1 ガンジス川のほとりにて
神の如く「公正」で、「公平」に。誰かの意見に傾くこともなく正義を貫くということがどれほど苦労することであるのかを。
権力者というものは、誰しも自ら属する陣営に知らぬうちに傾いているものであり、多くの場合がそう自覚していることがままあった。もちろんそれが悪いことであるわけもない。だが「裁定者」たちですら「そう」なのだ。
世界中が戦争に渦巻いていて、至るところで人々を悲しませる犯罪が多くの国々において行われている。なによりも悲しむべきは、そうした行為が「正義」の名のもとに行われているということである。
全くもって嘆かわしい……――。
山積みの法律書に囲まれたまま、彼は世界の逝く末を憂う。
かつてない世界を巻き込んだ大戦争は、歴史という時間の中でこれまたかつてない程の死体の山を築き上げている。
どこを見ても「死体」「死体」「死体」だ。
人というものはどうしてこうまでも罪深いのだろうか。
悲嘆に暮れる暇さえ見つけられない。それほど大規模な殺戮が行われていること。その現実が、彼の心を傷つけた。
世界のいたるところで行われ続けるのは、全人類に対する許されざる大犯罪。
それはまさしく悪魔の所行だ。
「スイスを訪ねたいと思っています……」
気難しげな面差しが印象的な東洋人の男は、分厚い唇を開いてそう言った。
「世界は混乱に満ちあふれていて、悲しむべきはよりどころを誤った各国の知識人、あまつさえ法律家たちですらも悪辣にして許されざる犯罪に手を染めている」
何をなじっているのか。
そう思えるほどの強さを宿して、五十代のインド人は切なげに眉をひそめる。
ラダビノド・パル。
イギリス占領下にあるインド政府にあってエリート中のエリートと、その名前を知られていた。
「しかし、今のヨーロッパは危険ではないのかね?」
次世代のインドの法曹界を率いる彼を失ってはならない。そんな危機感を募らせて、老人が問いかけるとパルは静かにほほえんだ。
「少なくとも、ドイツとソ連の戦争は形式的には終結しております。状況的なものを考えればヨーロッパの危険度はだいぶ下がっておりますし、わたしは英仏連合の側に属する人間であるとは言え、植民地の東洋人ですから。どうせ誰も見向きもしますまい」
危険だと老人に告げられて応じたパルは肩をすくめてからどこか苛立たしげな光を瞳にたたえて、常夏のデリーの街を眺めやった。
「世界で何が”起きようとしているのか”。わたしはどうしてもこの目で見極めなければならないと思っています」
熱心なガーンディー信奉者であり、絶対平和主義者でもあるパルは決して暴力の行使を望んでいるわけではない。
もちろん、インド国内の若き独立運動の過激派が存在することも知っていて尚、パルは「そんなことをして何になるのか」と問わずにはいられない衝動に駆られる。
けれども今や状況は静かに、そして確実に変わりつつある。それをパルも認めざるをえなかった。
イギリスの暴力に、暴力で対抗することにパルも、そして目の前の老人も賛同できない。賛同できないどころかむしろ大反対だ。
暴力に暴力で抵抗すれば、その衝撃は同じ分だけ自分たちに返ってくる。そして相手に付け入る隙を与えて、弁明の機会を作るだけなのだ。
ただでさえ、相手は二枚舌三枚舌ども言えるイギリス人だ。
彼らは平然とダブルスタンダードを使い分ける。
完璧な勝利を得るためには、インドという国は自らの力で。しかし暴力によるものではなく独立をつかみ取らなければならぬ。
「……インドのためにも」
東南アジア、中東アジア、そしてアフリカを支配し続けてきた白い大きな人々を、アジアの人間でも打ち倒すことができるのだと、インド人たちよりもさらに東からやってきた小さな人たちが押してくれた。
戦う方法に違いはあれど、彼らの強さを目の当たりにしたインド人たちは、もしや自分たちにもできるのではないかと、ささやかながら希望を抱いた。
「欧州情勢とインドの国情を考えれば、余り参考にできるとは思えんが……」
「だからこそ、です。”バープー”」
インドの独立のためには、多くを知り、国際情勢を見定めなければならない。
アジアのためのアジア。
ヨーロッパのために搾取されるアジア、としてではなく。
暴力的な非文明的な殺戮行為には賛同できないが、東の果てにあるごく最近まで国を外国の勢力から長いこと閉ざしていたアジアの新興国――大日本帝国はインド人足る彼らに誇りを思い出させてくれた。
アジア人という誇りを……!
