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神々の黄昏 ― Vaterland ―  作者: sakura
III 悪の華
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7 SD

 アドルフ・ヒトラーのナチス党(NSDAP)率いるドイツ第三帝国は国際社会にとって大きな脅威であるが、それはスターリン率いるソビエト連邦も同じである。ドイツ、そしてソ連の動揺に貪欲な領土拡張政策は、近隣諸国にとって巨大な脅威として映っていた。それが目に入らないとは、アメリカ合衆国の大統領――ローズヴェルトは相当のど近眼か、それとも節穴だ。

 結局のところ、ローズヴェルトを含めた新大陸のほとんどの連中にとっては、ヨーロッパ諸国で起こっている戦争などどうでも良いことなのだろう。おそらく、彼らはヨーロッパのことを金の成る木かなにかだと思っているのではあるまいか。

 先の欧州大戦の時のように、高みの見物を決め込む事と同じだ。

 そのせいで、イギリスも。そしてフランスも煮え湯を飲まされた。

 なによりもローズヴェルトの近視眼は物事の大局が見えていない……!

 じりじりと万力でしめつけられるような状況の中で、ウィンストン・チャーチルは苦虫をかみつぶした。

 ヨーロッパ諸国にまるで病気かなにかのように深く根を下ろして久しい反ユダヤ主義の存在。

 自分たちがいかに矛盾している発言をしているか、チャーチルとて十二分に理解しているつもりだ。けれども、小さな国家が多くの難民を受け入れるわけにはいかないのだ。そんなことをすれば経済が破綻しかねないし、さらに国内の反ユダヤ主義者たちを刺激するような事態になりかねない。

 わかっていて、彼らをスケープゴートにするしかなかった。

 三年前の一九三九年。世界地図の上から消えたポーランド第二共和国。その亡命政府は現在、イギリスのロンドンに置かれている。ポーランドには多くのユダヤ人が居住しており、そのためにドイツの占領に晒された際、数多くの悲劇を生み出した。

 けれどもそのポーランド政府でさえ、根本的には反ユダヤ主義だったのだから。

 ドイツのユダヤ人に対する差別主義的な思想は、一九二〇年代頃からヨーロッパ諸国にあふれたサブカルチャーの一つに過ぎず、多くの学者や知識人たちがユダヤ人問題について書籍を記したものだ。

 けれども当時それらを書いた人間たちですら、二十年が経過してこんなことになるとは思っていなかったに違いない。

 なによりも、苦々しいのはそればかりではなかった。

 欧州各国が抱える東アジアの植民地の存在が、この欧州での戦争のさなか危機に晒されている。

 アジアの東の果て――現在はアメリカ合衆国と戦争を繰り広げる結果になった、大日本帝国。

 未開の原住民だと思っていたわけではないが、アメリカ相手に苦戦を強いられているものの、異おまだにヨーロッパの植民地地域では善戦を続けていた。

 有色人種の劣等民族が……。

 とりとめもなく矛盾することに思いを巡らせるチャーチルは、しかし実際の所、英米両国に深刻な危機が迫っていることにまだ気がついていなかった。

 ローズヴェルトに至っては言うまでもない。


 そんなことをイギリス首相ウィンストン・チャーチルが考えている頃、ドイツ第三帝国ナチス親衛隊全国指導者ハインリヒ・ヒムラーのお達しに、国家保安本部の一部は混乱に見舞われている。

 それは国家保安本部国外諜報局にマリア・ハイドリヒ親衛隊少尉が配属されたことから始まった。

「彼女は非常に優秀な情報官の卵で、今後のドイツ第三帝国において女性であっても優秀な逸材であれば婦人補助員という枠を越えて登用すべきであると考える。この試験的試みの一ケースとして、このたびは親衛隊情報部の将来の託するに有望な士官として扱うものである」

 ヒムラーの、それなりにもっともらしく感じられるこじつけに、納得いかぬ、という顔をしたのは国家保安本部第一局の局長であり、現在国家保安本部長官代理を務めるブルーノ・シュトレッケンバッハ親衛隊中将だ。

「SDとして登用する前に、ギナジウムと大学を卒業させてきちんと高等教育を施すのがまともな管理職の人間のすることではないのか」

 国家保安本部の人事権を握っているシュトレッケンバッハにしてみれば、自分の存在を飛ばしてヒムラーから頭ごなしに命令されたことが気に入らない。憤慨したシュトレッケンバッハに異を唱えたのは、珍しいことにユダヤ人に関する「最終計画」を一任されているゲシュタポ局宗派部ユダヤ人課の課長アドルフ・アイヒマン親衛隊中佐だった。

