上げて、一瞬だけなにかを考えたようだ。
「もちろん」
ほんのわずかな逡巡を見せて応じたルッツェは、それから内心で「しまった」と舌打ちをした。
国家保安本部長官ラインハルト・ハイドリヒの片腕と呼ばれた若きエリート。国外諜報局長のヴァルター・シェレンベルクという男は油断ならない相手でもある。
情報将校であるというのにその胸につけた略綬の数々が彼の優秀さを物語っていた。一瞬で自分の失態を悟ったルッツェは憮然としつつマリーの肩を抱き寄せた。
「上級大佐も相変わらず忙しない」
「戦時下ですので、仕事が毎日溜まっております」
穏やかにほほえんで自分の本心を垣間見せることのないシェレンベルクが応じる。
つまり、彼はルッツェとフランクのつながりを把握していると言っても過言ではないだろう。青年の誘導尋問に引っかかるような形になったルッツェはそれについては言及せずに鼻から息を抜いた。
「ともかくストックホルムから無事に帰って来れたようでカルテンブルンナー大将も安心するだろう」
「そうですね」
にこやかに告げるシェレンベルクは、それからルッツェと二言三言の他愛もない言葉を交わして、副官のもとへと戻っていった。
彼はいつも悠然としている。
「フランク博士? ポーランドの?」
カミソリの刃のような印象すら受けるふたりのやりとりを黙って聞いていたマリーは顔を上げると、ルッツェに問いかける。
「知っているのかね?」
「はい、一応」
もちろん国政の中枢により近いところにいる人間が、ポーランド総督のハンス・フランクを知らないわけもないから、国家保安本部に所属しているマリーがその名前を知っていてもごく当然のことだった。
「その彼がな、君に会いたいと言っていてね」
「でもポーランド総督閣下はお忙しいんじゃありませんか?」
ハンス・フランクがナチス親衛隊の存在を面白くないと思っているのは周知の事実だ。それを国外諜報局長と優秀な法学博士のヴェルナー・ベストのもとで仕事をしているマリーが知らないわけはないし、逆に知らないと答えられるほうが余程不自然だ。
「それはどうだろうな……」
高官というものは案外、自分の都合で時間が作れるものだ。
「手紙には君のことがとても可愛らしいと書いてあった」
夏の間は縛っていた長い髪も、秋に入ってそのまま肩から背中にかけておろしたままになっている。
金色の長い髪が、彼女の白い肌に光を跳ね返して色素の薄さと頼りなげな儚さを強調させる。そこにあるのは北欧の妖精にも似た愛らしさで、やせ気味なことにさえ目をつぶればはっとさせられるような存在感があった。
「カルテンブルンナー大将からも言われているかもしれないが、悪い男には気をつけなさい。いいね?」
自分にもうひとりの娘ができたような気分になる。
ルッツェは先ほどまでのシェレンベルクとのやりとりを、とりあえず思考の外に追い出してから優しくマリーにほほえみかけた。
*
プリンツ・アルブレヒト・シュトラッセに戻ったシェレンベルクはその日の間中に報告書を書き上げて、日も暮れた夕方になる時刻――部下のひとりからの一報を受けとった。
「調査局からの報告です」
ヘルマン・ゲーリングの航空省調査局。
その名前にシェレンベルクは椅子に座り直した。
「続けろ」
「は……。日本語の方言でしたので詳細は理解いたしかねるとのことですが、日本大使館の電話を盗聴したところ東南アジア戦線の日本軍が大きく衛生部隊の移動をかけたらしいとのことです」
「ふむ」
衛生部隊。その単語にシェレンベルクは思考を巡らせた。
「わかった」
短く相づちを打ったシェレンベルクは数秒考えてから、目の前の士官が差しだした報告書のファイルを受け取って軽く顔の前で片手を振った。
「では失礼します」
ゲーリングの調査局を夏前に得ることができたのはシェレンベルクにとって大きな利益だった。これによって国外諜報局はさらに高度な情報解析態勢を取ることができるようになった。
