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神々の黄昏 ― Vaterland ―  作者: sakura
XVII 地獄の門
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3 報復

 シェレンベルクに連れられてマリーがプリンツ・アルブレヒト・シュトラッセに連れ戻された。数時間という短い時間だったが、事が事だ。無事に帰ってきたマリーをエントランスで出迎えた――こんなところでお待ちにならなくてもよろしいのではありませんか、と再三部下たちからは説得された――国家秘密警察(ゲシュタポ)局長のハインリヒ・ミュラーは、少女の全身を何度も上から下まで確認するといささか血色の良くない顔で口を開いた。

「何もされはしなかったかね? 汚らわしい男の手で触れられて気持ちが悪かっただろう」

 なんとも支離滅裂なミュラーの言葉に、マリーはにっこりと笑うと「ただいま戻りました」と言った。

 シェレンベルクの報告も待たずにどこかおろおろとしている様子は本当の父親のようにも見える。壊れ物を扱うようにマリーの肩に触れたミュラーにシェレンベルクは深々と大きな溜め息をついた。

「ミュラー中将」

 コホンとシェレンベルクが咳払いする。

「見ての通りマリーは無事ですから、どうか落ち着かれてください」

「別になにもされていません」

 マリーもシェレンベルクの言葉を引き継いでにっこりと笑うと、ミュラーはそこでようやく安堵に怒らせていた肩をおろした。

 けれども……――。

 マリーのそんな反応に、ヴァルター・シェレンベルクは眉をつり上げた。

「そうか、それならば良かった」

 シェレンベルクの心中を知らずにそう応じるミュラーを眺めながら、青年は表情を変えないままで考え込んだ。

 「良かった」というのはミュラーの紛れもない本音だろう。それは彼の眼差しを見ていればわかることだ。まるで親子のように歳の離れたふたりのやりとりを見やってシェレンベルクは思考を巡らせている。

 宣伝省では真っ青になるほど怯えも見せたというのに、今のマリーはどうだろう。けろりとして何事もなかったような顔をしている。

 ――別に何もなかった。

 彼女はそう言った。

 宣伝省の応接室では自分よりも倍以上年上の男に襲われかけたというのに、彼女はすでにけろりとしている。

 少々長い時間、車で移動していたからその間に落ち着きを取り戻したというのもあるだろう。しかし、それでも権力を笠に着て襲われそうになったのだ。なのに、どうして彼女は今、なんでもない顔をしていられるのだろう。

 怯えて震えるのが普通ではないのか。

 シェレンベルクが訝しげな顔つきでマリーを見つめていると、そんな彼の視線に気がついたのか少女は顔を上げる。

「シェレンベルク?」

「……マリー、君は本当に大丈夫なのかね?」

「はい?」

 シェレンベルクの問いかけにマリーは笑顔をたたえたままで首を傾げる。

「む?」

 ふたりのそんな思わせぶりなやりとりを耳にして、ミュラーが不審そうな反応を見せた。

「後ほど、報告書をまとめます。中将」

「……ふむ」

 この男が出てくると問題がややこしくなる。

 シェレンベルクはそう思ったが口には出さない。

 さらりとミュラーを受け流して、青年は表情を改めた。少なくとも被害者――というほどのものでもないが――の当人を前にして、話題にするような内容でもないと思ったし、ミュラーを前にしてマリーがゲッベルスになにをされたのかと聞くのも、それはそれで無用な現状の混乱を招きかねない。

 そう考えるとシェレンベルクはゲシュタポ・ミュラーの前で、マリーに事の真偽を問いただそうという気にはなれなかった。

 マリーと接することによって、随分と穏和になったミュラーだが彼の強権は未だに健在である。

 ゲシュタポの「特権」と、夜と霧。

 ミュラーが私情に走って特権的な捜査権を問答無用で行使する可能性がある。ゲシュタポは、元来そうした政治警察である。

 権力者たちが、自由に振りかざす圧力の権化(ごんげ)

 ――今はまだ、彼を焚きつける時ではない。

 もっともシェレンベルクが焚きつけなくとも、報告書を提出すればどのみちミュラーは自分の権力をマリーのために振りかざすだろう。

 マリーのため、というところには腑に落ちない物も感じでないではないが、今現在のミュラーとネーベの巨大な警察権力という特権は、シェレンベルクが権力を掌握する段階では必要不可欠なものだった。

 そんなミュラーはだいぶ「人間らしく」なった。

 彼を焚きつければ簡単に済む問題も多いが、ゲシュタポを指揮するミュラーが失脚するという事態は余り好ましくない。

 ミュラーとマリーの関係性をいくつかの方面から考察しながら、結論として「マリーを傷つけた者の粛正」という予定調和的な未来を推測してそっと息をついた。

 形式的にミュラーに礼をとって、シェレンベルクは特別保安諜報部にマリーを引き渡すと、そうして自分の執務室へと引き返した。

「ベスト中将には連絡をいれておく。マリーの訊問をしろ」

 一時間以内で報告書をまとめて持ってくるように、と部下に対して容赦ない指示を下して腕時計を見た。

 次から次へと問題が「湧いて」くる。

 これが国家保安本部の日常だ。

 頼んでもいないのに、次から次へと問題という問題が舞い込んできて、彼ら警察官僚たちはそれらを逐一処理している。それらは組織の内部的な問題であったり、政策的な問題であったりと実に様々だ。しかし、結局問題の処理は彼ら自身――つまるところ国家保安本部へと回ってくるわけだから、後回しにするだけ無駄な努力というものだった。