立ち上がれぬほどこてんぱんにたたきのめされたのならば、一度どん底にまで落ちてから再びそこから立ち上がれば良い。
――我々は、あなた方を蛮族だなどとは思っていない。ヨーロッパの覇権主義、もしくは植民地主義に対して共に、アジアのためのアジアを築く友だと考える。長く遠い昔日、偉大な文明を築き上げたあなた方には、ヨーロッパの植民地主義を打ち払うだけの力も、知性もあるはずだ。だというのに、あなた方はなぜ状況に甘んじて立ち上がろうとしないのか。なぜ、貴人を戴いた素晴らしい民族であるというのに、他民族の支配を甘受しているのか。
アジアのためのアジア……――。そのスローガンを実現するために、極東の人間の力だけでは足りないのだと、彼らは訴えた。
戦う道はひとつではない。
そうラダビノド・パルに日本人たちは思い出させてくれたこと。
民族の誇りなどすでに忘却の彼方に追いやってしまったのか!
物量的劣勢と、長大な兵站という圧倒的に劣悪な条件下で、それでも東の果ての小さな人たちは強靱な意志をもって大きな白い人たちを蹴散らした。
どんなにあがこうとも、アジア人の手では覆すことなど不可能に思えたというのに。
彼らは体格の差も、技術的な差も全てを頑なな心の強さで補って戦った。
そしてその大日本帝国の軍隊は、今、深手を負いながらも鉄の意志だけでかろうじて戦線を維持している状況にあることをパルは見て取った。
――では、彼らは”誰”のために戦っているのだろう。
それはもちろん「日本」のためだ。
けれどもそれは行く行くはアジア全体の利権にも繋がるのかもしれない。
子供だましのかけ声のようにも聞こえるそんなお題目に、失礼なものを感じながらパルは失笑した。だが、彼ら日本人は本気でそんな誇りのために戦っている。
日本人の権益を守るためだともとれるかもしれないが、結局のところ、彼らは他のアジア人の権益を守るために戦っているようなものだ。もしかしたら、日本人がイギリス人たちのように悪辣な手のひらを返すような事態もあるかもしれない。けれどもそのときはそのときだ。
世界で正義を貫く国を建国するために、パルはガーンディーのもとで静かな戦いを繰り広げていた。
大日本帝国が掲げる誇り高い理想。
そしてそんな彼らの理想に対して、すでにいくつかの国が賛同の意志を唱えはじめていた。
――友として、共に戦うべきである、と。
欧米列強が大和民族の誇りを踏みにじろうとするのであればただではおかない。
そんな凶暴さすら垣間見せる若い虎。
日本人たちは自分たちに危機を振りまこうとする西の国々に牙を剥いた。どうして、植民地にされた時のアジア各国にそれができなかったのだろう。
国民のひとりまでも全てが立ち上がるという簡単なことが。
どうしてできなかったのか。
欧米列強に追いつけ追い越せ。
そんなかけ声のもとに、日本人たちはかつての自分自身の古い価値観を脱ぎ捨てた。
「わたしは誇り高いインドのために、世界でなにが起きようとしているのかを見極めなければならないと思っています。あるいは、それが独立の呼び水となるかもしれません……」
偉大なるバープー……。
ラダビノド・パルにそう呼び掛けられて、老人は小首を傾げた。
インドの法曹界のエリート中のエリートが、そうして立ち上がった。
それは紛れもなく、汚れなき美しさを秘めた神の国――インドのために。
インド法曹界のエリートにして異端児、そして生粋のガーンディー主義者という特殊な立ち位置にあるラダビノド・パルの動きはインド独立運動家の過激派とも呼ばれるスバス・チャンドラ・ボースの情報網にもすぐに関知された。
