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神々の黄昏 ― Vaterland ―  作者: sakura
III 悪の華
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6 髑髏の系譜

 ベルリンのナチス親衛隊でゴタゴタが続いている間も、世界の情勢は大きく動き続けている。

 ドイツ第三帝国とソビエト連邦の戦争の一作戦――(ブラウ)作戦のまっただ中であるというのに、ソビエト連邦の中心で巻き起こったという軍事クーデターは、ソ連赤軍の一個軍で、これはバルバロッサ作戦ウンターネーメン・バーバロサの際の赤軍司令官たちを中心に巻き起こったものだった。

 彼らの一部は強制収容所(ラーゲリ)を強襲し、解放、収容されている将兵を自軍に統合し強化に計る一方で、片やではモスクワのルビャンカにある内務人民委員部の本部を襲撃した。

 内務人民委員部(NKVD)は、ソ連赤軍の将兵らに不当な義務の強要、さらに軍法会議なしでの処刑などを担当したために大きな不審と疑惑、そして激怒を買っていた。この長官であるラブレンチー・ベリヤの拘束が蜂起一派の第一目的であり、ここでは政治将校とスターリン派のモスクワ防衛軍との壮絶な激戦があった。

 しかし、このクーデターの中心人物が、初期の独ソ戦――ドイツ側の作戦秘匿名「バルバロッサ作戦ウンターネーメン・バーバロサ」――を率いたフュードル・クズネツォフ、ドミトリー・パブロフ、マルキアン・ポポフなどであるということもあって、モスクワ方面軍の一部がクーデター派に雪崩を打って合流した。

 こうして、多くの武器を獲得したクーデター派は、ドイツとの厳しい戦いを繰り広げるスターリングラード方面軍を尻目にクレムリンを目指していた。

 内務人民委員部が襲撃されたことによって、将兵たちの監視がおろそかになったスターリングラード方面軍は当初それなりに維持を続け、後方でのクーデターに気を散らしながらもドイツ軍との戦闘を続けてはいたのだが一度ほころびた組織はやがて全体を侵食していくことになる。

 この状況に、スターリングラードの防衛戦の指揮を執るゲオルギー・ジューコフ元帥が「モスクワの連中はなにを考えている! 今はドイツの野郎と戦争中だというのを忘れたのか!」と激怒したという。

 こうしてソビエト連邦は前面のドイツ軍、そして後方のクーデター軍と両面から戦わなければならなくなった。

 もっともこの時点で、スターリンはアメリカ合衆国に対して先日のヴォロシーロフ暗殺事件の一件で絶縁状を突きつけようとしていたのだが、これをとりやめてアメリカの大統領フランクリン・ローズヴェルトにさらなる援助を要求していた。

 だが内務人民委員部を占拠していたクーデター一派は、アメリカの援助の元にさらに赤軍が強化されることを恐れ、ソ連内部の重大な犯罪であるある事件を全世界に向けて告発したのである。

 スモレンスク近郊、カチンの森で行われたポーランド捕虜の虐殺事件である。

「……――このような悪辣な虐殺を行うスターリン率いるソビエト連邦政府に対して、援助を行おうとする国は愚かであり、虐殺の手助けをしていることに他ならない。この国家元首を名乗る犯罪者、ヨシフ・スターリンは同国の将兵、政治家、そしてその家族までも強制収容所へと送り酷悪な環境で強制労働を課している。アメリカ合衆国、及び英仏連合国、さらにドイツ第三帝国の賢明な”処置”を期待するものである」

 ドミトリ・パブロフの名前で世界に向けられた声明に、最前線で熾烈な戦いを繰り広げる赤軍将校と政治将校、そしてスターリンを含めた首脳部は激怒するが、大きくふくれあがりつつあったクーデター一派はすでにスターリンの手の及ぶところではなくなりつつあった。

 ――どうしてこの一斉蜂起を内務人民委員部(NKVD)でかぎつけられなかったのか……!

