6 ヒューミント
軍事的な物理衝突が行われる間隙をついて戦争の影の主役たち――諜報部員らがスパイ活動と謀略とを重ねる。それは決して腹の探り合い程度の生やさしいものではなく。もっと血で血を洗う、「血生臭い」ものだ。
諜報部員たちが敵国の人間によって身柄を拘束されればただではすまない。それはなによりもスパイ活動を展開する本人たちが一番に理解していた。もっとも、こうした諜報部員たちの活動は一部の古式ゆかしい騎士道精神を持つ軍人たちには大変評判がよろしくない。
だけれども、現代における戦争にあって諜報活動そのものが重要な位置づけされているということは否定できない事実だった。
諜報を抜きにして、戦争は成り立たない。
イギリス海軍情報部長官ジョン・ゴドフリー提督は一枚の報告書を前にして、腕を組み直した。
戦争が重大な局面に向かいつつあるような気がする。
彼の脳裏に高らかな警鐘を鳴らすのは、彼の情報将校としての嗅覚だ。
問題としては、政府首脳部がどこまで事態を重大視しているかということなのだが。
「諦めないのは結構なことだが」
ゴドフリーは首相チャーチルの顔を思い浮かべながらぼやいた。
「敵のドイツ野郎にも、なかなかどうして大した奴がいそうだ」
エジプトにはびこる天然痘の問題。
それは奇しくも、東南アジア方面に展開する大日本帝国軍と政府そのものを大きく後押しする形となった。
――ヨーロッパの植民地支配は白人によって執り行われる根拠なき特権主義と、外見を根拠とする不当な差別主義を助長し、アジア・アフリカ地域に生活する多くの民衆に対して奴隷労働を強要し、卑劣な搾取は人道を踏みにじるものである。これは全人類に対する許されざる凶悪な犯罪行為であり、なによりも、このヨーロッパにおける差別主義の横行こそ、アジア・アフリカ地域の発展の妨げになっていることを、植民地支配を行う者たちは自覚せねばならない。
やや過激とも言える声明が大日本帝国の名前で、国際的に発表されることになった。これは白人国家による、天然痘への対応が白人優先とされていることに批難を放つもので、大日本帝国所属の多くに医療関係者らは、民族や人種などを理由として医療の提供の際の選別がされて良いはずがないと白人中心とも言える国際社会を強く罵った。要するに、欧米諸国は自らの正論を逆手に取られる形となったのだった。
厄介なこととも言えるのは、この大日本帝国の声明に対して、アメリカ合衆国の人権主義団体が大いに同調する姿勢を見せたことで、当事者たる英米にとっては非常に頭の痛い話しとなった。
ヨーロッパに住む白人たちの唱える差別主義的理論は、東洋人で構成される大日本帝国には都合の悪い話しだ。
だからこそ、彼らは躍起になって英米における植民地主義を否定するのだ。
なぜなら大日本帝国民がヨーロッパの差別主義、あるいは植民地主義を否定することは自分たちを否定することに他ならないことだからである。
肌の色が異なる。もしくは、主義主張、民族が異なる。たったそれだけの理由でしかない不当な差別、そんなものは許されない。
そう言ったのは誰だったか。
ジョン・ゴドフリーは考えながら、ロンドンの街並みをじっと見つめた。
昨年からドイツによるロンドン空襲は未だに断続的に行われている。
イギリス国民の精神的なよりどころであり、象徴とも言える統治者――ジョージ六世は空襲の被害を受けるバッキンガム宮殿で暮らし続けている。これがどんなに危険なことであるのか、それを政府首脳部の人間がわからないわけがない。
「世界は広い……」
窓の外を見つめたゴドフリーは、誰にともなくそう呟いた。
世界は余りにも広すぎて、そして自分のあずかり知らぬところで、多くの猛者がひしめいている。
ドイツの情報将校のこともそうだ。
ドイツ第三帝国による差別や迫害の被害の情報も一部は、彼の耳にも届いていた。チャーチルはソビエト連邦に対する不信感を募らせながらも、そんなスターリンの支援を行ってきた。アメリカの今は亡きローズヴェルトも同様だ。
