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神々の黄昏 ― Vaterland ―  作者: sakura
XVIII 真理の門番
232/410

5 拡散する悪意

 大日本帝国陸軍の総司令部から降って湧いた異動の命令に、石井四郎は小首を傾げた。

 日本よりも緯度的には低い東南アジア戦線で大規模な伝染病――特に厄介とされる天然痘が発生したという話しはすでに太原(たいげん)の司令部にも届いていた。

 感染症、伝染病に関するエキスパートとも呼ばれる石井に白羽の矢が立つのは、多分におかしな話しではない。しかし、相手は天然痘だ……。

 チフスなどを相手にするのとは訳が違う。

「恐ろしいかね?」

 北支那方面軍総司令官、陸軍大将岡村(おかむら)寧次(やすじ)に告げられて石井は目を伏せた。彫りの浅い東洋人特有の顔立ちの中に影が差したようにも見える。

「相手は天然痘です、その恐ろしさは閣下もご存じでは?」

 静かに告げたひげ面の男は理知的な眼差しの中にいくばくかの不安を滲ませる。

「病気が恐ろしくて軍人がやってられるか」

 切り捨てるような勢いで岡村が告げる。

「……とは言っても、恐ろしいものは恐ろしいものだな」

 考え込むように冷え込みを急速に深める太原の空を室内から見やって息を吐き出した。満州の冬は特に寒い。とても東京のそれとは比べものにならぬ。

「戦って死ぬならば良い、わたしは軍人だからそう思える。しかし病気なぞで死ぬのはまっぴらご免だ」

 戦って死ぬならば本懐である。

 そう告げた岡村に石井は低く笑う。

「しかし軍団の総司令官が死ぬような事態に陥るのはなかなかにありませんぞ」

「戦国時代と同じだ。総司令所に切り込まれたときはすでに決着がついているときだからな」

 死ぬのはいつも若者たちばかりだ。

 それを岡村も石井にもわかっていた。

「医者とて、恐ろしいものは恐ろしいものです。岡村大将閣下」

「わかっている」

 むっつりとした眼差しに戻った岡村は、それから思い出すような眼差しになって、石井四郎の執務室の窓辺にゆっくりと歩み寄って窓枠に両手をついた。

「しかし今、起こっていることは国家の一大事だ。これを全力で食い止めなければ、遠からず日本本土にも事態は波及する。そうすれば、状況は一変するだろう。先頃、ヨーロッパ大陸で起こった大戦の際の二の舞になるだろう。その危険性を、石井中将にもわかっておるはずだ」

「わかっていますよ」

 うそぶくような石井の言葉に岡村が肩越しに振り返る。

「……わかっていますよ。スペイン風邪の再来、どころの話しではなくなるでしょう。そうして、我が帝国は、人口の多くを失うような地獄に包まれるのです」

 石井には天然痘の危険性が充分によくわかっている。

 天然痘の発生の分布が赤道を跨ってその付近に集中しているということは、東南アジア地方や北アフリカなどを中心に発生している天然痘は、日本の位置的にも充分脅威に値する。

「スペイン風邪では全世界で恐ろしいほど多くの人々が亡くなりました。それを繰り返してはならないのです」

 わかっている。

「ですが、わたしひとりだけではどうにもなりませんな。優秀な参謀をつけていただければなんとかできるかもしれませんが」

「無論考えている」

「……と、申しますと?」

 丸い眼鏡をかけた岡村が小脇に抱えていた茶色の封筒を軽く胸の辺りまで掲げてみせると、デスクについたままだった石井がぴくりと片方の眉毛をつり上げた。

「本土から人間を出すのは、大本営が禁止している。満州、及び展開中の陸軍、海軍の全てから好きに人間を抜擢しろ」

「――……思い切りましたね」

 しばらくの沈黙を挟んだ石井が感心した様子で六十歳近い男を見つめ返すと、コツコツと靴音をたてて軍医中将の机の間に戻った岡村は乱雑に机の上に封筒を放りだした。

「貴官なら考えなしに人間を抜擢はすまい」

「買いかぶりすぎじゃありませんか?」

「さて」

 重苦しい表情のままの岡村に、石井四郎は返す言葉に迷ってから封筒を取りあげた。そうして中の書類に目を通す。

 確かに、伝染病の危険性が拭えぬ今、考えなしに好きに抜擢しても良いというのが命令だからと言って戦地から優秀な医師たちを引き抜けば結果的にどんな事態が起きるのかは目に見えている。

