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神々の黄昏 ― Vaterland ―  作者: sakura
XVII 地獄の門
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5 連続する世界

 ルーマニア王国外務大臣のミハイ・アントネスクはベルリンで数人の政府高官と会談を執り行った。その中にナチス親衛隊全国指導者であるハインリヒ・ヒムラーも含まれており、これはヒムラー側の打診によって非公式なものとなった。

「ラテン・ヨーロッパの……」

 ミハイ・アントネスクはしかめっ面のままヒムラーの言葉を思い出しながら、汽車での帰国の途中にあった。窓辺に頬杖をついて流れ行く景色を眺めてはいるが、実のところ風景など今の彼の頭の中には全く入ってこない。もっとも延々と続く森の緑の連続では、さして目に留めるほどのものもない。

「ラテン地方のユダヤ人政策が遅々として進んでいないことは外相もご存じのこととは思います」

 ヨーロッパ西部と、中部を含めた東部地域ではユダヤ民族に対する感情――主に憎しみや嫌悪感などに近いそれ――は全く異なるところがあった。まがりなりにも政府首脳部を構成するひとりとして、ミハイ・アントネスクもある程度は理解している。

 しかしそれを「利用」することもまた政治の一手段と言えるだろう。

「しかし、だからといって我らルーマニア王国には口を差し挟む義理などありませんぞ」

 ヒムラーに告げたアントネスクは、表情を一応取り繕いながら、小さく肩をすくめると親衛隊全国指導者を見返した。

 ――ラテンとロシアの連中が”我々”にユダヤ人を押しつけたのではないか!

 思わず喉から出かかったのはそんな台詞だ。衝動的な言葉をぐっと飲み込んで、ミハイ・アントネスクは警戒するように身構えた。ナチス党率いるドイツ政府が推し進める強硬な異民族排斥計画。それはルーマニア政府も知るところだった。そして、ドイツ(彼ら)の主張にイオン・アントネスク率いるルーマニア王国は便乗する形をとった。おそらくそれはヒトラーらを含めたドイツ首脳部にもわかりきっていることに違いない。

 それでも尚、彼らは主張しなければならないことがあった。

 薄汚い英仏連合共……――。

 苦々しい思いをかみしめながら、ミハイ・アントネスクはヒムラーの主張に耳を傾けた。

 西にも東にも居場所がないユダヤ人たち。彼らの存在を「また」ドイツ人たちが押しつけてくるつもりなのではないのか。

 そんな疑心暗鬼に捕らわれる。

「外相は、ホリア・シマをご存じですな」

 狂犬――ホリア・シマ。

 鉄衛団の親玉で、ルーマニア政府ですら彼らの存在には手を焼いた。イオン・アントネスクですらも彼らを制御することなどできなかった。

 ――手に負えない男。

 その言葉につきた。

「……それは、事実確認ととってよろしいのですかな?」

 逆に問いかけられて、ヒムラーは目玉だけを動かした。

 外交とは駆け引きの場である。笑顔をたたえてテーブルの下で互いの足を蹴り合うのは常識だ。

「別にルーマニアに”連中”を移送する計画があるわけではありません、アントネスク大臣」

 ルーマニアの国民感情も無視できない。過激な鉄衛団が全てというわけではないが、中欧、東欧独特のユダヤ人観は尚も健在だ。

 火のない所に煙は立たない、と言うもので、鉄衛団のような過激派が活発化するような土壌は当の昔にできていたと考えたほうが早いのかもしれない。

 それゆえに。

 同盟国であり、石油産出国でもあるルーマニア王国の国民感情を無視してはならない。軍事的協力者として彼らを慎重に扱わなければならないというのが、ナチス党(NSDAP)首脳部の一致した意見だった。

 なにせ石油がなければドイツ国内の産業を盛り上げることもできなければ、軍事活動のほぼ全てが立ち行かない。

 現代においてそれほど石油という化石燃料は重要な存在だった。

「では、あの犯罪者の”なに”を聞きたいのですか?」

 国家転覆を謀った犯罪者――ホリア・シマ。

「そもそも今は、シマはドイツの強制収容所……、確かブーヘンヴァルトでしたかな。そちらに収容されていると”伺って”おります」

 シマの率いる鉄衛団の引き起こしたクーデターは昨年の一九四一年一月に、ドイツの介入を得た首相イオン・アントネスクによって鎮圧され、その首謀者でもあるホリア・シマはブーヘンヴァルト強制収容所に収監された。