 かぎつけられなかったどころが、強制収容所の将校らまで合流してこの有様だ。彼らはおそらく強制収容所に収容された将校らとも秘密裏に、それも早急に連絡をとりあっていたに違いない。

 スターリンはクーデター派と赤軍の戦いが激化するモスクワにもはや閉じ込められる形となって口汚く部下の反逆と無能を罵った。

 三度(みたび)の粛正によって多くの将校らが強制収容所に収監されていたのだ。

 このパブロフの声明によって、カチンの森で行われたという虐殺事件に激怒したのはイギリス首相のウィンストン・チャーチルでパブロフの声明と情報を素早く分析した結果、米大統領ローズヴェルトに対してソビエト連邦に対する物資の援助を即刻停止するように求めていたのだった。

「この状況下でクーデターを起こしてもソ連にとっては何の得にもならないように思うが……」

 シェレンベルクのまとめた報告をヒムラーが目を通したのは、「マリー事件」の翌日、午前十時のことだった。

 予想通り徹夜の作業になったシェレンベルクは、国防軍情報部や陸軍参謀本部東方外国軍課と連絡をとり、さらにアメリカやイギリス、フランス占領区、さらに同盟国や中立国になどに送り込んだ諜報員たちに各国の動静を至急国家保安本部に送るようにと指示を出していた。

 唐突に起こり始めたこの世界を飲み込む大きなうねりに、シェレンベルクは目を細める。

「デマではないのか?」

「赤軍に送り込んでいたスパイからも、クーデターが間違いないことは連絡が入りました」

「……そうか」

 なによりも、シェレンベルクが分析に入ろうとした途端に世界中の情報網に向かって放たれた「カチンの森事件」に対する声明だ。

 クーデター派がアメリカに対してスターリンへの援助を停止させる意図はわかる。

 彼らにとっては、アメリカがスターリンを支持を続けるだけでも充分に邪魔になるのだ。それだけで米ソという怪物のように大きな国が二つ同盟を組んでいるようなもので、もしも万が一、アメリカの軍隊がソ連のクーデター鎮圧のために乗り込んでくるようなことがあれば、氾濫は失敗に終わるだろう。

「彼らの声明に、アメリカ、英仏同盟だけではなく、我がドイツ第三帝国の名前もありました。その意図を察するべきです」

「……意図?」

「現在、ドイツはソ連との戦争の真っ最中です。まだ、分析の結果は出ておりませんが、ひとつの仮定として申し上げますならば……」

 シェレンベルクはヒムラーに向かって声を潜めた。

 ドイツとソ連はスターリングラード方面で戦闘のまっただ中だった。

「我がドイツと戦争を継続するために、ソ連は多くの軍事力、生産力をスターリングラード方面に終結させております。彼らはドイツがモスクワに侵攻をするものと思っておりますのでモスクワの防備も固いでしょう。いくら軍事クーデターとは言っても、ソ連軍の物量を考えればクーデターなど簡単に鎮圧できるはずです」

 言葉通り「簡単」とは言えなくとも。

 シェレンベルクが一度言葉を切ると、ヒムラーは首を傾げてから「つまり?」と問いかける。

「要するに、クーデターを起こした連中、フュードル・クズネツォフはドイツ第三帝国にこう提案をしているのです」

 スターリンに悟られてはならない声明の本心。

 ――どうか、我らの本心を読み取ってほしい……。

「クズネツォフ大将は、ドイツとスターリン一派を挟撃したい、ということです」

「……っ?」

 目の前の部下の言葉に、ヒムラーが色を失った。

 本当にそんなことができるというのか?

