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神々の黄昏 ― Vaterland ―  作者: sakura
XVII 地獄の門
221/410

9 強靱な意志

 命の危険。

 一言で表現するならばそれに限る。

 そして、彼が感じる生命の危機の理由もまた、彼は当然のようによく理解していた。

 いかに国家としてその力強さを主張してみたところで、その内側には常に巨大な魔物を飼っていた。そしてその巨大な魔物とやらはいつ自分自身を食い荒らしかねないということも。

 アメリカというライオンは、その足元に常にひどい脆弱さを抱えているのだ。

 どんなに対外的に息巻いてみたところで、その国の頂点から俯瞰するヘンリー・A・ウォレスには一目瞭然だった。

 溜め息をついたウォレスはホワイトハウスの執務室でデスクに着いたまま、なにもない机上をじっと見つめる。

 国内の状況はそれほど良くはない。

 戦争をはじめたはいいものの、ドイツ側の情報戦の結果なのか、それとも日本側の策略によるものか。アメリカ国内にあって燻り続けていた有色人種たちの人権問題が白日の下に晒されることになった。

 いったい誰が「その」引き金をひいたのだろう。

 とりとめもなくそんなことを考えながら、ウォレスは党内の不穏な空気に背中を震わせる。

 自分は、もしかしたら早すぎる理想を(いだ)いてしまったのではないだろうか。

 ――もしかしたら、アメリカという国がウォレスの理想を受け入れるためには、準備が足りなかったのではなかろうか。

 アメリカという国に古くから息づく白人至上主義。それが決して正しいものであるとは、ウォレスは思っていない。けれども、肌の白い人間がより美しいのだという、根拠もない愚かな考えがまかり通っていることもまた事実なのである。

 肌の白い人間にも愚かな人間もいるし、肌の黒い人間にも聡明な者はいる。そして黄色い肌の人間にも素晴らしい志を持つ者がいることも、ウォレスは知っていた。

 けれども、肌の白い人間がまごうことなく全ての人間の中で、偽りなく「優れている」という考え方。

 それこそがアメリカ、及びヨーロッパ諸国が正さなければならない思想。

 思考の淵に捕らわれたウォレスは、ただ答えを見いだせないままぐるぐると考えに沈み込んだ。

 結局のところ、自分の理想を押しつけることになるのではないか。

 国の指導者としての悩みもまた多い。

 先代の大統領――フランクリン・ローズヴェルトは大きな間違いを犯したのではないかとか、どんなにウォレス自身が大きな代償を支払うことになるのだとしても、アメリカという国の行く末のためには、それでも尚、自分が信じた道を突き進まなければならないという必要性も。

 全てをわかっていて、ウォレスは批難を浴びることを覚悟して信じた道を進む。

 アメリカの未来のために、今、自分が大統領としてできることを選択する。

 考え込んだまま、ヘンリー・ウォレスは軽く自分の膝を手のひらでたたいた。考えたところでどのみち答えは知れている。

 どちらにしたところで茨の道を進むことはわかっているから、彼はそっと片目を細めた。

「わたしは戦わなければならんのだ」

 戦場で戦う兵士たちのためにも、国のトップが戦争を投げ出すわけにはいかない。

 世界にあって、アメリカの地位と名誉のために。そして、そればかりではなく、なによりも北アメリカの大地に生きる多くの人々に幸福を届けるために。

 ――戦い続けなければならない。

 戦いとは、戦場だけで行われるものではない。

 ぼそりと独白してから、彼は立ち上がると窓の外を見つめた。どんな困難が、この先に待ち受けているのかは、まだわからない。けれども国を支える人間として、立ち止まることは許されない。

 政治とはまるで底の知れない沼のようだ。そうウォレスは思った。そして、自分はそんな底なし沼のような泥沼の世界で戦い続けていくことを決断した。

 武器を持つよりも、もっと激しく厳しい戦いの中に彼は生き甲斐を見いだしたと言えるのかも知れない。

 どんな苦難が目の前に待ち受けていて、そのために自分の命が危険に晒されるのだとしても。



  *

 デンマークの空港で時間を調整するヴァルター・シェレンベルクは、報告を受けながら腕時計を見やった。

 汽車で夜通しの移動をしてマリーはすっかり疲れ切った様子でシェレンベルクに寄りかかっている。ただでさえ食が細いのに、汽車での移動のせいで食欲も減退したのかほとんど食事を取っていない。

 眠さからか落ちかかる瞼と同じように震える睫毛にキラキラと太陽の光が反射していた。

 これはライプツィヒに行った時の二の舞になりそうだなと他人事のように考えながら、シェレンベルクはずるりと膝から力の抜け落ちそうになるマリーの体を支えてやった。全くもって武闘派と言うにはほど遠いシェレンベルクであるが、体格差もあってマリーくらいの少女なら簡単に支えることは可能だった。