「承知しました」

 ざっと将来的な展望に思考を巡らせてから、彼は椅子の音をたてて立ち上がると敬礼する。

「準備ができ次第、現地へ向かってもらいたい」

 岡村の言葉を受けて石井は鋭い視線を閃かせた。

 英仏連合を含めたヨーロッパ諸国との戦場――東南アジアでいったいなにが起こっているのだろう。

 死の病。

 そう恐れられる天然痘。

 もちろんその存在を恐ろしくないのかと尋ねられれば、生きて感情を持つ人間なのだから恐ろしくないわけがない。それでも、軍人のひとりとして。そして医師のひとりとして、戦えと言われれば、伝染病という敵を相手にいくらでも戦ってみせる。

 それこそ、自分の命を賭けることになったのだとしても。

 戦場では多くの将兵たちが伝染病の恐怖に怯えているかもしれない。

 そして無辜(むこ)の人々が、苦しんでいるかもしれない。

 そんな弱き人々を、救わなければならないのだ。

 決意を胸に秘めた石井四郎は、執務室から出て行った岡村寧次を見送って長い溜め息をついた。

「……天然痘(ポクン)、か」

 確かに石井は大本営に対して生物兵器の検討を提唱した。

 もちろん、知識人でもある石井は一九二五年に定められたジュネーブ議定書の存在を知っていて、それでも尚その必要性を感じて「使用」することは禁じられているが、開発研究については禁じられていないとの見解からその研究の提唱をした。

 だが、それはあくまでも現在の大日本帝国の置かれた様々な要因から想定したもので、状況を鑑みればやむなしと彼は結論づけた。

 日本という国の限界はすぐそこに転がっている。

 海軍の凋落が良い例だ。いくらドイツやイタリアと軍事協定を結んでみたところで限界はすぐそこにあるのだから。

 しばらく岡村の持ち込んだ書類に目を通していた石井は、ほどなくして執務机の電話の受話器を上げると満州の北野(きたの)政次(まさじ)少将を呼び出した。



  *

 ――チフスやコレラを扱うのとは訳が違う!

 怒号が飛び交うような議論を終えた北野政次はやれやれと溜め息をついてから、首の後ろを軽く撫でると歩調を緩めて先ほどまで会議を行っていた部屋を肩越しに振り返る。

「チフスやコレラ、か」

 天然痘はそんなに生やさしい種類の伝染病ではない。

 致死率はおおよそ、四割。そして、それが現代文化が花開いていない東南アジアで発生すればどんなことになるのか。それも北野にはわかっている。

 特に天然痘ともなれば十一課が専門とする部署だが、どちらにしたところで今回の「事件」の被害は想像がつかない。おそらく十一課だけでは手に負えないだろう。

 中国大陸及び、その周辺に展開する上層部でなにやらやりとりがあったらしいが、結局、伝染病のエキスパートとも呼ばれる元関東軍防疫給水部本部長官、石井四郎中将にお鉢が回ったらしい。

 もちろんそうした伝染病研究というのは、関東軍防疫給水本部の十八番(おはこ)でもあるが、実際問題として、強毒性の伝染病が発生したとなれば話しは違う。

 研究どころの話しではなかった。

 しかし、同時にそれは研究対象が目の前に転がっているということにもなり、大日本帝国陸軍としては公明正大な研究対象を得られたということにもなった。

「ありがたいやらありがたくないやら」

 ぼやくように呟いて肩をすくめた北野は、じっと目を細めてから石井四郎の命令を思い出す。

「一週間以内に専門家による大規模な研究班を構成し、フィリピンに送るべし」

 これまた随分と南下しなければならないものだ。

 北野はそう思った。

「……お待ちください、少将閣下」

 廊下の後ろから走って呼び止めたひとりの男に、北野政次は足を止めると振り返る。

「なにかね?」

「石井中将閣下からのご命令とは言え、本気ですか?」

 フィリピン、そしてソロモン諸島で繰り広げられたアメリカやイギリスとの戦いで、両軍共に大きく消耗している。とはいえ、満州に位置する彼らから見てもイギリスやオーストラリアはともかく、アメリカ合衆国にまだまだ余裕があることは見て取れる。彼らの力を侮るべきではない。