 もちろん単純に考えれば、長大な補給線を持つソ連が内部から突き崩すなにかがあるならば非常にありがたいことだ。

 しかし、それすらもスターリンの狙いであって、共に挟撃する振りをしてドイツ軍を浸透させて撃滅させることが目的であったならば……。

「罠である、という可能性は?」

「それについては現在、東部に展開する参謀本部のゲーレン大佐に事の真偽について調査を依頼しております。近日中に報告が入るかと思われます」

「そうか……」

 戦場での一日というのは大きい。

 北部に位置するソ連の戦場ではなおさらだ。

 夏の間に戦争に蹴りをつけなければならない。

 その必要性は首脳陣、軍部、あるいは情報官たちのほとんどが周知していた。

「おそらく国防軍総司令部のほうにはカナリス提督とゲーレン大佐から報告が入っているはずです。本官も継続して情報の分析にもあたりますので、これで失礼いたします」

 シェレンベルクはそれだけさっさと告げるとヒムラーの前を退室した。

 イギリス首相チャーチルがスターリンに対して常々危機感を抱いているのは知っていた。さらにあれだけ大々的にパブロフが世界に向けて声明を放ったのだ。

 資本民主主義国家のジャーナリスト共はこぞってこれをとりあげるだろう。そうなれば近く米ソの決裂は決定的となるはずだ。

 もちろん、そううまくはいかないことを踏まえると、アメリカ政府が問題の声明を民間に対して隠蔽した場合のことを考えて一手二手先に準備をしておかなければならない。

 ブーツの踵を鳴らして廊下を歩くシェレンベルクはそうしてからふとインドに送り込んでいるひとりの女性の存在を思い出した。

 まだ若い女性で、ドイツ生まれの現在二十歳になったばかりの年若い女性だ。彼女の父親と母親もドイツの諜報部員で彼らはアメリカ国籍を有している。

 もちろん二十歳になったばかりの娘も言葉にも態度にも全くそうとは感じさせないものの親ナチスの諜報部員のひとりだった。腕の良いコックで、ドイツ語とイギリス英語、そしてアメリカ英語を完璧にマスターしている。

 彼女に大きな秘密があった。

「さて、あの声明に対して世界がどうなるか」

 仮にクーデターが鎮圧された場合、声明を出したドミトリー・パブロフはほぼ確実に処刑されるだろう。

 それだけの危険性を犯してまで、彼らはスターリンに矛を向けた。

 事が本当ならばドイツ軍にとっては内部まで全力をもって進撃しなくてもいいわけだからありがたい話しだが、おそらく、東部戦線もこの情報で混乱しているだろうことが考えられた。

 アインザッツグルッペンに配属した諜報部員たちを動かしてゲーレン大佐の手助けをしなければならないかもしれない。

「シェレンベルク」

 そんなことを考えながら歩いていると、背後からヒムラーに呼び掛けられて振り返った。

「はい」

「……昨日の一件のことだが、外務大臣にハイムゼートのことは報告済みだ。だいぶ渋い顔をしていたが彼が汚職と不正経理をしていたということについてはぐうの音もでない感じだった。あと、彼女の身柄についてだが、とりあえず国家保安本部の諜報部員であるということで身柄の安全は確保した」