「スコルツェニー」

「……はっ」

 抑揚の感じられない声色で武装親衛隊の中尉を呼んだヴァルター・シェレンベルクは、眠そうにして目をこすっている少女を片手で支えてやりながら口を開く。

「女子供の面倒は嫌いか?」

 何気ない様子で問いかける。

 もちろん、生粋の秘密工作員であるオットー・スコルツェニーが、地味な少女の護衛など好きこのんで受けたい(たぐい)の命令ではないだろう。

「……それは、好きではないと答えてもよろしいのですか?」

 ふてぶてしいとも言えるスコルツェニーの物言いに、シェレンベルクは口角をわずかに引き上げて笑うと顎を上げてからマリーを視線だけで見下ろした。

 もっともこんなシェレンベルクの余裕綽々とした態度が面白くないところもある。だが、それでも尚、彼は決して頭ばかりの青年ではないことがスコルツェニーの前ですでに証明されていた。

「正直に言ってくれて構わん」

 素っ気ない上官の言葉に、長身の男は小さく肩をすくめてから顎をしゃくった。

「少佐殿の”お世話”をつかまつればよろしいのですか?」

 慇懃なスコルツェニーの言葉に少しだけ機嫌を損ねたらしいマリーがゆるゆると目を上げる。

「……子供じゃないわ」

 抗議をする声は、だけれども睡魔に負けて弱々しい。

 白いマントがゆらりと揺れて、マリーが細い腕でシェレンベルクの背中にしっかりとしがみついて額を押しつける。

 ともすれば寝息すら聞こえてきそうなマリーの様子に溜め息をついたのはシェレンベルクではなくスコルツェニーのほうだ。汽車での移動の間中、マリーの相手をさせられていた長身の武装親衛隊の中尉はあきれた様子で長い腕を差し伸べた。

「あのね」

 スコルツェニーの腕の中で、マリーは墜落するように眠りの水底へと沈没した。

 そんな少女の体を軽々と抱き上げたスコルツェニーは、シェレンベルクに一礼して律動的な足取りで彼の前を辞した。とは言っても、彼らが待機しているホールはそれほど広くはない。

 子供ではない、という「子供」に限って大概の場合子供なのだ、と説教じみたことを考えながらスコルツェニーは腕の中で警戒心のかけらもなく眠り込んでいる細い体を見下ろして考える。

 この冬に、また流行病(はやりやまい)のひとつも発生しなければ良いのだが、と。これほど頼りない体格の子供では、病気に対する抵抗力もたかが知れている。もちろん本人にとって大人たちの心配など大きなお世話なのかも知れないが、それでも見ているだけでも不安な彼女の体格は大人が心配して余りある。

 現代にあっても冬の寒さの厳しいドイツでは、体力のない子供など足手まといにほかならない。

 昔ほどではないが未だに口減らしという手段も選択された。

 そういう「時代」である。

 残酷な話しだと思う者もいるかもしれないが、ひどく過酷な条件下では人も虚弱体質の子供を育てる義理などない。

 そもそも母親となるべき女性が、弱々しいというのもいかがなものなのかともスコルツェニーは思う。女性は健康的で、母親になるために力強くなければならぬ。

「見ようによっては見目麗しいのだろうが……」

 貴族の姫君でもあるまいし。

 スコルツェニーは冷静にそんなことを考えた。

 そんなわけで、シェレンベルクら一行はデンマークに汽車で到着してから、ドイツ空軍に提供された基地で専用機の用意が整うのを待っていた。

 数機のユンカースJu52(タンテ・ユー)に分乗して、ノルウェーの首都ストックホルムへと向かう。

 シェレンベルクの目的はもちろん、連合軍側の情報機関や親連合側の将校との接触でもある。戦争に勝つにしろ負けるにしろ、戦後の立ち居振る舞いはすでに考えておかなければならない。

 彼が考えるところでは、今までのヒトラーの政策はあくまで「偶然の産物」にしか過ぎなかった。

 ドイツ第三帝国グロス・ドイチェス・ライヒの国家元首、ナチス党の党首でもあるアドルフ・ヒトラーはその信奉者たちからは「天才」とまで謳われる。しかし果たして本当に天才的なのかと言われると、シェレンベルクなどからしてみれば首を傾げざるを得ない。

 彼――ヒトラーは自らの選択がたまたま成功しただけだというのに、すっかり勝利に酔って鼻が高くなっている。

 十九世紀末に発表されたイタリアの寓話を思い出して肩をすくめたシェレンベルクは、ユーおばさんと呼ばれる旅客機が準備されるのを眺めながら、思考対象を国家元首に戻す。

 ヒトラーが本当にドイツの行く末を見据えているのかなど知れたものではない。アドルフ・ヒトラーと比較すれば、ずっと小さな権力しか持たない自分にできることは限られている。