「本気、というのは?」

 細菌研究部第十一課、天然痘研究班長である貴宝院のまっすぐな眼差しに、北野は鼻から息を抜いた。

「フィリピンの件です」

 対策本部はフィリピンのマニラに置かれることになっている。そこからであれば、ソロモン諸島などの広範囲の情報を一手にまかなうことができる。

 なによりも現地の協力者を募ることができるのは大きい。

 強毒性の伝染病と闘うと言うことは、最前線で兵士が戦うことと同じだ。

 一分一秒の差が生死を決める。

 だから、石井四郎から命令を受けた以上、北野が満州の安全な場所で口だけを出しているわけにはいかない。

「……我が軍が、病気で苦しんでいるならば、我らは行かねばなるまい」

「――……」

 考え込むような仕草を見せた北野政次に、貴宝院が黙り込む。

 研究員のひとりとして、その恐ろしさを知っているからこそ、「天然痘の発生」という言葉に恐怖を感じないわけがない。

「……わかりました」

 長く重い沈黙の末に貴宝院はそう言った。

 人間として天然痘の恐ろしさに恐怖を感じると共に、研究員として直に感染の現場を目にすることができるという好奇心と、そして医師としての使命感。多くの感情がない交ぜになったまま貴宝院は上官の命令に頷いた。

「いずれにしろ、天然痘の発生が明るみに出れば、我々に命令が下るのはわかりきっていたはずだ」

 仕方なさそうに笑った北野に、貴宝院が肩をすくめる。

 わかっていたことだが、それでも恐ろしいと思ってしまうのは人間のサガなのだろう。

「さぁ、我々も充分に精をつけて事態に臨もうではないか!」

 自身を恐怖から奮い立たせるようにそう言った北野に、貴宝院も大きく頷いた。

「こちらも大至急マニラへ向かう準備をいたします」

 慌ただしく廊下を駆け抜けていく天然痘研究班長の貴宝院秋雄を眺めやって、そうして北野は自嘲するように低く笑った。

 自分たちは、と思う。

「我々は、人を殺すために研究しているのか、それとも人を救うために研究しているのやら……」

 どちらなのか。

 初代関東軍防疫給水本部長官、石井四郎は確かに細菌兵器の開発、研究の提唱をした。それは要するに人を殺すための道具として、病原菌を研究するということだ。それは医者として倫理的にどうなのだというものもあるかもしれないが、戦争というものは奇麗事だけでは決着がつかない。

 どちらにしろ、多かれ少なかれ多くの国がやっていることだ。

 確証はない。しかし、人間がそうそう人と違うことを考えることなどできないように。おそらく大日本帝国が細菌兵器の研究をしていることと同様に連合国や、ドイツもやっているのだ。

 その研究結果がどう花開くかは、その後の話だ。

「貴宝院」

「……はっ?」

「ダイナマイトの開発者を知っているだろう?」

 声の届かなくなる寸前の距離にいた貴宝院が足を止める。

 随分離れた場所で言葉を交わす北野と貴宝院は互いに知的な視線を交わし合った。

「十九世紀のスウェーデン科学者のアルフレッド・ノーベルですな」

 わかりきった言葉を貴宝院が返す。

「彼の研究と同じだ」

「……少将閣下?」

「我々の研究も、彼の研究と同じだと言っているんだ。今後、この研究がどのように扱われるか。それは我々には考えもつかん。ノーベルがダイナマイトを戦争に使われることなど望まなかった事実に反して、強力な火の力は戦争に使われた。我々の研究も、戦争のために行われているが、将来どのように扱われることになるのか想像もつかん」

 人は、人の力で悪意の伝搬を止められるのだろうか。

「”この力”が、果たして全人類を滅ぼす力になるのか、それとも救う力になるのか、研究員でしかない我々には到底理解などできないことなのだ……」

 それが戦争の副産物だ。

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