「ありがとうございます」

「それと、……彼女の身分だが」

 言いながらシェレンベルクに歩み寄るヒムラーがスーツのポケットからなにか小さなものを取り出した。

「面倒臭いので、特例の親衛隊隊員ということで処理してある」

 どこか投げやりなヒムラーはあまり顔色を変えないが、おそらく聞かれたくないことでもあるのだろう。

 そんなことを考えてシェレンベルクは息をつくと、ヒムラーの手渡した指輪に小首をかしげた。

「……閣下、これは?」

「あの歳で制服を着させるわけにもいかんだろう」

 そう告げてシェレンベルクに背中を向けたヒムラーに、青年は苦笑する。

 親衛隊隊員であると言うことはそれなりに規定を守らなければならないわけだが、なにせ女性と言うこともあって、制服を身につけさせてしまえば嫌でも目立つ。

 ヒムラー辺りにすれば苦肉の策と言えたのかも知れない。

 親衛隊名誉リング。

 髑髏リングトーテンコップフリングとも俗に言われる指輪だ。

 小さな女性用の指輪で、いつの間に彼女のサイズなどはかったのだろう、とシェレンベルクは小首を傾げた。

 そのリングは、所有者がナチス親衛隊の隊員であることを示すものだった。

 これは左手薬指にはめることを定められており、ナチス親衛隊にとって最も重要な装備品の一つであり、本来、女性がつけるためのものではない。

「しかし、相当慌てて作らせたな……」

 ヒムラーの命令であるとは言え、突然こんな女性ものの髑髏リングを作らされたガール社は良い迷惑だったろう。

 それをつけた瞬間に、マリーはナチス親衛隊隊員としての大きな義務と、そして権力を手に入れることになるのだろう。

 そして、彼女がカナリスとシェレンベルクの後押しをほしがった理由。それはマリーが巨大な秘密を握っているということに他ならないのだ。

「やれやれ」

 シェレンベルクは独白してから、自分の制服のポケットに小さな指輪を突っ込むと歩きだす。

 仕事が一段落したら、彼女に指輪を渡しに行かなければならない。


 軍事クーデターが起こったソビエト連邦の存在も気にかかるところだったが、イギリスとアメリカ合衆国の存在も気にかかるところではあった。

 エニグマの暗号が流出していることについて、軍上層部及び政府首脳陣がなにかしらの手を打たなければ東部戦にしろ大西洋戦にしろ負けが込んでくる。最も重要視しなければならないのは、政府首脳陣が情報戦に対して浅慮であることだ。

 それは主にドイツ第三帝国アドルフ・ヒトラーが情報戦を軽視していることに他ならないのだ。大変残念なことに、彼――アドルフ・ヒトラーは敵を全力で簡単にたたきつぶせると思っている。

 敵が一カ国相手であればそれもまた可能だろう。

 しかし現状はそうではない。

 ドイツには同盟国もあるが、それ以上に敵が多い。

 フランス亡命政府、ポーランド亡命政府、ノルウェー亡命政府、イギリス、アメリカ、ソビエト連邦。その他様々な敵が存在していた。

 その中のひとつ、チェコスロバキア亡命政府とイギリス政府の手によって、国家保安本部(RSHA)長官、ラインハルト・ハイドリヒ親衛隊大将は暗殺された。

 要するに情報を軽視した結果だ。

 無論ハイドリヒ自身の保身に対する無関心も関係したかも知れない。しかし、とシェレンベルクは思う。

 人間は誰しも一度生まれ、そして最後には死ぬのだ。

 それはシェレンベルク自身も他ならない。

 生まれて死ぬ。なんらかの原因で人は死ぬ。

 ドイツ人であれ、ユダヤ人であれ。

 だから死ぬことそのものは大した問題ではない。自分も、ハイドリヒも同じように国家の歯車のひとつであり、駒でしかない。

 手元にまとめられた資料に目を通しながら、シェレンベルクは忙しく多くの事柄に思考を巡らせた。

 彼がやらなければならないことは多すぎる。

 かつてのシェレンベルクの上司であったラインハルト・ハイドリヒは精力旺盛な人物で、常に秘書は三交代、さらに副官の多くはハイドリヒの仕事量についていけずつぶれていった。

 ヴァルター・シェレンベルクはハイドリヒの部下であったものの、彼の副官というわけではなかったから、そういった仕事ぶりに巻き込まれることは少なかった。もっともハイドリヒと比べて少なめ、というだけであってシェレンベルクもまた多くの仕事を抱える多忙な高官のひとりだ。

「忙しそうだな」

 書類を片手にシェレンベルクの執務室に入ってきたオットー・オーレンドルフ親衛隊少将に、咄嗟に立ち上がった彼は素早く敬礼を返した。

ヒトラー万歳(ハイル・ヒトラー)

「……俺にそんなことしなくていいだろう、どうせ狸同志だ」

「……だからこそ、腹の内をお見せするわけにはいかないんですよ」

 オーレンドルフの言葉に、シェレンベルクはさらりと言葉を返してから自分よりも階級の高い目の前の第三局――国内諜報局局長にソファを薦めながら秘書にコーヒーの準備を命じた。