「承知いたしました」

 ですが、とシェレンベルクに部下が訝しげな眼差しを向ける。

「よろしいのですか?」

「マリーは嘘などつかないだろうから、聴取したことをまとめればいい。簡単なことだ」

 彼女は嘘をつかない。

 小さな嘘も、大きな嘘も。

 嘘という嘘を、彼女は口にしない。そしてだからこそそんな彼女が時に恐ろしく感じることもある。

 裏表がない人間などいるわけがない。

 人というものは、ありとあらゆる顔を持っているものでその時々に応じて仮面を付け替えて生活している。シェレンベルクのような生粋の諜報部員のそれとはほど遠いが、人間とは得てしてそんなものだ。

 けれどもマリーには不思議なほどに”それ”がない。

「それはわかっていますが……」

「どうにも気が乗らない、か?」

「はい」

 マリーは嘘をつかない。

「別に薄暗い訊問室でやれとは言わん。マリーと茶飲み話でもしてこいと言っているだけだ。うまいケーキでも用意してやればマリーもおしゃべりする気になるだろう」

 嘘もつかなければ、暴力的なわけでもない。手練れの商人たちのような計算高さもなければずるがしこさもない。そんな相手と話しをするだけの簡単な仕事。

 シェレンベルクの説明に要領を得ないまま、国外諜報局の局員にあたる諜報部員は青年から一冊のファイルを受け取った。

 そこにはヴァルター・シェレンベルクからの大まかな指示が記されている。

 ヨーゼフ・ゲッベルスの宣伝省情報局主導によるマリーの身柄の拘束は、素早いシェレンベルクの状況判断によって即刻事件は解決に導かれた。

 報告の全てが国家保安本部長官エルンスト・カルテンブルンナーが耳にしたのは当日の夕方――かなり遅くなってからの時間で、彼はヒトラーのように半狂乱になって怒り狂うようなことこそなかったものの、即座にミュラーとネーベに命令を下してゲシュタポとクリポの双方を出動させた。

 ――宣伝省内部に潜伏する反体制分子を一網打尽にせよ。

 このエルンスト・カルテンブルンナーの号令でわずか数日の内に宣伝省情報局の諜報部員の、おおよそ半分ほどがゲシュタポの尋問を受けることになった。

 宣伝省によるマリーの拉致は結果として、彼ら自身の力を大きくそぎ落とし、自ら首を絞める結果になる。要するに国家保安本部の権力が大幅に強化されたことになったのだ。

 特にヨーゼフ・ゲッベルスと結びつきの強い一部の諜報部員たちはそのまま強制収容所に送られた。

 この事態にゲッベルスは逮捕の理由を開示せよと強く迫ったが、国家保安本部はゲシュタポの特権と「夜と霧」の法令を盾に頑として要求を受け付けなかった。

「開示すれば都合の悪いことでもあるのではないか」

 自分のことを見事に棚に上げたゲッベルスの言葉に不快感を示したのは親衛隊全国指導者のハインリヒ・ヒムラーで、彼はゲッベルスに対して「ゲッベルス大臣こそご自身の立場をわきまえられてはいかがですかな?」と言葉を返したらしい。

 ちなみにシェレンベルクはマリーの救出劇の功績で親衛隊少将に推薦されたらしいが、本人はこの推薦を自分の功績ではないと辞したということだった。

「たかがこんなことで高級指導者の地位を乱発していては、親衛隊内部は形ばかりの高級指導者であふれてしまうと、親衛隊長官閣下にさりげなくお耳に入れていただければ助かります」

 シェレンベルクはそうして、ヒムラーの側近中の側近である整体師――フェリックス・ケルステンにほほえんだ。

 知的で物腰の柔らかい青年は、どこに行っても好ましい印象を他者に与えている。

 そんな彼に特に意図するところがあるわけでもなく、ぽんぽんとものを言う少女のことをヒムラーが気に入っていることも知っている。時折、彼女と話しをした後は顔色の悪いこともあるが、ヒムラーの顔色が悪いことは昨今のことではない。

 いつもヒムラーはなにかに怯えている。

 ハイドリヒが生きていた頃は、ハイドリヒと、自分の周りを取り巻く人々に。

 そしてハイドリヒが亡き今は、ハイドリヒの影に怯えている。

 人の顔色ばかり窺っているから体の具合が悪くなるのだ。やれやれと溜め息をついたケルステンは穏やかにシェレンベルクの言伝を受けとった。

 腕利きの国外諜報局長をじっと見つめるケルステンに、シェレンベルクが「なにか?」と問いかけると、ヒムラー付きの整体師は「いいえ」とかぶりを振りながら背中を向けた。

 そんな彼を見送ってからシェレンベルクは息を吐く。

 無能の指導者など必要ない。

 マリーに性的な意味で手を出そうとしたゲッベルスはある意味で失態を犯した。奇妙な表現になるが、それによってゲシュタポと刑事警察がやる気になったことで国家保安本部の権力がさらに強固なものとなった。

