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神々の黄昏 ― Vaterland ―  作者: sakura
XVII 地獄の門
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7 戦争の片隅

 自分の命すらも賭けた危険なゲーム。

 それは時として、決して祖国のためとは言えない「命を賭ける」理由もあった。

 極限のスリルと興奮に魅せられた、死のゲーム。

 祖国愛。

 名誉。

 賞賛。

 多くのスパイたちがそうしたもののために、自分の命を国家に預けるが、反して「そうではない」者もまた存在している。

 究極のオルガスムス。

「……ところで、イギリス(こちら)の諜報員のひとりが、ドイツの諜報部員を追っています」

「ほう?」

 ゴドフリーの言葉に、ジョン・エドガー・フーヴァーは相づちを打ちながら小首をかしげた。

「ドイツのナチス党首脳部にごく近い位置にいる大物スパイです」

 大物スパイ、というゴドフリーの言葉にフーヴァーは片方の眉をつり上げてから視線を彷徨わせた。ドイツにも多くのスパイが存在していることはフーヴァーも知っている。

 どうやらこのアメリカ合衆国国内諜報局のトップに対して、好奇心をいだかせるには成功したようだ。内心でジョン・ゴドフリーは静かに笑う。

 どうにも「アメリカ人共は気品に欠ける」というのが、フーヴァーを含めたアメリカ人に対するゴドフリーの評価だった。所詮彼らはヨーロッパ大陸から自由と栄光を求めて新大陸を渡った負け犬共の子孫でしかない。

「ナチ首脳部にごく近い位置にいる大物スパイというと、どうやって突き止めたのですかな?」

 フーヴァーのもっともらしい答えに、ゴドフリーはあえて冷静沈着を装いながら、タバコに火をつけた。

「何年か前、オランダで起こった事件を知っていますか?」

 もったいぶったゴドフリーの言葉に、フーヴァーは眉をひそめたままでソファに座り直して腹の前で両手の指を組み合わせた。

「さて、オランダと言いましても」

 含みを持たせたフーヴァーの言葉を、ゴドフリーは真に受けたりはしない。

 アメリカ合衆国の国外諜報を担当する戦略情報局の欧州支部長アレン・ダレス同様に、連邦捜査局のフーヴァーは抜け目のない男だった。そしてそんな男だからこそ彼は諜報部門のトップにいるのだと言っても過言ではない。

「……――オランダの国境の町、フェンローであった事件のことです」

 ゴドフリーが口火を切った。

「確か、ドイツのスパイ共とやりあったのですかな?」

 しばらく黙り込んだフーヴァーが告げると、ゴドフリーは頷くと足を組むとソファに背中を預けると顎を引く。

「我が国の諜報部員の被害がそれなりに軽視できないものでして」

 回りくどいゴドフリーの言葉に、フーヴァーは一瞬だけ視線を彷徨わせて考えると呵々と声を上げて笑った。

「いや、そちらの情報収拾は非常に進歩的だ、その程度のことで貴国がお困りに成られるようなこともないと、わたしは考えますが?」

「買いかぶりです。我が国は小さな島国だ。補給の問題にしても、未だ多くの難題を抱えております」

 まるで腹の探り合いだ。

 本来、イギリスにとってアメリカは味方であるはずだ。

 そんな味方であるはずの国の諜報局長を相手に、どうして腹の探り合いなどしなければならないというのか。少なからぬ不愉快なものを感じながら、ゴドフリーは感じる違和感に短い沈黙を挟んだ。

 フーヴァーはなにを考えているのだろう。

「……なるほど」

 悠然としたフーヴァーに、ゴドフリーは目を細めた。

どこまでも抜け目ない。

 諜報活動のトップに座る者としては適当なのであろうが、それにしたところでやはり同様に腹を探り合わなければならないということは骨が折れる。

 フーヴァーがなにを考えて何をしようとしているのか。それを正確に推測しなければならないのだ。もっともこれが敵国――ドイツやソビエト連邦など――ともなればやる気も出るというものだが、仮にも味方となると相手の不信感に自分勝手な立腹気味にもなろうというものだった。

 つくづく人間とは勝手なものだ。

 そんな自分の幼稚さに自嘲すると改めて目の前に座っているジョン・エドガー・フーヴァーを見つめ直す。

 彼がその気であるならば、相応に対応するだけのことだ。

 イギリス人とフランス人の間に感情的に埋めることのできない溝があるが、それはイギリス人及びヨーロッパ大陸の人間たちと、アメリカ大陸の人間との間にも同じような深い亀裂が存在している。

 イギリスとアメリカ。

 かつて、十八世紀末に起こったアメリカ独立戦争以前からの深い溝だ。

 彼らは似ているようでいて、感情的にはひどく遠い国。

 ジョン・ゴドフリーとジョン・エドガー・フーヴァーの間もまた、そうしたものが渦巻いている。表面的に互いにそうしたものを見せることをしないのは、互いの腹を探り合っているからともいえた。