 危険な男である、というのがイオン・アントネスクと同じく、ミハイ・アントネスクのシマに対する見解だった。

「奴は、”極めて”危険な男です。親衛隊長官」

「知っております」

 ドイツ軍が介入しても尚、その鎮圧には三日もかかったこと。それをヒムラーが知らないわけではない。

「ですが危険だからこそ、使い道があるとも考えます」

「……先に言わせてもらうが、我がルーマニア王国の尊厳が傷つくことになるような事態はご遠慮願う」

 はっきりとミハイ・アントネスクが言い放つと、ヒムラーは丸い眼鏡の奥から探るような眼差しを向けて頷いた。

「もちろん」

 アドルフ・ヒトラーのドイツという国が、土壇場で信用ならない国であるとアントネスクも認識しているところだった。

 ヒトラーは信用してはならない。

 傲慢で、高圧的で、問答無用の瞬発力で敵と言う敵を叩きつぶしてきた近い過去。そして、多くの国がヒトラーの圧力に屈して「戦争」に引きずり込まれた。

 もっとも、ヒトラーの存在の有無の有り無しはともかくとして、いずれにしろルーマニアを含めた東欧、中欧諸国はスターリンの率いるソビエト連邦という凶悪な国家に蹂躙されていた。

 ヒトラーとスターリン。

 その存在がふたり同時に歴史の中に存在したことは、はたして偶然なのだろう。

 スターリンが存在しなければ。もしくはヒトラーが存在しなければ。そうした「仮定」の話しをしたところで意味はない。

 歴史に「もしも(イフ)」は”存在”しない。

「あの丸めがねの手下がなにを思いついたのか……」

 独り言を言うように、口の中でぽつりとつぶやいたアントネスクはそうして考え事に没頭していたせいで固まってしまった首の筋肉をほぐすようにぐるりと回す。

 そこまでしてからふと彼の記憶の中にひとりの少女が閃くように、思い出された。

 政府高官、要人が出迎える中、空港の壁際にナチス親衛隊の制服を身につけた青年将校に守られるように立っていたひとりの少女のこと。

 マスメディアの人間ともまた異なる雰囲気を身につけた彼女は、黒い腰までの長さの短いジャケットに、赤い親衛隊の腕章を身につけていたこと。膝上の短いズボンとそこから伸びる細いすらりとした足はタイツに包まれていた。長い金髪だけがひどく異質な気がしてアントネスクの意識をひいた。

「……彼女は誰だろう」

 そう思う間もなく、青年将校と少女の姿はミハイ・アントネスクの視界から消えてしまった。

 大きな青い瞳の、長い金色の髪の。

 子供が物見遊山で訪れるようなところでもない。

 そこまで考えてから、結局考えたところで意味などないことに気がついて小さく首をすくめると忙しないベルリンでの予定を終えて目を閉じた。列車の車輪が鉄道に響く音がやかましいが体を休めなければ帰国してからの激務には耐えられそうにない。

 ――あの人?

 確か、少女の声でそう聞こえたことだけは覚えている。

 それからルーマニア王国の首都ブカレストに戻ったアントネスク外務大臣はそのまま首相官邸にまで直行した。

 東で展開されたドイツ側とソビエト連邦側――要するに枢軸同盟国と英仏連合国との戦争はとりあえずの終結を見た。このため、同盟国として戦った多くの国の軍人たちが安堵に肩から力を抜いた。

 イタリアから派遣されたイタリア・ロシア派遣軍の指揮官ジョヴァンニ・メッセ将軍は無事に帰国の途に就いた。おそらく地中海を挟んだ対岸ではドイツ・イタリア両軍と、英米連合軍が対峙していたから、帰国したら帰国したでそちらに回されるのだろう、などと他人事のようにアントネスクは考えた。

 また、一九三九年の対ソビエト連邦戦で領土を失ったフィンランド共和国はその領地を取り返すことに成功した。

 噂ではフィンランド共和国の大統領リスト・ヘイッキ・リュティと、国防軍最高司令官カール・グスタフ・エミール・マンネルヘイム元帥は肩の荷がやっと下りたらしい。とはいえ、フィンランドもルーマニアと同様に小国だ。

