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神々の黄昏 ― Vaterland ―  作者: sakura
XVII 地獄の門
216/410

4 彼の名はラインハルト・ハイドリッヒ

 現代の戦争と、石油――要するに燃料との関係は切っても切り離せない。

 前線にあって戦線を支えるのにも燃料は必要であり、後方で車を走らせ、工場を稼働させて多くの物資を生産するためにも燃料は必要だ。要するに、石油とはありとあらゆる面で必要不可欠な資源とも言える。

 もっとも戦争のみならず、現代の生活を支えるためには石油という化石燃料は重要なものでもある。

 ペルシア湾を臨むイラクの港町――バスラ。

 ドイツ軍とソビエト連邦の反スターリン派によるバクー油田の制圧と、インドからエジプトにかけて流行した天然痘の被害、及びドイツに対するソビエト連邦の敗退によってソビエト連邦とイギリスを支援していたアメリカ軍にとってバスラはもはや重要拠点ではなくなっていた。

 これによりいつドイツ軍による攻撃を受けるかわからないアメリカの補給部隊は被害が大きくなる前に撤退を決断。バスラは事実上ドイツ軍に明け渡される形となり、一方のドイツ政府はコーカサス地方の油田地帯の確保と、黒海を臨むルーマニアとドイツ本国との石油輸送ラインの安全を手に入れることになる。

 一度は悪化しつつあった状況を盛り返し、勢力を拡大しつつあるドイツを中心とした枢軸連合国に大きく傾いた中東諸国は、親ドイツ政権に傾きつつあった。ただえさえ複雑な民族問題を抱えている地域だ。

 だが、ドイツとしてもコーカサス地方を占領したとは言え、大きなリスクは捨てきることができない。未だにこの地域のパルチザンによる反ドイツ組織による地下活動は活発に行われて、これに対処を余儀なくされているのが国家保安本部の行動部隊だった。

「なににせよ……」

 大きな溜め息をついたヴィルヘルム・カナリスは、「SS」と印刷されたファイルを放り出して首席補佐官を務めるハンス・オスター陸軍大佐を見つめた。

「北アフリカ方面を片付けなければならんな」

「……はい」

 オスターの返答を受けてカナリスは深く椅子に沈み込んだままで目を伏せる。

 一見しただけではヴィルヘルム・カナリスはとてもではないが腕利きの諜報部員には見えない。そうした不気味さをカナリスは備えている。

 カナリスはなにを考えているのだろう。

 オスターはそんなことを考えた。

 彼女――マリー・ロセターが国家保安本部に配属されて以来、その組織は大きく姿を変えつつあることをオスターは感じ取っている。おそらく、カナリスもそれを感じているのだろう。

 そして彼女の事を、カナリスはどう思っているのだろう。

「ひとつお聞かせいただいてよろしいでしょうか?」

 静かに彼が告げるとカナリスは「うむ」と言いながらけだるげに目を上げた。

「提督は、彼女についてどのように思われていらっしゃるのですか?」

「彼女というのは、マリーのことかね?」

「そうです」

 マリー・ロセターと名乗った彼女。今はオスターが与えたマリア・ハイドリヒという身分の少女を「保護」したことは本当に正しいことだったのかと訝しいものすら感じる。

「ナチス親衛隊などという組織に肩入れをすることは危険なことなのでは?」

 ならず者集団。

「肩入れはせん」

 短くカナリスはオスターに応じると、手元に放り出したファイルをめくった。

「だが、……そうだな、わたしもなぜ彼女が必要な子であると思ったかは、実のところよくわからんのだ。だけれども、彼女を守ることはドイツの誇り高く気高い魂を守ることだと思った」

 それは直感だった。

 彼女の存在を全力で守ってやらなければドイツの未来が崩壊すると、そう思っただけだ。なにが正しくて、なにが間違っているのか。そんなことは今この瞬間に判断することではない。

 善も悪も、決して普遍的なものではなく、その時代によって大きく変化し。そしてその思想も時を経て変化していくもの。

 政治家や、歴史、そして思想、事象、宗教、ありとあらゆる問題が複雑に絡み合って現在が存在し、未来がある。

 それを無視することはできないし、もしかしたら、とカナリスは時折思う事もある。もしくは彼女を保護したことこそ大きな過ちとなるのかもしれない。

 世界を煉獄に巻き込むのは自分自身なのか。

 死ななくて良い人間までも殺すことになるのか。極悪人を生かすことになるのか、それは今のカナリスには理解できることではなかった。

「わたしにも彼女の存在が、このドイツにとってどんな影響を及ぼすことになるのかはわからんのだよ」

 カナリスが初めて病院でマリーと出逢ったときに感じたもの。それは「彼」と接していたときに感じたものとよく似ていて、言葉使いも、性別も、顔立ちも、何もかもが全く異なりながら、たったふたつだけ、彼女は彼と同じものを持っていた。