 どちらにしろ、ジョン・ゴドフリーにしてみればアメリカは歴史の浅い新興国であり、ジョン・エドガー・フーヴァーにしてみれば、イギリスはかつての支配者という立場の鼻持ちならない相手だった。

 とはいえ感情的な面から言えば、対等であろうとして息巻くアメリカ人の鼻息の荒さが、イギリス人のゴドフリーには全くもって鬱陶しいことこの上なく、そうした余裕という一面だけを見ればゴドフリーのほうが一枚上手とも言えたのだろう。

 そこにあるのが歴史を持たない成り上がり国家であるという劣等感。それは、当たり前のように長い歴史を誇る国にとっては理解しがたい感情なのだろう。どんなに繁栄を享受していても、時間を巻き戻し同じスタートを切ることなどできはしないのだから。

 ――そんなくだらないプライドは割り切れば良いのだ。

 ゴドフリーはそう思う。

 どんなに同じスタートから勝負したいと願ったところで、歴史の重みは巻き戻すこともできなければ、覆すこともできはしない。

「問題は、そのドイツの大物スパイとやらが、どれだけ政治的な影響力を持つかです」

 フーヴァーのどこか高圧的で傲慢な態度を見下すように、内心で分析をしながらゴドフリーはしばらくの沈黙の後に思考を切り替えてそう言った。

 侮蔑をおくびにも出さないのは、そうした態度をあからさまにすることが紳士的ではないと考えるからだ。

 もっともスパイである以上は、どんなに大物であろうとも「影響力」はたかが知れている。

 スパイは政治家ではないし、逆もまた然りだ。

 ゴドフリーはイギリス海軍の人間であればこそ、ドイツ軍に属する情報部の優秀さを知っている”つもり”だった。

 ナチス党の情報部はどうなのだろう……?

 しかし、大概の場合、政治とは諜報部員らが思うようにはいかないものだ。もしくは、とゴドフリーは思った。

 多くの各国の諜報員たちは目がよく見えすぎるために、残酷な未来から目をそらし、希望的観測に身を任せてしまうものなのかもしれない。それは果たして人間らしいとも言えるのかもしれないが、時としてその楽観的な希望的推測が判断を誤らせることになる。

 諜報部員たちは、任務に忠実で正しく冷徹でなければならぬ。私情を切り捨て、機械的であるべきだ。

 たとえそれが人の道に外れることだとしても。

「しかし、そのドイツの大物スパイとやらは相当慎重な性質(たち)のようだ」

 フーヴァーの指摘に、ゴドフリーは頷いてソファの肘掛けを軽くたたいた。

 機械のように正確な状況判断で冷徹な狩人でなければならない。それがゴドフリーの情報将校としての見解だ。

 抜け目のない狩人は、冷静に自分の立っている場所がどこであるのかをわかっているのだろう。だから、彼は決してゴドフリーらの前に姿を現さない。

 ――どんな男なのか。

 ゴドフリーは何度となく思いを巡らせた。



  *

「失礼します」

 列車の通路を歩くシェレンベルクはピンと背筋を伸ばしたままで、自分の目と鼻の先で荷物を運んでいる男を認めた。

 何気ない光景はどこにでもありそうだ。

 そんな男の姿を見つめながら、ふとシェレンベルクは寒そうにしてスコルツェニーの長身にしがみつくようにして眠っていたマリーを思い出して小首をかしげた。

 どうやらマリーはオットー・スコルツェニーを自分よりも格下だと認識したようだ。彼女の認識はどうあれ、マリーは不思議なもので本能のようなところで自分と相手の力関係を知覚しているところがあった。

 彼女は不思議な少女だ。

 子供から大人へと変わりつつある不安定な年齢の少女にしては随分と幼く、そして、なによりも彼女の印象はシェレンベルクが初めて会ったときと比べて、随分と変化したように感じられる。

 もしかしたら、今の彼女が本来のマリーの性格なのかもしれない。もっとも、いずれにしたところでシェレンベルクにはどうでも良いことだ。

 目下のところ、彼女が自分の邪魔にならなければそれで良い。

 先日の人民法廷長官ローラント・フライスラー拘束の件では、不愉快なものも感じさせられたが、それを含めてもシェレンベルクにとって彼女が迷惑な行動を取るわけでもなかった。

 ちなみに案の定、ヒトラーはフライスラーの拘束の報告に怒り狂ったらしいが、これは政府首脳部の尽力によってなんとかおさめられたらしい。もっともヒムラーのほうはと言うと、今後勝手な行動は慎むようにと釘を刺されたということだが、シェレンベルクらを含めた親衛隊高官たちにとってヒムラーの身分の保障など関心に値しない。

 当事者とも言えるマリーはカルテンブルンナーとミュラーからことのいきさつを聞かされたが、結局いつもと変わらず、どこ吹く風と言った様子で大人たちの小言と苦言を右から左へと聞き流した。