もっともボースのほうもパルの微妙な立場は一応理解している。
植民インドのエリートということはそのままイギリス本国との関係が深いことでもあり、ガーンディー主義者であるということは遠回しにインドの独立派でもあるということだ。しかし、極めて正義感が強く融通が利かない一面を持っている男。
ひどく屈折しているともとれるが、一言で表現するならば法律に対する信仰心が強い正義漢と言えば良いだろう。
「確かにパルは、我らがインドを代表する法律家だし、その知性は我らの父ガーンディーに次ぐ。しかし、彼の存在は諸刃の剣だ」
ボースは苛立たしさを隠せないままでそう言った。
独立運動家の中でも過激派としてイギリス政府から目をつけられているスバス・チャンドラ・ボースや、いまひとりのリーダーとして名前を連ねるラース・ビハーリ・ボースなどとは違ってインド法曹界の寵児とも呼ばれるラダビノド・パルのフットワークは軽い。しかし、それゆえにパルはまた違った意味でイギリス政府から危険視されてもいた。
彼は、法律という武器を片手にして、ひとり戦いを繰り広げる覚悟を選び取った。
「彼の力があれば、我々はイギリスに対して公明正大な抵抗の理由を突きつけることもできるだろうに」
不満げにつぶやいたボースは、丸い眼鏡の奥で思慮深い光をちらつかせていた。
自己顕示欲が強く、過激とも言われるが、スバス・チャンドラ・ボースにしろラース・ビハーリ・ボースにしろ、パルにしろ思うところと理想はひとつしかない。
糸車を回す国。
インドの再生。
願うことはただそれだけだ。
そしてそのためならば、スバス・チャンドラ・ボースはどんな相手とも手を組む覚悟をしていた。
パルが法律を武器にして戦う覚悟を決めていたように、スバス・チャンドラ・ボースもまたひとりの男として彼ら自身を支配する者たちとの戦いを貫く覚悟だった。そしてそのために、ナチス・ドイツやイタリア、そして大日本帝国とも粘り強く交渉を続けていた。
「我が国には、今日の食事にも困っている人々がいる。だから、彼らのためにも戦う力を持っている我々は戦わなければならないのだ」
貧しい多くの者たちが貧困に喘いでいる。
全てはヨーロッパ諸国の搾取が貧困を加速させ、そしてその貧困が国内問題を複雑にさせている。
貧しい者たちは豊かになろうとしてあがき、さらに下で苦しむ者たちを苦しめる。
そんな苦しみに終止符を打たなければならない。
偽善と呼ばれても戦うと覚悟を決めていた。
「我々の国は決して貧しくはない」
ボースは目の前の白人の男にきっぱりと言い放った。
「我々の国の富を、イギリスが奪い取っているのだ」
美しいインドを、白人たちが汚している。
「先日、山奥の村がひとつ消えた……」
ぼそりとボースはつぶやいた。
インド政府が隠蔽をしようと躍起になっていた事件の情報を、ボースは間諜を通じて入手した。
どうやら首謀者がイギリス政府であることを知った彼は、インドのためにはなにがなんでもイギリスの影響力をインドから取り除かねばならないと強く確信した。
ガーンディーやパルは余り快く思っている様子はないが、これからもまた同じように罪なき人々の命が失われるだろうことを考えると手段など選んではいられない。
「では、了承していただけるのですかな?」
ドイツ訛りの英語にボースは視線を彷徨わせてから小さく頷いた。
「良かろう」




