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神々の黄昏 ― Vaterland ―  作者: sakura
XVIII 真理の門番
229/410

2 疑惑の正体

 ストックホルムを訪問中であってもシェレンベルクのもとには次々と新しい情報が舞い込んでくる。

 それらの情報を逐一処理しながら、最初から決定していた予定をこなすシェレンベルクの姿を、その部下たちはごく当たり前のように受け止めていたし、シェレンベルク本人も当然のこととして受け止めていた。

 差しだされたファイルを受け取りながら、国家保安本部のエリート官僚は小首を傾げてから口を開いた。

「アメリカの諜報部の動きはどうなっている? 連中もさぞや右往左往しているんだろう?」

 アメリカ合衆国大統領暗殺事件。

「……いえ、それが」

 部下の言葉を聞きながら、シェレンベルクはじっと長い睫を伏せて考え込んだ。

 アメリカの諜報部もさすがに大事件を前にして右往左往しているのではないか、というシェレンベルクの問いかけにしかし部下の答えは「そうでもない」というものだった。

「ふむ」

 短く相づちを打ちながらシェレンベルクは再び首を傾けると右手で顎を撫でる。

 仮にもアメリカ合衆国の大統領が暗殺されたというのだからもっと騒々しくても良いはずなのに、そこにあるのは不気味な静けさだ。

 たとえば大日本帝国との「交渉」に失敗したコーデル・ハルが「失脚しなかった」ように。

 薄気味の悪い違和感にヴァルター・シェレンベルクは部下に顔を上げた。

「ライプツィヒへつなげ」

「……ライプツィヒ、ですか?」

「そうだ、大至急だ」

「承知しました」

 ライプツィヒの田舎町。

 さらにその林に囲まれた辺鄙な街外れに、それは存在している。

 開発費用は国庫の莫大な資金を必要とする。とてもではないが、「それ」がまともに完成するまでほんの数年で済むとは思えない。しかし、必要なことは「それ」の感性ではないのである。

「大至急ライプツィヒのウラン・クラブ……――、ヴェルナー・ハイゼンベルク博士につなげ。それと、この通信文を三重の暗号にして国家保安本部に通信を送るように」

 いくつかの単語をメモに書き込むとシェレンベルクは命じた。

 承知しました! と踵を鳴らして彼の前から姿を消した部下の背中を見送ってから、しばらくした後につながった電話の受話器に向かってシェレンベルクは穏やかな声を上げた。

 彼の部下のほとんどは情報将校でありながら、生粋の諜報部員でもある。

 彼らはシェレンベルクが言うまでもなく、機密情報や秘密指令の扱いは心得ているから、そららについて小学校教師のようにシェレンベルクが今さら逐一命令を下す必要などない。

 ホテルの窓の外――ストックホルムの街並みを流し見ながら、シェレンベルクは聞いているだけならば穏やかに聞こえる声で、だが表情はかけらも動かさず冷たいほど無表情のままで淡々と受話器に向かって話しかけた。

 そんな青年将校を、テーブルについたままのマリーが頬杖をついたまま興味深そうに眺めている。

「お久しぶりです、博士」

 夏以来です、と言いながら彼はメモを引き寄せた。

 腹の中と、頭の中と、表情が完全に一致しない。それこそがヴァルター・シェレンベルクという男の冷徹な二面性だ。そして彼はだからこそ諜報部員のひとりとして決して他者に心を開かない。

 特に「政治的」影響力を持つ人間に対して自分の本音を見せるようなことは、自らの政治生命を縮めるようなものなのだ。

 官僚として危険な綱渡りをしていることを自覚していなければ、厳しい政治の世界で生き抜いていくことなどできはしない。

 こと、ナチス親衛隊国家保安本部に属する高官の一人としてシェレンベルクは常に今は亡きラインハルト・ハイドリヒ同様に、ありとあらゆる意味において暗殺や中傷などと言ったものの危機に晒されている。

 この世界は弱肉強食なのだ。

 誰もシェレンベルクの命を守ってくれることはないし、誰もシェレンベルクの命の行方などに関心を払わない。自分の命は自分で守るしかない。

「えぇ、今はストックホルムを訪れております」

 スウェーデン王国、その首都ストックホルム。

 その単語にウラン・クラブの構成員でもある。

 かつてのユダヤ系物理学者アルベルト・アインシュタイン博士や、リーゼ・マイトナー博士などと同様にドイツの天才科学者として名前を連ねる知識人だった。

 ストックホルム、という単語にヴェルナー・ハイゼンベルクはやや訝しげな声を電話の向こうで上げた。

「ご冗談を」

 そう言ってシェレンベルクは軽やかな笑い声を上げる。

「スウェーデンは中立国ですので、ゲシュタポの強権など通用いたしません」

 高い知性を持つことと、謀略に長けていることとはまた別だ。

 (はかりごと)に長けると言うことは、時として非人道的な冷徹さを要求される、諜報部員が人間的であるということは、最大の弱点になりかねぬ。

 だからヴァルター・シェレンベルクはいっそ冷酷なほど理性的で合理的であることを自ら選択した。

 それは彼が生き残るためだ。

「それに博士はなにか誤解されていらっしゃるようですが、わたしはマイトナー博士の拘束のためにストックホルムを訪れたわけではございません」

 もっとも訪問に際して知的で穏やかなリーゼ・マイトナーをマリーは一目で「気に入った」様子ではあった。

 面白いと思うのはナチス党(NSDAP)の掲げる純血主義的な思考とマリーが全く無縁であるということだった。

 普通のドイツ人であれば、自分と異民族とのなにがしかの関係を疑われるような行動を取ることに対して神経質になりそうなものなのだが、マリーはそうではない。

 現在のドイツ人にとって、純血が汚されるということはただそれだけの事例によって、将来の出世の道すらも閉ざされると言うことにほかならない。そしてそれは男たちばかりの恐れではなかった。その問題はともすれば自分自身が強制収容所での労働に従事させられかねないのである。だというのにマリーは自分に降りかかるだろう風聞すらも気にならないことのようで、いつものように天真爛漫な振る舞いを見せていた。