 ちなみに、アイヒマンはかつて国家保安本部人事局長を務めたヴェルナー・ベスト博士が法学部出身の大学出を採用しようとした時にも、同じように異を唱えた。もっとも、それについてベストはハイドリヒも、シェレンベルクも、そしてミュラーからも猛烈な反対を受けているのだが。

「優秀であれば、学歴や年齢など問われるべきではない」

 言葉だけを聞けば真っ当に聞こえるアイヒマンの台詞なのだが、当のヒムラーの発表で行われた人事については、アイヒマンの部下ではなくシェレンベルクの部下についてであったから、年若い六局の局長は失笑に誘われた。

「誰の部下であるとか、そんなことは関係ないだろう」

 機嫌悪そうにつぶやいたアイヒマンは、言いながら制帽を右手で直すと息を吐き出す。

 アイヒマンがシェレンベルクの肩を持つなど、至極珍しいことだった。もっとも、失笑したシェレンベルクに彼は存外気分を害したようではあるが。

 シェレンベルクの部下の人事に対して助け船を出してやったというのに……。アイヒマンの言いたそうな言葉を思い浮かべてシェレンベルクは薄く口元で笑うとわざとらしく小首を傾げた。おそらく、アイヒマンは馬鹿にされたと感じたのだろう。 

 ちなみに、シェレンベルクはアドルフ・アイヒマンを馬鹿にしていた。なにせシェレンベルクが二九歳で国家保安本部ゲシュタポ局防諜部の部長を務めていた頃、ほぼ同じ時期に親衛隊員としてスタートを切ったアドルフ・アイヒマンは同じゲシュタポの宗派部の四課の課長でしかなかった。

 しかも学歴を見ても、シェレンベルクなどにしてみれば間抜けの思い上がりも猛々しい。

 要するにそれだけの男だ。

 ゲシュタポに在籍していた頃は、アイヒマンの無能振りが鼻についてならず、よく「根性なし」だの「役立たず」だのとこきおろしたものだ。

 影で泣いていたらしいという噂も聞いたがシェレンベルクにとって、四歳年長のアドルフ・アイヒマンが泣こうがわめこうがどうでも良いことだった。

 そんなアイヒマンはコンプレックスの固まりだ。

 自分よりも優秀な大学卒業のインテリを、上司のハイドリヒ以上に目の敵にしている。それは今でも変わらない。

 つくづく成長のない男だ。

 それがヴァルター・シェレンベルクのアイヒマンに対する評価だった。

 そうして、こうしたコンプレックスの固まりであり、劣等感に苛まされていたアイヒマンを利用したのが彼の上司とも言えるラインハルト・ハイドリヒとゲシュタポの局長であるハインリヒ・ミュラーだ。

 彼らはよくもアイヒマンをコントロールしていたものだとシェレンベルクは思う。

 彼の自尊心をくみ取り、満たしてやって、さらに汚れ仕事に邁進させる。ハイドリヒは自分の仕事を汚れ仕事だと自覚していたし、そうしてその汚れ仕事をさせるための部下たちを亡き国家保安本部長官は慎重に選出した。

 彼を評価していたハイドリヒが殺されてから、アイヒマンはよりいっそう与えられた任務にうちこむようになった。権力を持つ他者に認められたいという意識が働いての結果だろうことをシェレンベルクはすぐに気がついた。

 悲しいことに、アドルフ・アイヒマンという男は、自分のアイデンティティを確立するためには、自分を認めてくれる有能な誰かが必要だったのである。

 アイヒマンという男はそういう人間だ。

 そんな彼がシェレンベルクの下に配属されることになった「マリア・ハイドリヒ」を擁護した。さて、どんなつもりなのだろう。

 シェレンベルクは考えながら、事の成り行きを見守っていたが、結局ヒムラーの命令であり撤回は不可能という状況にブルーノ・シュトレッケンバッハが折れるしかない。

 親衛隊長官の決定であれば覆すことなど不可能だ。シュトレッケンバッハが折れたのはアイヒマンの言葉によるものでもなんでもないのだが、このユダヤ人についての最終計画を推し進める男は自分の言葉と、事態の終着点に勝手に満足したようだ。

 なんとも浅はかな男だ。

 シェレンベルクは肩をすくめると、自分の執務室のソファで書類を読んでいる少女を見やった。

 ギンガムチェックのフレアースカートに白い上品なブラウスと、ブラウンのリボンを胸元に結び、生成りのボレロを身につけている。

 左手の細い薬指には髑髏のリングがはめられており、左腕には黒いビロード生地でつくられた腕章が留められている。

 その腕章に縫い付けられているのはSD章だ。

 金色の髪は結ばれもせずに肩から背中に流れ落ちていて、髑髏リングトーテンコップフリングと親衛隊情報部に在籍することを示す腕章がなければただの少女にしか見えない。

 ちなみに彼女が読んでいるのは、国家保安本部の中央記録所に納められた個人情報カードだ。

 アイヒマンはシェレンベルクに恩を売りつけたつもりだったのだろうか?