しかし、この半年ほどで事態は大きく動いた。
スターリンが失脚し、ローズヴェルトは暗殺の銃弾に倒れた。
ヨーロッパの植民地主義の実態をかぎつけた大日本帝国の諜報網はこれを機に大きく動き出し、同盟国であるドイツ・イタリア諸国とはまた違う方面から英仏連合に戦いを挑みつつある。
おそらく、アメリカ国内で世論の誘導に奔走しているのはドイツ側だけではないはずだ。英仏連合軍がドイツのみに対して振り向けられないのはこのためとも言える。
資源など大して有していない極東の大日本帝国。
そして、連合軍の植民地は日本とヨーロッパのほぼ中間に位置していることから、双方共に兵站に非常な負担を強いていた。
どちらが先に音を上げるか。
それが戦争の行く末を決める。中東アジア方面を拠点とする連合軍の支援があれば、ドイツと日本を分断し、さらに独日双方に対して強烈な圧迫をしかけることもできたのかもしれないが、今ではペルシア湾に面するバスラと、バスラからほど近いコーカサス地方のバクー油田もドイツ側の手に落ち、そこで攻勢を仕掛けられるはずだったアメリカ軍は、東南アジアから北アフリカ方面にかけて発生する天然痘に及び腰となった。それだけではなくインドにおける反英組織が活発化し、今では欧米諸国の拠点が逆に枢軸同盟から分断される事態となった。
中東アジアが日本とドイツを中心とした枢軸同盟の勢力圏に入るようなことになれば、イギリス連邦軍は中東アジア地域における戦線を長期的に維持していくことは、事実上不可能だ。
――大東亜共栄圏。
日本が唱えるアジア地域の開放。
それはドイツの唱える東方生存圏構想とどこがどう違うのだろう。
言葉遊びだととられるかもしれないが、それこそ「統治者」が変わるだけではないのか?
ジョン・ゴドフリーは意地悪く考える。
もちろん植民地を多くもつイギリスの海軍将校でもある、ゴドフリーだから植民地支配が悪だなどとはこれっぽっちも思ってはいない。
世界とは弱肉強食で、弱い者は知恵を絞って生きていくしかないのだ。
それが自然の摂理なのだ。
大日本帝国の真意がどこにあるかはともかくとして、現在のイギリスは多くの問題を抱えていた。一時、休戦となっているエジプトでの天然痘に対する脅威は、徐々にであるが解決の糸口が見えつつあった。しかし、敵であるドイツもこのまま英米連合軍が息を吹き返すのを黙って見てはいないだろう。
おそらくなにかしらの方法を使って、イギリスを叩きつぶしにくるはずだ。
「考えたところで、大して状況は変わらんか」
人間が自分と異なるものを区別する性質があるから、区別すること自体をゴドフリーは否定しない。
けれどもアメリカ合衆国が唱える「極悪人」国家のドイツから、ヨーロッパを解放するというお題目。それは英仏連合軍にとってなによりも力強い後ろ盾になった。そして、そんな大義名分こそアメリカ軍がヨーロッパ情勢に参戦するための口実となる。そうであるばらば、東洋の日本におけるアジア・アフリカ地域の”正統な解放”は、アメリカが掲げる大義名分とも大差がないということだ。
そんな曲解をしながら、ゴドフリーは自嘲するようにかすかに笑う。
結局のところ、アメリカが参戦してくること事態が、理屈になっていないのだ。
彼らは決して当事者などではない。ソビエト連邦もイギリスも、そしてフランスやポーランドも。紛れもない戦争の当事者であるというのに、アメリカは日本に理不尽な戦争を焚きつけて、国家同士の緊張を煽った犯罪人。
はたして、それほど遠くない未来に下される評価はどちらに味方することになるのだろうか。
世界中で起こる不穏な出来事の中に潜む真実を見いだそうとして目をこらすゴドフリーは、やがて奇妙なタイミングで発生したアメリカ合衆国の有色人種らの人権運動にたどり着いた。
もしくは、「それ」は大日本帝国によってひかれた糸なのだろうか?