 戦後処理というものもある。

 どちらにしたところで、東部における戦争は一応一段落した。

 ドイツとソビエト連邦。ふたつの巨大な国家の間で侵略の危機に晒されていた小国は、やはり戦争が終わってからも彼らに振り回されることになる。

 ドイツとソビエト連邦が、これからなにをしようとしているのかを見極めなければならない。

 外務省の執務室へ戻ったミハイ・アントネスクは、一時間の休憩を自分の秘書官に申しつけてごろりと室内に置かれたソファに横になった。

 揺れる汽車の旅では体が休まるどころではない。

 けれども、首相のイオン・アントネスクと比べてミハイはまだ若く精力的だ。少しの休養をとればすぐに仕事に復帰することができる。

 目を閉じた彼はそうして眠りの谷へと失墜していった。

「あの人?」

「そう……、彼がルーマニア王国の外務大臣、ミハイ・アントネスク閣下だ」

「結構若いのね、シェレンベルクと同じくらい?」

 小首を傾げた少女の声がアントネスクの鼓膜をたたく。

 無礼だなと思いながら、ミハイ・アントネスクはそれが夢だと知っているから声には出さない。

 いや、もしかしたら実際にベルリンのあの場所で聞こえていたのかもしれない。

 ドイツ語でごった返す中だったから、正直なところを言えばよく覚えていない。だというのに、「夢」の中だとわかっている今のアントネスクには、やけに明瞭に少女の声が響いて聞こえてくる。

「でもシェレンベルクのほうが格好いいわ」

 クスクスと木漏れ日が笑う声が聞こえる。

 まるで木々の葉がこすれ合うように、さざめくように。彼の耳に心地よく響いては波が砕け散るように消えていく。

「例えるなら、そうだな……」

 夢の中でアントネスクはつぶやいた。

「君の声は、まるで木琴のようだ」

 繊細な音を立てる木琴のような音。決して人の神経にやかましく鳴り響くことはなく、ただそこにあることだけを感じさせる。

 ころころと……。



  *

 マリーは列車の車輪とレールのこすれあう音に驚いたようにはっとして目を見開いた。

 驚いてきょろきょろと辺りを見回す彼女は、寄りかかっていた大柄な体がよく知るヴァルター・シェレンベルクのものではないことに改めて気がついて再び睫毛をしばたたかせた。

 どうやらスコルツェニーの話しを夢中で聞いていて、いつかそのまま彼の声を子守歌に眠ってしまったらしい。

「……オットー?」

 そっと少女が隣にぎこちなく姿勢を正して座っている男の腕に触れた。

「はい、少佐殿」

 細い指に触れたスコルツェニーの腕は硬くてマリーは質問を迷ってから口を開く。

「いつから寝てたの?」

「少佐殿は二時間ほど前からお休みになられていました」

 国家保安本部のアルフレート・ナウヨックスならこんなにも堅苦しい物言いをマリーにはしない。

「もう少し寝ていてもいいんですよ」

 ナウヨックスならもっと気安くそう言っただろう。

「……――」

 目を擦りながら問いかける少女に対して、スコルツェニーは少しだけ迷ってから、少女の体をコートごと力強く抱き寄せた。

 マントの上からでも彼女の体の冷たさが伝わってくる。

 筋肉量が少ない彼女は寒いのだということを、オットー・スコルツェニーはすぐに察した。

「毛布を持ってこい」

 自分が選抜した下士官に毛布を持ってくるように命じると、列車の外から忍び込んでくる寒気に固まってしまった少女の体が縮こまるようにスコルツェニーにしがみついた。

 やがて数分もしないうちに眠りの中へ戻っていく無防備すぎる彼女に、スコルツェニーはすぐに毛布を持って駆けつけた部下からそれを受け取ると痩せたマリーの体にかけてやった。

 大の男にしがみついているというのに、この危機感のなさはなんだろうかと思いながら、彼は腕の中で眠っている白い物体に視線を落とした。

「少しは男に警戒してください」

 ぼやくようにしてスコルツェニーは溜め息混じりの言葉を囁くと、狭いコンパートメントを通り過ぎかけた余り年齢の変わらない親衛隊将校の眼差しに再度姿勢を正した。

「寒さで熱を出すかもしれん、なにかあったら報告しろ」

「承知しました、シェレンベルク上級大佐殿」

 荒くれた男の傍にいるのに、彼女は少なからず危機感に欠ける。

 スコルツェニーはそう思った。

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