世界各国に置かれたシェレンベルクの情報網には断片的にアメリカ合衆国を含めた、英仏連合に降りかかる天然痘の被害が聞こえてきている。ドイツ国防軍の高級将校らも真っ青になったくらいだから、事態を把握できていない英仏連合はさらに混乱に陥っているだろうことは間違いない。
もっとも、大日本帝国の反応がシェレンベルクの耳にようやく届いてきたのは単純な距離的な問題でもあった。
正式な国家としての声明はもちろんだが、シェレンベルクがなによりも重視しているのはそんな表向きの話しではない。
裏で蠢くものにこそ関心があった。
ドイツ系アメリカ人医師一家を焚きつけたのはシェレンベルクだが、その波及効果は思った以上に大きく、巡り巡ってインドの独立運動家をも焚きつける結果になった。
ファイルを開くこともせずにシェレンベルクは、頭の中で状況を整理する。
おそらく病原菌を媒介したのはアメリカ合衆国だろう。そしてその混乱が日本を動かすことになった。
凶悪な伝染病が流行しては戦争どころではない。
しかも、先の欧州大戦の頃に流行したスペイン風邪などとは話しの違う感染症だ。日本が大々的に衛生部隊を招集したとなればそれだけ事態を重く見ているということで、それだけ東南アジア戦線が逼迫しているということになる。
点と点をつなぎ合わせられる前に、アメリカとイギリスを叩きつぶさなければ自分にもドイツにも未来がない。
それだけ危険な綱渡りをしているという自覚はあった。
幸いというべきか、保菌者である医師一家はイギリスの特殊部隊に殺害された。スバス・チャンドラ・ボースからの情報では、どうやら村がひとつ灼き尽くされたらしい。これがナチス親衛隊にとって好都合の証拠隠滅につながった。
伝染病の恐怖から無辜の人々を殺害されたインド政府は、イギリスの植民地支配下にあるとはいえストレスを溜めつつある。
そして独立運動家のスバス・チャンドラ・ボースはドイツと接触を持ち、今一人の過激派と言われるラース・ビハーリー・ボースは大日本帝国と接触しているという。さらにここ最近の話しだが、ガーンディー主義の法学博士が動きを見せたらしい。
こうした東南アジア方面での動きを含めて、うまくこれらのチャンスを利用することができれば圧倒的優勢にあるアメリカを相手にして勝機はあるかもしれない。
「失礼する」
そんなことを考えていたシェレンベルクの耳に、ノックの音と同時に扉が開く音と、マリーの首席補佐官を務めるヴェルナー・ベストの声が響いた。
「これは、ベスト中将。どうなさったのです?」
一瞬で思考を切り替えたシェレンベルクが立ち上がりながら問いかけると、大股で歩くベストは小脇にファイルを抱えたままシェレンベルクの執務室のソファに腰掛けてから長い指を顔の前に立てた。
「君がパル博士の情報をほしいんじゃないかとマリーが言っていた」
爆弾発言にも似た威力を秘めたベストの言葉に、シェレンベルクは瞠目してから表情を取り繕ってベストの前のソファに腰を下ろした。
「ストックホルムに行く前から、ヨスト少将と情報の収集にあたっていた」
「ほう?」
「きっと君がインドの、ラダビノド・パルの情報が必要だろうとマリーが我々に指示を出していてね」
「……ありがとうございます」
「礼はマリーにうまいケーキでもおごってやるといい」
そう言ってタバコを制服の内ポケットから取り出すとライターで火をつけた。煙を吸い込んでヴァルター・シェレンベルクを観察するように見つめたベストは、ややしてから踵を鳴らして立ち上がると青年の胸にルーン文字で「SS」と入ったファイルを突きつける。
「シェレンベルク、君は彼女を軽視しているが、案外頭は悪くない」
ファイルを受け取ったシェレンベルクに、そう言い捨てたベストはタバコを指で挟んだまま慌ただしく第六局の執務室を出て行った。
マリーが「ラダビノド・パルの情報が必要だろう」と言っていた。
ベストはそう言った。