「ふん」

 オーレンドルフが首をすくめてから鼻を鳴らすと、シェレンベルクは静かに口元だけで笑った。

「そういえば、例の小娘の件はどうなったんだ?」

 小娘。

 その言葉にシェレンベルクは自分もオーレンドルフの向かいに腰を下ろしながら、睫毛を伏せた。ヒムラーが先ほど手渡していった指輪の存在を思い出す。

「彼女のことなんですが、一般人が中央記録所のことを知っているなどあり得ると思いますか?」

「さぁな。……なんだ、シェレンベルクが随分肩入れしているから、おまえが教えたのかと思ったが」

「ひどい言われようですね」

「女に甘いからな、大佐は」

 オーレンドルフの言葉にシェレンベルクは眉尻を下げると微笑する。

 プレイボーイと名高い彼は、ゲッベルスやボルマン、そしてハイドリヒとはまた違う意味で女性に対して少々だらしない。

「細君に密告してやってもいいんだぞ?」

 第三局局長の言葉に、六局の局長はうわべだけは慌てて見せる。

「勘弁してください、一応我が家は”それなりに”夫婦円満なんですから」

 含みを持たせたシェレンベルクの言葉にオーレンドルフはそれから数秒黙り込んでから、表情を切り替えた。

「まぁ、別に大佐をからかいにきたわけじゃない」

 言いながらオットー・オーレンドルフは手にした書類の束で自分の顔を仰ぐと、神経質そうな青い瞳をじっと細めて見せた。

「先日のゲッベルス大臣の言っていた噂の件だ」

 ベーメン・メーレン――ボヘミア・モラヴィア――保護領の副総督、ナチス親衛隊大将ラインハルト・ハイドリヒが生きている、というあれだ。

 噂の内容としては「殺されたのは影武者である」というものだが、意味としては大して変わらない。

「中世じゃあるまいし、そんなわけもないだろうにな」

 侮蔑するようなオーレンドルフの言葉にシェレンベルクは無言で肩をすくめただけだ。

「そういえば、ハイドリヒ大将には弟がいらっしゃいましたね」

「だが顔は似ても似つかん。それを根拠に生存説をでっち上げるのはバカらしいにも程があるだろう」

 似ても似つかないというのは言い過ぎのきらいもあるが、オーレンドルフが指摘するのはそんなことではない。

 ラインハルト・ハイドリヒの弟――ハインツ・ジークフリートは似ていないわけではなく、影武者など無理だ、と言いたいのだ。

「それで、どういうわけです?」

「どうも共産主義者共を中心に流れている噂らしい。国内の地下組織の捜査でそんな噂があってな」

「共産主義者ですか……」

 顎の下に手のひらをあてて考え込んだシェレンベルクに、オーレンドルフは息をつくとじろりと自分よりも年若い国外諜報局の青年将校を見つめる。

 オーレンドルフも若いほうだがシェレンベルクはさらに若い。

 おそらく、国家保安本部で現在最も頭の切れる存在だろう。

「なにを考えてる?」

「いえ、別段……」

 共産主義、という言葉に反応を返したシェレンベルクにオーレンドルフは概ね想像がついている。

「まぁ、あの方は存外矛盾の固まりだからな」

「ヒムラー長官の狙いもそこだったのでしょうが」

 あからさまですね。

 シェレンベルクの人物評に、三局の局長は大きく頷いた。

 国家保安本部内の高官の執務室は最先端の警備体制が組まれている以上、安易に言葉を交わすことは自分の命取りになることをシェレンベルクもオーレンドルフもよくわかっている。

「ハイドリヒ親衛隊大将が生きている、という根拠は一体何なのでしょうかね」

「さてな」

 それほどまでにハイドリヒが恐ろしいのだろうか?

 もう死んでしまったというのに……?