「マリー」

「はい」

 彼の呼び掛けに応じて顔を上げたマリーは青い瞳を、男に向けた。

 無邪気な屈託のない瞳。

 それはまるで純粋な子供のそれのようにも見える。

 シェレンベルクはそんな彼女の瞳を見返しながら、わずかに片方の眉をつり上げた。今、彼のデスクの中に入っているラルス・シュタインマイヤーが提出した書類。

 それは、生まれながらの殺人鬼の精神分析結果。シュタインマイヤーは、マリーがブーヘンヴァルト強制収容所で処刑されたヨーゼフ・アーベントロートと同じ「もの」だと告げた。

 本当にそんな「化け物」のような人間が存在しているのだろうか。

 善悪の概念がなく、自己中心的で、そうして良心の呵責がない。

「なにが望みなんだ?」

 問いかけにマリーは肩にかかる長い金色の髪を払いのける。

「彼がやり残したことをやるだけよ」

 ラインハルト・ハイドリヒはドイツの最高権力者になろうとしていたわけではない。ドイツにおける自分に与えられた権力に欲情していただけ。

 答えて花のように笑った少女は、そうしてから再び登録カードに視線を落とした。それはかつて、ハイドリヒが構築した狩りのためのシステムの一端。

「恐ろしいとは思わないのか?」

 普通の人間であれば、目の前の”それ”が人を殺すためのシステムであると言うことは見ただけで理解できるだろう。だから、シェレンベルクは問いかける。

 ヨアヒム・フォン・リッベントロップの自宅で親衛隊の隊員を殺してからというもの、彼女の精神にラインハルト・ハイドリヒの記憶が乗り移ったのではないかと思われる言動が端々に現れている。

 本来、十六歳の少女が知るはずのないことを、彼女は知っていた。

 どういう事態なのかシェレンベルクにも理解できない。もしくは、今の彼女の状況を理解できるのはオカルトに傾倒しているヒムラーくらいなのかもしれない。

 シェレンベルクの上司であるハインリヒ・ヒムラーは時折、奇行に走ることがある。幸い、彼はそんなヒムラーの奇行に巻き込まれることはなかったが、見ていると笑いがこみ上げてしまいそうな行為を親衛隊長官は見せることがあった。

 ――馬鹿馬鹿しい。

「なにがです?」

 口調は柔らかく、とても「ハイドリヒ」本人を感じさせない。無邪気な瞳と、柔らかな言葉使い。

 公式な場では笑顔ひとつ見せなかった冷徹な「彼」とは大違いだ。

 だから余計に彼女の言っている事が信じられない。もしも、仮に彼女がハイドリヒであるならば、自分の実力でのし上がっていくことになるのだろう。

 今のところは、シェレンベルクとカナリスの後見がなければ身の安全すら怪しげな娘でしかないのであるが。

 どちらにしたところで、ブルーノ・シュトレッケンバッハには良い迷惑以外のなにものでもないだろう。

「人を殺すこと、だ」

「別に……」

 別に、と言いながら首を傾げた彼女は、ふっくらとした唇に指先を押し当てて考え込んでいる様子だ。

「だって人が死ぬのは当たり前、でしょう?」

 それが人の手によって行われるか、そうではないか。そして早いか遅いかだけの差だ。

「それよりも、シェレンベルク? 例のソ連の軍事クーデターの件に関してだけど、アメリカが干渉してくる前に早めにあちらのほうに手を打っておいた方が賢明ではないかしら?」

 告げられた内容に、シェレンベルクは無意識に頷いた。

 そう。

 アメリカが動く前に先手を打たなければならない。

 彼女と話せば話すほど、マリーにはハイドリヒと同様の知識がある。かつて彼が生きていた頃は同等に話しをすることなどできなかったが、今のマリーはハイドリヒと同じような知識を持ったシェレンベルクの協力者だ。

 そう考えればこれほど心強い者はいないだろう。

「そうだな」

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