10 霜月
世界が震撼した……――。
スウェーデン王国の首都、ストックホルムに滞在していたナチス親衛隊国家保安本部、国外諜報局長のヴァルター・シェレンベルクにその第一報が届いたのは十月三一日の遅くに夕食を摂っているときだった。
「……ふむ」
耳元で囁かれた言葉に眉尻を引き上げたシェレンベルクは、時計を見やってから悠然と足を組み直した。
「その情報の信頼性はあるのか?」
「はい、親衛隊全国指導者個人幕僚本部のほうから届いた情報ですので、間違いはないかと思われます」
部下にそう言われてシェレンベルクは小首を傾げる。
ヒムラーか、という言葉は口にせずにシェレンベルクは顎に片手を当てるとじっと考え込んで睫毛を伏せた。しばらく考え込んでからシェレンベルクは目を上げると、自分の目の前で姿勢を正して立ち尽くしている情報将校の部下を見やってから、夕食の皿の乗ったテーブルに肘をついた。
どこまでアメリカという国は間抜けなのだろう。
それが正直なシェレンベルクの感想だ。
「ご苦労だった。継続して、大至急ありとあらゆる情報を揃えろ」
シェレンベルクの命令に親衛隊情報部の将校はサッと片腕を上げるナチス党の敬礼をすると「承知いたしました!」と応じてカッとブーツの踵を鳴らした。
諜報活動にあって自ら情報を集めることは重要なことなのであるが、残念なことにシェレンベルクの体はひとつしかないし、情報収拾のために予定を繰り上げることなどできはしない。
いや、放り出したところで問題のない事案ならば予定を繰り上げることもしたかもしれないが、今回の予定の大半は繰り上げることは余り好ましい話しではない。
情報将校の指揮官としては無闇矢鱈な選択をすべきではないと、シェレンベルクは考えた。
どちらにしたところで、今のところ詳細は不明だ。
「……ヘンリー・ウォレスの暗殺、か」
果たして真相はどこにあるのか。
部下の報告によって中断されてしまった食事を再開しながらシェレンベルクは忙しなく頭脳を働かせながら神経を研ぎ澄ませる。
短い期間で二回もの大統領暗殺事件が発生した。
アメリカの歴史の中で暗殺された大統領と言えば、ひとりめは第十六代大統領のエイブラハム・リンカーン。ふたり目は第二十代大統領ジェームズ・ガーフィールド。三人目は第二五代大統領のウィリアム・マッキンリーである。
リンカーンは一八六五年に。ガーフィールドはその二十年ばかり後の一八八一年。マッキンリーはさらに二十年後の一九〇一年に暗殺された。
そしてそれから四十年。
アメリカ合衆国は大統領の強力なリーダーシップの元、栄華を誇っているはずだった。だというのに、たった半年もの短期間でふたりの大統領が暗殺されてしまった。これはアメリカの国内情勢不安を表しているのではないのだろうか。
食事をすすめながらシェレンベルクはそんなことを考えた。
少ない情報のもとにいかに素早く、正しい分析を行うことができるか、ということが情報将校らの腕の見せ所だが、いずれにしろ情報は少なすぎる。なにせ、部下の「アメリカ大統領が暗殺されました」という言葉しか、シェレンベルクは聞いていないのだ。
先の第三二代大統領、フランクリン・ローズヴェルトの死についても未だに多くの謎が残っているというのに、その混乱も冷めやらぬ間に次の事件ときたものだ。もっとも、このアメリカの国内問題については敵対するドイツや日本にとっては朗報とも言えたかもしれない。
敵対国の国内の混乱は、国外における軍隊の展開にも影響を及ぼす事態になるだろう。特に、国家元首の暗殺事件ともなればその余波は考えるに及ばない。
ローズヴェルトは有色人種の人権団体の過激派によるテロリズムによって殺害された、と考えるのが妥当だろうというのが国内諜報局長である親衛隊中将オットー・オーレンドルフや、国防軍情報部長官の海軍大将ヴィルヘルム・カナリスの見解で、これについてはシェレンベルクも同意できた。