不明確なことが多すぎるが、それでもジョン・ゴドフリーを含め、世界という大きな流れが予測の範疇を超えて動き始めていることを感じ取っていた。
「提督」
秘書官の声にゴドフリーが顔を上げた。
戦場で戦うことが兵士たちの仕事であるならば、指揮官の仕事とは兵士たちをいかに効率良く殺すことだ。
それこそがジョン・ゴドフリーの仕事出、人々が命を落とす度に心を痛めているようでは職務を全うすることなどできはしない。
「アメリカ連邦捜査局長官のミスター・フーヴァーがお見えになりました」
「了解した」
短く応じたゴドフリーは、自分の革張りの椅子の背中を軽く手のひらでたたいて靴音を鳴らす。
アメリカ合衆国連邦捜査局のジョン・エドガー・フーヴァー。
アメリカの国内諜報部門のトップがイギリスにいったい何の用だろう。
そんなことを考えながら、彼は秘密情報部内の応接室へと向かった。
「これはなかなか素晴らしい警備態勢で感心いたしました」
ぎょろりと動く目玉がひどく不気味な印象を受ける連邦捜査局の長官、ジョン・エドガー・フーヴァーにジョン・ゴドフリーは優雅な所作で、フーヴァーの前のソファに腰を下ろしながらにこやかに笑った。
「お越しいただいて光栄です、フーヴァー長官」
「お世辞は結構です」
素っ気ないとも言えるフーヴァーの返事を受けて、かすかに眉尻を上げたゴドフリーは、不愉快げな表情だけは取り繕ってから、数秒の間をおいてから口を開いた。
「国内諜報局のトップがおいでになれるほど、アメリカ国内の情勢は安定していないように思えますが、その辺りについてはいかがですかな?」
「えぇ、それなりに。アメリカで”人権主義団体”を語る偽善者共の詭弁にいちいちつきあってはいられません」
「”鎮圧”のために州兵が動員されたと情報を受けておりますが……」
ゴドフリーはかろうじて紳士的な態度と物言いを保ちながら小首を傾げた。
同盟国でもあるアメリカ合衆国の参戦は非常にありがたい話しだ。しかし、彼らにとって所詮、欧州での戦争など他人事にすぎないのではないかという懸念もあった。
彼らがどれだけ本気になって戦争に介入してくるかは未知数とも言えた。
そして案の定、天然痘の発生で彼らは躓いた。
「いやはや、お恥ずかしい限りで……」
ちっとも恥ずかしいなどとは思っていない目つきのまま、片手で軽く頭をかいたフーヴァーはにやりと唇の端で笑ってから悠然と足を組み直した。
彼にはアメリカ合衆国という国の余裕が感じられる。
当然だ。
彼らはつい、二十年ほど前に起こった戦争ではほとんど消耗もしていないし、逆に、欧州各国に兵器を売りつけたことによって、漁夫の利を得たとも言える。
そんな国力に余裕があるアメリカは、慢心に満ちている。
先の欧州大戦で大きな被害を受けたのは、「敗戦国」のドイツだけではない。ドイツもそれなりに大きな被害を受けたらしいが、そんなドイツの状況を構ってやれるほどイギリスにもフランスにも余裕はなかった。
フランスがヨーロッパ大陸で陸軍大国などと呼ばれながら、ドイツの侵攻によってあっという間に降伏することになったのはそうした経緯があった。
フランス同様、イギリスも「戦争」を恐れていた。
再び大きな被害を受けることになるのではないか。
そんな畏怖の念に駆られた。
けれどもドイツは違った。ドイツ人たちは、度重なる飢餓や、不況、社会的不安を力尽くで振り払って、力強いアドルフ・ヒトラーの演説のもとに一丸となった。
ドイツの再びの栄光のために。
自ら立ち上がり、世界に挑戦状をたたきつけたこと。
「”わたし”は、支配階層と被支配階層が、平等の権利を持つなどと世迷い言を言う輩の考えがさっぱりわからんのですよ」
まるで世界をも見下ろすように、フーヴァーはそう言った。
「世の中には秩序がある。その秩序を乱すことは決して許されない」
アメリカこそが秩序なのだ……――。
そう言いたげなジョン・エドガー・フーヴァーの言葉に、ゴドフリーは内心で不愉快そうに舌打ちした。
アメリカのそうした独特な他国を見下した見方が、いずれ思いも寄らぬ強さで跳ね返ってくることになるのではなかろうか。
そのときこそ、アメリカの苦しむ時代になるだろう。
「えぇ、確かに秩序は存在しています」
だが、イギリスもフランスも、そしてアメリカもそんな「秩序」故に自縄自縛の状況に陥りつつあることを、情報将校であるが故にゴドフリーは推察していた。
まだアメリカは自信を失っていない。
大きな失敗をしていないからだ。常に他者を厚顔無恥に見下していれば、やがて大きなリスクを負うことになるだろう。
歴史の浅い移民の国には見えていないものもあるのかもしれない。
――世界の秩序。
きっと、それはいずれイギリスも、アメリカも。同じように首を絞めるような事態になるのだろう。
「僭越ですが、国民の感情は大事にしたほうがよろしいかと思いますが……」
ゴドフリーは自分の国の植民地支配を棚に上げてそう言うと、フーヴァーが応じた。
「内政干渉は結構です」