 確かにラインハルト・ハイドリヒは「プラハの虐殺者」とも恐れられた。だが、その彼はチェコスロバキア亡命政府の手によって殺されたのだ。

 もしかして、とシェレンベルクは思った。

 ハイドリヒの魂を受け継ぐ者は自分だと言ったマリー。

 彼女がそんな噂をばらまいているのではないか。そんな可能性にたどり着くが、それに対して彼は内心で否定する。

 ありえない。

 彼女の身柄は常に、親衛隊情報部(SD)と、ゲシュタポの捜査官から厳重な監視をされているようなものだ。

 怪しい人間と接触があれば、ゲシュタポの長官であるミュラーや、諜報局の局長であるオーレンドルフやシェレンベルクに報告が舞い込むはずだった。なにより、親衛隊だけではない。彼女の身柄は国防軍情報部からも監視されているのだ。

「ひとつの可能性としての話しなんだが」

 そう切り出したオーレンドルフに、シェレンベルクは頷くと無言のまま言葉の先を促した。

「前国家保安本部(RSHA)長官が生きている、という噂は、おそらく形のない幽霊みたいなものじゃないかと思う」

 世界の背後で蠢くなんらかの意図。

 諜報部員たちが暗躍するさらにその後ろでなにかが糸を引いている。

 それが時代という時の流れの中で波紋を広げているのではないか。

「……つまり、亡霊を恐れている、と?」

「誰だって姿の見えない恐怖には敏感だろう」

 目に見えないものを誰しも恐れるものだ。オーレンドルフの指摘にシェレンベルクは「ふむ」とつぶやいてから、彼が差しだした書類をぺらりとめくる。

「これは?」

「アカの奴らと通じているらしい地下組織だ。身元や所在が判明した奴らからゲシュタポが逮捕して訊問中だ」

「なるほど」

 ゲシュタポの訊問は悪辣だ。肉体的、精神的な拷問をもって被疑者を追い詰める。中にはやってもいないことを自白させられる例も多くある。

 こんなにも苦痛が長引くのであれば、自白してしまおうという気にさせられるのだ。

「しかし、大佐も今がこんな状況だとなかなか忙しないだろう」

「……あぁ、そうですね」

 現在は国外諜報局は、ソビエト連邦で起こった軍事クーデターについて情報の収集にあたっている。これについては東部に諜報網を張り巡らしているラインハルト・ゲーレン陸軍大佐に連絡を取りつつ行っているのだが、どうやら事態は思いのほか深刻らしかった。

「それですがね、あちらはたかがクーデターで揺らぐ程生やさしい相手じゃありませんよ」

「そうだろうさ、アカの奴らは人口も物資も桁違いだからな。ただでさえ桁が違うところにローズヴェルトが援助をしているんだ」

 苦々しげなオーレンドルフの言葉にシェレンベルクは頷くと、声を潜めて言葉を選ぶ。

「それもチャーチルの声明でどうなるか雲行きが怪しくはなってきましたがね」

「それでも物資の備蓄は随分なものらしいじゃないか」

 つい先日まで東部戦線で行動部隊アインザッツグルッペンを指揮して、パルチザンと戦っていたオーレンドルフにしてみればまさに頭の痛くなってくる問題だ。

 戦っても戦っても、勝てる気がしない。

 国家保安本部長官のハイドリヒの指令であったから、アインザッツグルッペンを率いていたが、それでも、とオーレンドルフは考える。

 政府首脳部は本当にこの戦いを勝てる気でいるのだろうか、と。

 そんなことを考えながら任務を終えて、パルチザンの掃討任務からドイツに帰ってきてみれば、急転直下で事態は急変した。

 正直なところ、オーレンドルフには未だに頭がついていけない。

 なにが起こっているのか、それを把握するだけで精一杯だった。

 オーレンドルフとラインハルト・ハイドリヒ生存説について情報の交換をしあったシェレンベルクは、三局の局長が執務室から出て行ったのを見送って、デスクについた。鍵付きの引き出しを開けて、オーレンドルフの書類を放り込む。

 そろそろ部下のひとりが東部での状況について中間報告をもってくる時刻だ。

 アインザッツグルッペンの指揮を執っていたオーレンドルフは身をもってソ連軍のやり方を経験している。そしてその底なしとも思える物資の量についても目の当たりにしているだろう。

 諜報部員としての視点を持つオーレンドルフの分析には一理あった。

「失礼します」

 声が響いて扉が開く。

 シェレンベルクはそうして意識を目の前の問題へと引き戻した。

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