アメリカという巨大な象は、国内に植民地と奴隷労働のための労働力を持っていると言えば正しいだろう。だからこそ、アメリカは国外に進出しなくても、巨大な国力を維持していくことが可能だ。
広大な国土と、恐るべき労働力を秘めた国。
それがアメリカだ。そしてそれ故に、アメリカという国はいつも国内に少なからぬ火種を抱えているとも言える。
肌の色も、思想も、主義主張も異なる人間たちがひしめいている。
ローズヴェルトが有色人種の人権団体の過激派によって殺害されたのであれば、では、ヘンリー・A・ウォレスはどうして殺害されなければならなかったのか。もちろん、こうしたアメリカの国内問題はドイツにとってこれ以上ないほどの好機でもあるのだが、それに対して無邪気に「奇跡が起こった!」と喜ぶのは愚の骨頂だ。
つまるところ、その情勢不安を情報将校の一員としてどう利用するか。それを考えなければならなかった。
それを読み誤った者が敗者になるのだ。
食事を終えてホテルの自室に引き上げたシェレンベルクは、厳重な警戒態勢の敷かれたフロアの廊下を眺めて肩をすくめた。
今回の旅程ではマリーの護衛に慣れている親衛隊員を連れてきてはいない。そんな状況だったから彼女も少しは緊張するのではないかとも思えたがそんなこともなかった。いつもの調子でマイペースなものだ。
発育の余りよろしくないマリーの身体的な成長と、旅の疲労の回復もあって早めに休むようにと彼女には言ったものだが、はたしてちゃんと休んでいるだろうか。シェレンベルクが護衛の親衛隊員の視線を受けながらマリーにあてがわれた部屋を細く開いて中を覗くと、はたしてそこは深海のような静けさで満たされていた。
空気が動く気配もしない。
ブーツの音も鳴らさずに室内へと入ったシェレンベルクは、そっと壁際のベッドに歩み寄った。
大きな柔らかい枕に頭を沈めて少女が眠っている。
金色の髪をシーツに散らして、白いパジャマを着ていた。
年頃の少女であれば、貴族の娘のようなドレスにも似た寝衣に憧れるのだろうが、マリーはそんなことも特にないようだ。
マリーが無事なことと、言いつけ通り寝てしまったことを確認してから、シェレンベルクはそっと長い指を伸ばした。
肌理の細かい少女独特の肌に触れてみる。
警戒心もかけらもなく眠っている少女に触れるのはなんとも奇妙な気分にさせられる。彼女は本当に自分のことを信頼しているのか。それとも実はこの年頃の少しませた少女たちと同じように、小悪魔のように男たちを誘っているのか。もっとも、恋愛の手管においては百戦錬磨のプレイボーイとも言えるシェレンベルクなどは、そんな少女たち――あるいは少女から脱したばかりの浅慮な女性たちの誘いなど一瞥もしない。
「俺が君を押し倒すとかそういったことは思っていないのか」
声に出して呟いてみる。
しかし相手は眠っていて、彼の言葉に答えもしない。
国家保安本部長官のエルンスト・カルテンブルンナー親衛隊大将にはさんざん、マリーに手を出すなとも言われているが、こんなヤセギスの子供のような魅力のない少女に誰が手を出すのだろう。
もちろん、女たちを貶めるには一番簡単な方法は性的な暴行だが。
そんなやり方がシェレンベルクにはスマートだとは思えない。そうは言っても時と場合によってはそうした方法を選択することもあるが、あくまでも時と場合によるし、シェレンベルクにとってマリーはそうした対象ではない。
青年の指の先で眠っている華奢な少女。
彼女は彼を信頼しているようにも見える。底の知れない不気味さを感じることもあるが、当面彼の邪魔にはなる気配もなかった。
触れてみても反応のない色気のない相手に対して独り言を言うのもなにやら馬鹿馬鹿しいものを感じたシェレンベルクは、やがてマリーの部屋のソファに腰掛けるとそのまま深く背中を預けてじっと考え込んだ。