 ゲッベルスの情報局の力を削ぐことができたというのは、情報網の掌握という意味でも大きなものだった。

 マリーがそこまで計算していたのかは正直怪しいところがあるが、不思議なもので彼女はいつも大きな摘発に関係している。

 総統官邸の不穏分子の摘発の時も。そして、スイスの赤いオーケストラ(ローテ・カペレ)の摘発のときもそうだった。




  *

「準備は整いました」

 オットー・スコルツェニー親衛隊中尉から一通りの報告を受けたのはシェレンベルクが、ケルステンと会った翌日。十月の半ばもとっくに過ぎた頃だ。

「いつでも出動できます」

「そうか、ご苦労」

 スウェーデンのストックホルム行きの予定が迫っていた……。

 ベルリンも冷たい空気に包まれるようになり、冬の足音が近づいてくる。

 ヨーロッパ南部ではすでに国防軍によって北アフリカ戦線における作戦が見直されたということだった。

 どちらにしろ、これ以上アメリカ合衆国を含めた連合軍を化かし続けられるのも時間の問題だった。

「人とは置かれた状況に適応するものだからな」

 戦争中となればなおのことだ。

 彼らは死にものぐるいで対抗策を打ち出してくるだろう。

 そうして時間が流れつつある一九四二年十月二八日――シェレンベルクの率いた親衛隊情報部のストックホルム訪問団が汽車でデンマークへと向かうことになる。

 白いロシアンハットに、同じ素材で作られた白いマント。首から白いマフをぶら下げていて、手袋は夏毛の野ウサギを思わせる明るい茶色だ。

 冷たくなりつつある風に金色の長い髪を舞わせながらマリーは、駅で自分たちを出迎えた親衛隊の警護部隊に青い瞳をぱちりとまたたいた。

「スコルツェニー中尉、貴官に彼女を任せる。ハイドリヒ少佐だ」

 シェレンベルクがスコルツェニーに紹介したのはロシアンハットにルーン文字のSSの徽章をつけただけの金髪の少女だった。

「マリーです」

「……――ぜ、全力でお守りいたします」

 スコルツェニーの声が上ずったのはやむを得ないだろう。どんな高官の警護かと思えばちんちくりんの栄養失調を想像させる少女なのだ。

 彼女はマリア・ハイドリヒ少佐であると、シェレンベルクはそう言った。

 大きな革製のトランクを重そうに引きずっている少女に、見るに見かねたスコルツェニーは手を伸ばした。

「俺が持ってやる」

「はい、ありがとう」

 親衛隊中尉のスコルツェニーの物言いは本来であれば無礼なものであったのかもしれないが、マリーは特別気にした様子もなく大柄な彼が軽々と自分のトランクを扱っているのを見て目を丸くした。

「……失礼しました」

 いかに少女とは言え、スコルツェニーにとってマリーは上官であって、マリーにとって彼は部下である。今さらの様にとってつけたような謝罪にマリーは朗らかに笑うと手袋をした華奢な手をトランクを引いている手に重ねて感心した様子で素直な声を上げる。

「大きい手ね」

「本官と少佐殿では体格に差がありすぎます」

 護衛部隊の隊長の堅苦しい言葉使いがなぜだか気に入ったらしいマリーが、気安い声をかけながらまとわりついて執拗に質問を繰り返して、それに困惑しながらも応じているスコルツェニーというのは風変わりな光景だった。

「なんて呼べばいいの?」

「中尉で結構です」

「え……? 中尉オーバーシュトゥルムヒューラー……?」

 案の定舌を噛んだマリーが片目を細めた。

「……言いづらいわ」

 汽車に乗る前から機嫌を損ねてしまったマリーがふて腐れてそう告げると、スコルツェニーがどんな態度を取れば良いのかわからないまま肩を落とした。

「スコルツェニーでも、オットーでも、なんとでもお呼びくだされば……」

 そうスコルツェニーが言った矢先、マリーは相手からの許可が出たことが嬉しかったのかぱっと目を輝かせた。

 そうして少しだけ考えてから口を開く。

「……じゃ、オットーね!」

 身長二メートルの大男に小柄な少女がまとわりついている。事情を全く知らない者がいれば背徳めいたものを感じるのかもしれない。

「カルテンブルンナー博士よりも大きいの?」

 マリーの楽しそうな声が聞こえてシェレンベルクは少し離れたところから、ふたりの様子を眺めて頭上の空に視線を上げた。

 マリーにとっては国家保安本部に入職してから初めての旅行だ。

 楽しみで仕方がないのだろう。

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