 シェレンベルクにできることと言えば、ヒトラーが闇雲に振り回す拳によって引き起こされる衝撃をいかに最小限のものに済ませるかと言うことだ。

 軍隊にしろ、諜報部門にしろ、数年前はドイツの素早い攻勢に対応できていなかった英仏連合を中心とした連合国は、すでにその対応をこなしつつある。敵は柔軟にドイツに対応しているというのに、彼らと剣を交えているドイツは敵の力を軽視して慢心している。

 ヒトラー、ゲーリングを中心とした国政の中枢のみならず。

 誰も彼もが、自らに暴力の力が及ぶことを恐れて首をすくめている状態ときたものだ。

「こういう時に、ハイドリヒがいればまた違ったのかもしれんが……」

 口の中でつぶやいた。

 ハイドリヒという暴力の権化。

 一部の部下たちからは、金髪の野獣とあだ名されていた。

 政敵に制裁を下し、部下たちばかりでなく、全ての政治家や官僚たちを恐怖に陥れた「絞首刑人」は、今は亡い。

 忌々しく思うことも多かったが、それでもハイドリヒという男の強烈な個性(カリスマ)は、意志薄弱とも言えるヒムラーを動かし、ボルマンを操った。

 現在の国家保安本部長官――エルンスト・カルテンブルンナー親衛隊大将は、官房長のマルティン・ボルマンに対して何かしらの警戒心らしきものを感じているらしいのだが、少なくとも表立ってボルマンと対立するようなことは今のところ、避けている様子だった。

「やれやれ」

 ハイドリヒがいたら、などという世迷い言。

 シェレンベルクの忠誠心に疑いを抱いていたハイドリヒは、右腕とまで言われた彼にすら戦場におけるアインザッツグルッペンでの指揮を望んでいた。この過酷な任務からうまいこと身を躱すことができたのは、親衛隊全国指導者であるハインリヒ・ヒムラーのおかげとも言える。

「どうにも、行動部隊の任務はぞっとしない……」

 声に出すことはせずに唇だけでつぶやいてから、シェレンベルクは奇妙な視線を感じたような気がして辺りを見回した。

 しかし、シェレンベルクに視線を送る者は彼が知る者たちばかりで、まるで狩人のようにも思える視線を放つ者はどこにもいない。厳重な警護体制は敷かれているし、親衛隊員たちで占められるホール内で、ドイツ空軍に所属する者たちの好奇心の対象となるのはどちらかと言えば、シェレンベルクよりも白いロシアンハットとマントを身につけて、屈強な親衛隊員に守られるように抱かれて眠っている少女のほうだ。

 長身のスコルツェニーが少女を腕に抱いていると、華奢で小さなマリーが余計に小さく見えるのは気のせいか。

 ストックホルムまでの行程でマリーが”また”体調を悪化させなければ良いのだがとシェレンベルクは考えてから、自分のところへ早足で報告に来た基地に務める婦人補助隊の女性に気がついて、意識を切り替えると華やかな笑顔を向けた。

「シェレンベルク上級大佐」

 女の声で呼び掛けられて、シェレンベルクはゆっくりと体の向きを変えて、女に向き直る。

 あからさまに好意的な笑顔を向けてくる彼女に対して、内心で「馬鹿な女だ」とだけ評価しながらいつものように人好きのする笑みを顔面に張り付けて応対する。どこにでもこうして人脈を作っておけば何らかの役に立つこともあるかもしれない。

 場合によっては肉体関係を持っておくことも、たまにはなにかの役に立つ。

 ――愚かな人間は、大概、自分の立ち位置を見極めることができないものなのだ。

 自分が他者によって利用されているのだということも知らずに。

「一時間後に全ての準備が完了します」

ありがとう(ダンケ)

 笑顔はいつも絶やさずにいるべきである、特に女性の前では。

 それがシェレンベルクの持論だった。

 感情に流されやすい女たちは、良くも悪くも使い道が存在した。シェレンベルクの笑顔ひとつで相手を籠絡できるなら、それに越したことはない。

 興味深そうに空軍の婦人補助隊の女が、壁際のベンチに座っている男に抱き上げられて眠っている少女を認めたことをシェレンベルクは見逃さなかった。

「――……”君はとても魅力的だ”」

 柔らかな物言いで、笑顔のままでヴァルター・シェレンベルクはそう言った。

 ゲシュタポに好奇心を持つことは、限りなく危険だと言うことを、馬鹿な国民はもう忘れてしまったのだろうか。

 ゲシュタポはどこにでもいる。

 そう囁かれていた恐怖の時代を。

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