――自分が思うよりもずっと早く世界の歯車が動いているような気がする。
それを見極めなければ、ドイツの勝利はない。
いや、そうではなく……――。
ドイツの勝利などシェレンベルクにとってはいっそどうでもいいことだ。一番大切なことは、シェレンベルクにとって最も理想的な形で、ドイツが戦後を迎えることなのだから。
戦争を一生やっているわけにもいかない。
どこかで幕を引かなければならないと思うのだが、愚図の国家首脳部のおかげでなかなか彼が思うように事が運ばない。
「――……戦争、か」
ぽつりとつぶやいた青年はやがて、ソファに深く腰掛けたまま眠りの底に引きずり込まれていった。
翌日の早朝、マリーの部屋でそのまま過ごしてしまったことに気がついて、ヴァルター・シェレンベルクは内心で「しまった」と舌打ちをするがすでに既成事実は隠匿することはできない。
どうせなんらかの形で噂は漏れることだろう。
人の口に戸は立てられぬ。
「別に手を出したわけでもあるまいし、構わんが……」
「……あれ? シェレンベルクー?」
ソファの上に座ったまま大きく伸びをしたシェレンベルクの耳に、少女の声が聞こえてきた。
彼が身じろいだ気配で目を醒ましたのだろう。
上掛けの端を掴んで上半身を起こしている彼女は、可愛らしい袋袖になっている長袖のパジャマを身につけていた。
白い首回りに赤いパイピングが施されていて、それが幼さを強調している。
「昨夜、ここで考え事をしていたら眠り込んでしまったらしくてな」
すまんな、と続けてからシェレンベルクは立ち上がる。窓の外はまだ薄暗くて、早朝の時間であることが見て取れた。
「もう少し寝ていろ。今日はいろいろと忙しいぞ」
そう言いながら、意識を切り替えたシェレンベルクが背筋を正して立ち上がると踵を返した。一旦、自室に戻って、数時間休んだほうが良策だ。
彼女に対して情愛的な素振りを見せもせずに歩きだすと、視線だけが彼を追いかけているのが感じ取れる。
マリーは計算などしていない。
少なくとも意図的には。
「……寝ていろ」
振り返ってそう言い置いてからドアノブに手をかけたシェレンベルクがそう言うとマリーは大きな青い瞳に滲ませた睡魔に取り憑かれたようにぼんやりとほほえんだ。
「おやすみなさい」
ぱたんと倒れ込むようにして再び眠りに落ちていく。
そんな少女を数秒凝視して、シェレンベルクは親衛隊員の異様な眼差しを受けながら扉を閉めた。
特になにか言い訳するつもりもない。
そもそも何もやっていないのだから言い訳する必要もないのだが、どうせなにかを言おうと言うまいと邪推はされるのだ。
「……おやすみ」
シェレンベルクは暁の闇の中に口の中で独白した。
ネーベやミュラー、カルテンブルンナーが”そう言う”ように、マリーには確かにある種の「才能」があるのかもしれない。
それがどんな種類の才能なのか。
言葉で表現しろと言われれば、医学博士でもない自分には難儀することだが。
彼女には人の心を安らぎへと導く才能がある。
「しかし、これはベルリンに帰ったら大将共がうるさいな」
うるさいだけで済めばいいのだが、あることないこと邪推されるのはどうにも心楽しいとは思えない。
普段の自分の行いの悪さのせいとも言えるのだが、それにしたところで「国外諜報局長が部下の女性将校に手を出したらしい」と噂されるのは好ましい事態ではなかった。
もっとも肉体関係が生じれば、男女の距離というものも自然と変わってくるものだから――シェレンベルクはともかく、女性のほうは――、マリーを我が子のようにかわいがっている他の高官たちもすぐに噂は真実とはほど遠いものだと気がつくだろう。
自分の安易な行動から発した頭痛の種らしいものに、内心でシェレンベルクは頭を抱えながらややしてから大きな溜め息をつくのだった。
こうして一九四二年も十一月が訪れた。