 なにを考えているのかはわからないが大したものだ。

 ごく普通の少女たちであれば、政府首脳部や親衛隊首脳部に逆らうことがどれほど恐ろしいことなのかをわかっているはずだというのに、マリーはそんなことにまるで頓着した様子もなくニコニコと笑っている。

 彼ら――国家保安本部の人間にとって、それらはいつもの光景だった。

 そんなことを考えるシェレンベルクの前を列車の雑用をこなす荷物係が通り過ぎた瞬間だ。

 シェレンベルクは唐突に何食わぬ顔のままで銃を抜くと、そのまま感情の揺らぎを感じさせることもなく、撃鉄をおろして引き金をひく。

 一切の行動が事務的に行われた。

 渇いた音が響いて荷物係はその場に崩れ落ちる。

「今の銃声は……!」

「あぁ、大したことじゃない」

 護衛を務める親衛隊下士官たちが慌てた様子で集まってきたのを認めて、シェレンベルクは淡々と銃をおろすと肩の上で軽く片手を振った。

「死体を片付けておけ」

 命令を下して、青年将校は表情を変えることもなく歩きだした。

 自分に敵の監視がついていることは随分前からわかっていることだった。おそらく、ベルリンから離れた隙をついて行動するだろうことも予測していた。

「おそらく、MI:6」

 口の中で声にすることはせずに、シェレンベルクはぽつりとつぶやいた。

 国防軍情報部についての情報はある程度は、連合軍側も所有しているだろう。しかし、設立されたばかりの親衛隊情報部についてはまだ敵も完全に把握してはいない。そうなれば探りをいれてくるだろうことは至極当然のことだ。

 イギリス軍はどんな手段を用いてでも、ドイツの戦力をそぎ落とそうとしていること。それは、ラインハルト・ハイドリヒに対する強硬な態度にしても明白だ。

 連合軍にとってラインハルト・ハイドリヒという男は、邪魔なもの以外の何物でもなかったこと。

 ドイツ国内にあっても、危険な男とは言えたが所詮一政治家でしかないハイドリヒが、国外にまで影響力を及ぼしていたわけではない。せいぜい、行動部隊やユダヤ人の移送計画などに少なからぬ影響力を持っていた程度。

 もちろん彼がベーメン・メーレン保護領の副総督として権力を握ったという事態も大きく作用したのかもしれないが、理由はそればかりではないはずだ。

 未知数の権力を握る広義で言う「ゲシュタポ」の権限を恐れていた。

 そしてその「ゲシュタポ」を統括し、総指揮を執っていた男がハイドリヒだ。

 連合軍はハイドリヒの指揮したゲシュタポについての情報収拾を行っていることは、シェレンベルクにはわかりきっていたし、そしてハイドリヒ亡き後の親衛隊情報部を内部崩壊に持ち込もうするだろうことも予想していた。

 だから国家保安本部の高官であるシェレンベルクは、自分に監視の影が見え始めたときにすでに次の手を模索していた。

 死体を始末してもいいとシェレンベルクが言ったのは、男が身分を証明するものなど持っていないだろうことを知っていたからだ。ベルリンまで潜入するような諜報部員が、わざわざそんなへまはしないだろう。

 ――疑わしきは罰せよ。

 シェレンベルクを含めた諜報部員は、そうしなければ生き残っていくことなどできはしない。

「ドイツ語の発音がおかしかったの?」

 ふとマリーの声が響いて、シェレンベルクは首を回した。

「あぁ、うるさかったか」

「大丈夫よ。おなかすいただけ」

 告げられたマリーの言葉に、青年は腕時計を見やる。

 午後九時を回っていて、マリーが空腹を訴えてもおかしくはない。

「よく寝ていたから、起こさなかっただけだ」

 夕食にしよう、と続けながらシェレンベルクは運び込まれていたサンドイッチを少女の前に広げながら指を鳴らした。

「マリーに飲み物を」

 よく響く声でそう言いながら、シェレンベルクは視界の隅で表情をこわばらせているスコルツェニーを振り返った。

「中尉の任務は彼女の警護だ。先ほどのことならば気にしなくて良い。随分前から知っていたからな」

 素っ気ない青年の言葉に、複雑そうな顔をした特殊部隊の隊長は会釈をするように視線をおろすと踵を鳴らしてサンドイッチを口に運んでいるふたりの若い親衛隊将校に背中を向けた。

 自分を監視する男の存在など、さもどうでもいいと言わんばかりのシェレンベルクの態度は、確かに危機的な状況を何度となくくぐり抜けてきた人間のそれだった。

 ひょろりとして、青っちろい男にしてはなかなかどうして……――。

 スコルツェニーは余裕の態度を崩さない青年の横顔に肩越しにちらと視線をやった。

 どうやらただの親衛隊知識人というわけでもなさそうだ。

 それがヴァルター・シェレンベルクに対する、オットー・スコルツェニーの評価となった。

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