 金色の髪と、青い瞳。

 それ以外は全くの別物。

 だけれども、彼女は「彼」なのだ。

 それはカナリスの感じた確信。

「わたしは、神の怒りを買うに値するのかもしれんな」

 ファイルをじっと凝視するカナリスは低く笑ってから目を上げる。

「……彼女は、親衛隊のシェレンベルクと共にストックホルムに向かったそうだ」

「そうですか」

 親衛隊情報部の高官にして、今は亡きラインハルト・ハイドリヒの寵愛を受けた愛弟子――ヴァルター・シェレンベルク親衛隊上級大佐。

 一説にはごくつい最近、親衛隊全国指導者ハインリヒ・ヒムラーによって、親衛隊少将の地位に推薦されたと聞く。

「自ら断った理由は未確認ですが、どうも推薦された理由が大したものではなかったらしいとのことです」

 シェレンベルクは驚くほど上昇志向の強い青年だ。裏を返せば人一倍権力欲が強いということにもなるが、どちらにしたところでヒムラー、あるいはヒトラーのご機嫌取りばかりをしている面々の中にあってはかなり異色の存在だった。

 もっとも愚鈍なヒムラーはそんなシェレンベルクの一面には気がついていない様子であるが。それはそれで国防軍情報部としては都合が良い。

 ハイドリヒの寵児にして、異端の”魔女”。

 それがヴァルター・シェレンベルクだ。

「それなら知っているよ、オスター大佐」

 カナリスがファイルを眺めながら言葉を綴った。

「見境のないゲッベルスが、マリーに手を出そうとしたらしい。間一髪でシェレンベルクがマリーを助け出してその功績だとかなんとか」

「……ゲッベルス大臣が、ですか?」

 思わずその光景をうっかり想像してしまったハンス・オスターが心底嫌そうに眉をひそめると、執務机の端に乗っていた老眼鏡に手を伸ばしながらカナリスが言う。

「どうにもナチの連中には貞操観念というものがないと見える」

 官房長も然り。

「自分は魅力的だなどという妄想がどこから湧いてくるのか、まったくもって理解不能ですな」

「うむ」

 四十代半ばの男が十代半ばの少女を押し倒すなどなんとも気持ちが悪い話しである。同意があれば問題ないが、ゲッベルスのことだからおおかた一方的にマリーの気持ちなど無視して手を出したのだろう。

 自意識過剰にも程がある。

 一蹴したハンス・オスターにかすかに笑ったカナリスは、けれどもどこか安堵した様子で肩をおろしてから「なんにせよ」と言葉を続ける。

「彼女が無事で良かった」

 勝手な男にひとりの女性の一生が台無しにされる事態は見るに堪えないものがあった。いかに自分が優秀な人間であるのだと自負していても、他者の評価の伴わない自己評価などたかが知れている。

 だから、とカナリスとオスターは思う。

 ヨーゼフ・ゲッベルスにしろ、マルティン・ボルマンにしろその程度の器の男でしかない。

 ――取るに足りない。

 ふたりの国防軍情報部の情報将校の評価はただそれだけでしかなかった。

「彼女が何者であるのかはともかくとして、ひとりの少女の人生が勝手な男の妄想で踏みにじられて良いものではありません」

 オスターもカナリスに同意してから、ソファに座り直してから首を傾げた。

「ひとつの可能性、としての話しですが、よろしいですか?」

「言いたまえ」

「ありがとうございます」

 礼を取ってからオスターは続けた。

「仮に……。……――仮定の話として聞いてくださって結構です」

 そう前置きして、オスターはじっと目前の虚空を見つめてから考え込むと再び視線を上げる。

 カナリスが「静」であるならば、オスターは「動」だ。

「仮に、ハイドリヒが生きていたら、彼はどうしていたと思われますか?」

 問いかけるオスターに、ヴィルヘルム・カナリスはじっと考え込んだ。

 (けだもの)――ラインハルト・ハイドリヒが生きていたならばどうなっていただろう。

 彼が暗殺されてから約四ヶ月。

 もう少しで冬が訪れる。

 その間に、ドイツの戦況は好転し今や東部に展開した多くの兵員たちが帰国の途についている。

 彼が生きていたら、言いたいことはたくさんある。ありすぎてなにから先に言えばいいのかわからないくらいだ。それは良いことばかりではない。

 実際、ハイドリヒが殺される直前の、カナリスとハイドリヒの関係は間にシェレンベルクが入らなければ成り立たないほど緊張していた。それを考えれば、ハイドリヒに対する思いは決して良いものばかりではない。