 それはまるで、自分が強制収容所送りにされるなど、微塵も考えていないとでも言うかのようだ。

「先生はすごいことを沢山知っていて、とても物知りなのね」

 無邪気にそう告げるマリーは、大日本帝国の駐在武官の小野寺信大佐よりもユダヤ人物理学者の女性科学者――リーゼ・マイトナーのほうに強い好奇心を感じたらしい。

 ドイツの政策やスウェーデンの国情などとは関係のない学問的なマイトナーの話しに熱心に耳を傾けていた。

 そんなに物理学に興味があるのであれば、高等教育を受ければ良いとも思うのに、どうやらその気はないようだった。

「こんな基本中の基本もわからないようでは、お話にならないわ」

 あきれた様子のマイトナーにマリーは屈託もなく笑うと六十歳をとうに越した天才物理学者の瞳を覗き込んだ。

「別に物理学に興味があるわけじゃないもの、先生」

 ――わたしが興味あるのは教授先生なの。

 教授先生。

 マリーはマイトナーのことをそう読んだ。マイトナーの名前を口にしてからシェレンベルクは、そんな少女と女性科学者のやりとりを思い出した。

「先日の飛行機酔いした”彼女”はマイトナー博士のことをたいそう気に入ったようでした」

 しかし彼女は高名であるとは言えユダヤ人だろう?

 ハイゼンベルクの言葉にシェレンベルクは相手に見えていないことをわかった上で小さく頷いてから静かに応じる。

「ですが、”問題”がそんなところにあるわけではないことを博士もごぞんじでいらっしゃるはずでは?」

 ユダヤ人であるということなど些末な問題に過ぎない。

 言いながらシェレンベルクは口元だけで冷ややかに笑った。

「ミルヒ元帥をご覧ください」

 つまるところそういうことなのだ。

 どれだけ権力に近いところにいるかということで、生死が決められる。

 それこそつまらない理由で人間の生死は悪意をもって定められるのだ。

 そんなシェレンベルクのにハイゼンベルクは「危険な台詞を言うべきではない」とたしなめたが、シェレンベルクは電話の向こう側の相手に余裕の態度を崩そうとはしなかった。

 なによりも別段これと言って危険な発言をしたわけではない。

「えぇ、”ですから”ハイゼンベルク博士も身の回りにはご注意ください。事の子細につきましては、後ほど連絡があると思われますが、余り神経質にはなられませぬよう」

 充分に”気をつける”べきである。

 ヴァルター・シェレンベルクは、ヴェルナー・ハイゼンベルクにそう言った。

 彼はアメリカ合衆国大統領の暗殺事件という巨大な舞台の影で、同時進行に多くのことが起きようとしているのではなかろうかと推測した。

 物騒なことこのうえないが、その大事件そのものが目隠しとしての重要な役割を担っているのだろう。

 そして目隠しのための事件であるとすれば、事件は派手であればあるほど都合が良い。

 つまり「そういう」こと。

 しばらく電話越しに言葉を交わしてからシェレンベルクは受話器を置いた。

 ハイゼンベルクの口ぶりから察するに、当面の問題はなさそうだ。

 それがわかれば充分だった。

「用心深いのね」

 電話口の世間話しに耳を傾けていたシェレンベルクに、両手で頬杖をついたままマリーが言う。

「野生の動物みたい」

 そう評価したマリーにシェレンベルクは憮然とすると、わずかばかり不機嫌なまま少女の肩と腰を両手で引き寄せた。

 そしてまるで睦言でもささやくように大人の色香(いろか)をただよわせた声でシェレンベルクは少女の耳に甘やかに告げた。

「”俺”が君を押し倒したらどうする」

 長い指先で少女の首筋をあやすようにくすぐってやれば彼女は、控えめに抗議の声を上げながら肩をすくめた。

 そうして彼女はシェレンベルクをまっすぐに見つめる。

「シェレンベルクはわたしにそんなことしないわ」

 それは絶対の信頼なのか、それとも単純に彼女が馬鹿なだけなのか。

 それを現したようなマリーの言葉にシェレンベルクはむっつりとした表情のままで脱力する。

 彼女を相手にしていると、時々自分のやっていることが空回りしているように思えて馬鹿馬鹿しくなる。

「シェレンベルクは、わたしに”そんなことできないわ”」

 あなたはそんなことそする人じゃない。

 大真面目な青い瞳がシェレンベルクを見据えた。

「……――色気が足りん」

 ぼそりと不機嫌に言ってから長い溜め息をつく。

 そんな彼にクスクスと笑ったマリーはそうしてテーブルに肩肘をついてからかわいらしく小首を傾げた。

 こんな栄養失調気味のヤセギスの少女など抱いてみてもごつごつしているばかりで、気持ちよくも何ともない。

「……くだらんことを言ってないでもっと肉をつけろ」

 少女のバラ色の頬を指先で軽くつねってから、シェレンベルクは床を蹴って立ち上がった。

「なによぅ、シェレンベルクはいつも意地悪ばっかり! カルテンブルンナー博士に言いつけてやるんだから!」

 つねられた頬を押さえて、唇を尖らせた彼女は衝動的に立ち上がるとシェレンベルクの後を追いかけた。

「もう少し太らないと、カルテンブルンナー大将も心配するぞ」

 くしゃりと少女の金髪をかき回して歩きだす。

 一週間の視察の予定ももう少しで終わろうとしていた。

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