 しかし、ナチス親衛隊という組織が、ハイドリヒを抜きでは成り立たない事実も現実として存在していたこと。

 ハイドリヒという男が、ヒムラーとヒトラーのナチス親衛隊という巨大な組織をコントロールしていたのだ。そのブレーキがなくなったことがどれほど恐ろしいことであるのか。それはカナリスもわかっていたつもりだった。

 事実ハインリヒ・ヒムラーは、ハイドリヒが死んで以来自分の威信を取り戻すべく活動をはじめていたこと。それをカナリスは知っている。

 無能な男がいくら頑張ったところで優秀になれるわけではないというのに。

 地位と権力には義務や嫉妬がつきまとうものだというのに。

 愚かなハインリヒ・ヒムラーはそれをわかっていなかった。そしてそんな間抜けなヒムラーを押さえ込み続けていたのが、欲望と権力の権化とも言えるラインハルト・ハイドリヒ。

 肥大した彼の権力をヒムラー自身が恐れていた男。

 ハイドリヒが死んだことによって、自分を含めていったい何人の人間が安堵したか知れない。

「”彼”が生きていたら、か……」

 物憂げにぽつりと言葉を吐きだしたカナリスに視線をやったオスターは、そうして静かに上官の言葉を待った。カナリスと比較すればせっかちだの活動的だなどと言われることもあるが、決して計算していないわけではない。

「彼の考えていたことはわからんからな」

 ただ純粋に自分の権力の拡大を願い、望んでいた。

 それだけでしかない。

「けれども、権力というのはひとりで勝手に声高に唱えたとしても、所詮お山の大将でしかない」

「――……」

「権力とは……。特権とは、それを”認める”第三者がいてこそ成立するものだ。貴族と平民がいて、王族がいるように。差別化されることにこそ意味がある。ハイドリヒは決して一番上に立つことを望んだわけではないのだろう」

 最低限の言葉でラインハルト・ハイドリヒの生き様を分析したカナリスは、オスターの視線を受けてから口元だけでほほえんだ。

「彼には、それがわかっていたのだよ」

 だから、彼は決して国の頂点に立つことなど望んでは居なかった。

 彼はナンバーツー(ツヴァイ)であることを望んでいた。

「……ハイドリヒが生きていたら」

 そこまで独白するように言ってから、ヴィルヘルム・カナリスは思い当たった可能性にギョッとしたように言葉を飲み込んだ。

「提督?」

 そんなカナリスにオスターが訝しげに言葉を投げかけた。

 「ハイドリヒはナンバーツー(ツヴァイ)であること」を望んだ。それは、つまるところ国家の頂点に立つだろう権力者など「誰でもいい」と言うことを指している。

 もしもラインハルト・ハイドリヒが生きていたら、自ら権力の拡大に勤しみつつ、自分にとって「不要な」人間の排除を行うだろう。そして彼にとって「不要な人間」は、彼以外の全ての人間を指し示す。

 ――そういうこと。

「いや……、彼は”死んで良かった”のだ」

 ”殺されて”良かった。

 カナリスは悲しげに笑ってからファイルの中に挟み込まれていた白黒の写真を指先でつまみあげた。

 夏場に撮影された写真だろう。

 肩口を束ねた飾り紐で縛った裾の長いドレスを身につけて、どこか危うげな印象の華奢な少女は左腕を吊っている。そうして利き手で日傘をさして、ちょうどカメラマンに振り返るような視線をやった。

 穏やかな午後の日差しを感じさせる光の中で、色素の薄い長い髪の少女がにっこりと笑っていた。

「”彼”が死んで、……”君”がきたのだ」

 ハイドリヒが死んだからこそ、君がきたのだ。

 嘆くように口の中でつぶやいたカナリスは、そうして左手の平で顔をおおった。



 ――わたしは、大きな間違いを犯した。だから、その”間違い”を正さなければならない。

 男性にしては高い声が、カナリスの耳の奥に響いたような気がした。



 ……互いに(しのぎ)を削った者として、ハイドリヒの魂に、カナリスの魂が共鳴する。

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